走る千冬に連れられるまま、近くの教室棟の使われてない部屋に飛び込む。
「はぁ、はぁ、はぁ…はぁー……」
千冬は、教室に飛び込んだ勢いのまま、教卓の上に上半身を寝かすようにして突っ伏した。
俺の手は放さないから、俺も千冬の横で息を整え、そのうち、どちらともなく声を上げて笑った。
こんな風に全速力で走ったのは、久々だ。
「はぁ…。伊織先輩、どうして最後まで見ててくれなかったんですか?」
笑いがおさまると、教室のひんやりした空気が、俺たちの熱を少しずつ冷ます。
窓一枚隔てた外では、ステージショーと、それを楽しむ観客の声が響いていた。
教卓に頬をつけた千冬は、甘えるような眼差しで俺を見ている。
千冬が少し体を動かすと、眼鏡が音を立て微かにずれ、黒のウィッグはくしゃりと机上を撫でた。
「なんで、って…」
「…僕、頑張ったんですよ?」
西陽の射す教室。
繋がれた手が、ブラブラと揺らされる。
さっきまでステージ上であんなに激しく歌っていた奴と同一人物とは思えないくらい、今は甘えん坊で、ご褒美を欲しがる子供そのものだった。
顔にもうっすら汗をかいていたんだろう、低い位置の太陽が、千冬の汗をキラキラ照らす。
まるで、頬と鼻の上に、細かな宝石を散りばめたかのように、絵のように美しく輝いていた。
「伊織先輩。『断トツで1番カッコいい』は、…誰ですか?」
「………っ、」
静かな質問。
揺らされていた手に、指が絡められる。
「……そんなの…、…ち、ちふ………」
「影山くんっ、ご、ごめんね、忙しいのに…!」
「んぁー?ええけど、用ってなんやねん?どこまで行くん?」
廊下から聞こえてきた、柚月と、カゲヤンの声。
二人で顔を見合わせ、先に反応した千冬が俺を教卓の下に連れ込んだ。
「伊織先輩っ、こっち!」
「っ、」
俺を教卓の下に押し込み、千冬もその中に身を潜ませた。
千冬が俺の口を手で塞ぐと同時に、二人が教室内に入って来る。
「えっと、影山くん、ここで…。」
「おん?」
千冬は膝を床につけ、正座から半分立ち上がったような姿勢で、俺の顔の横に片手をついてバランスを取っている。
俺は千冬の脚の間で、口を塞がれたまま膝を折り、体操座りの格好だ。
上が狭いせいで、ほとんど千冬が俺に覆い被さるような体勢になってしまっているけど。
…狭い箱の中、すぐ近くにある、俺を見下ろす端正な顔。
千冬はイタズラを楽しむかのように、ゆるりと微笑んだ。
反射した西陽を受けて、眼鏡の奥の長いまつ毛の先が、繊細に輝く。
「私、前に影山くんに、バスで助けてもらったことがあって…」
「そうなんや?」
「あの…、その時からずっと……、影山くんのこと、……気になって、ました」
「……おー」
千冬の体が支えにしていた腕を曲げ、俺に顔を近づける。
ぎゅっと縮まる距離。
熱い体。
汗の匂い。
「…伊織先輩、体、キツくないですか?」
千冬の顔が近づき、耳元で囁いた。
俺は肩がビクンと跳ねてしまい、視線を落とし、頷いた。
膝に千冬の腹筋が当たると、千冬はくすぐったいのか、微かに身じろぐ。
再び目だけで見上げてみると、千冬は首を赤く染め、眉を寄せて笑っていた。
その、妙に色っぽい笑顔に、心臓がドクンと脈打つ。
黒髪の千冬は、なんだか大人っぽい。
高校生みたいでもあるのに、いつものピンク色の柔らかい雰囲気が塗り替えられて、…ドキドキが止まらないほど、…けぶるような色香を放っている。
「影山くん、よかったら、私と…つ、付き合って、ください…!」
「…わ、……ほ、ほんまに…?」
柚月の緊張がうつってしまったんだろうか。
触れたところから感じる千冬の体温と、耳元で聞こえる熱い吐息に、俺は、逆上せそうなほど身体が熱くなってしまう。
やり場のない熱に、生理的な涙が浮かぶ。
それに気付いた千冬は、一瞬、目を見開くと、俺の口を塞いでいた手をゆっくり下ろす。
下りていく薬指と小指が俺の下唇を軽く引っ掛け、唇の内側の湿りを擦っていった。
眼鏡の奥の、ほろ苦いコーヒーのような瞳が、半分だけ、瞼の下に隠される。
千冬の柔らかな唇が、物欲しそうに薄く開き、目が、吸い寄せられた。
「…、あ、ありがとうな?…えっと……、ほな、…よろしく…な…?」
「…っ!う、嬉しいっ!」
「わあっ、い、いきなり抱きつくとか、めっちゃ積極的やん…」
「あ…、ご、ごめん…っ!つい…」
「ええけど。…なんやろ。…柚月チャン、急にめっちゃ可愛く見えてきたわァ」
「あははっ」
脈が速くなる。
胸の奥は、甘く疼く。
俺の好きな焦茶の瞳は、ざらめを溶かしたように、ドロリと甘さを垂れ流した。
キス…、される、な。
目を閉じると、それを合図とするように、唇に柔らかい感触。
心臓の音が、胸の奥の甘い疼きが、身体中の神経を支配した。
教卓の外で仲睦まじく話す友人らの声が羞恥を煽るも、唇の甘い熱に全て持っていかれてしまう。
頬に感じる落ち着いた息遣いに、俺の息も上がる。
「はぁ。柚月チャン、名残惜しいんやけど、そろそろ戻らなアカンねん…」
「うん。私も行く。一緒に戻ろう?」
「へへっ、せやな!」
二人の足音が教室を出ていくと、俺の口を啄んでいた千冬の唇が、少し下へ当て直される。
それは俺の下唇を挟み、むにむにと優しく圧迫する。
欲しいものをねだって、「ねぇねぇ」と甘えて呼びかけるような、そんな唇の仕草。
「…伊織先輩、目、開けて」
「…ん…?…っ、」
言われた通りそっと目を開くと、千冬はそのままキスを再開した。
眼鏡の奥の甘い焦茶に見つめられたまま、唇を喰まれる。
金属板でできた狭い教卓の中に、二人の息遣いと、唇が触れ合い離れる音がいやに響いた。
触れて、吸われて、撫でられて…。
心臓が、潰れそうなほど、きゅんと痛んだ。
俺を見つめる熱っぽい瞳は、じっと見つめながら、貪欲に欲している。
黒髪の隙間から、俺の瞳の奥を覗き込む濃い栗色。その視線に、背中がゾクリと震えて、呼吸は浅くなっていく。
恥ずかしいから目を瞑りたいのに、千冬の目が、それを許さない。
恥ずかしい、好き、気持ちい、好き、すき…。
暗い栗色に熱を上げられ、頭がバカになってしまったようだった。
必死にキスを受け止める唇から、短く息を漏らすことしか、できない。
「はぁ…っ、せん、ぱい……、」
「ん、…ぁ…、はっ、…んぁっ!」
長いまつ毛を伏せた千冬が、俺の耳輪を指先でゆっくり撫でた。
眉を下げ、とうとう目を瞑ってしまう。
ビクビクっと背中と脇腹の辺りが反応して、助けを求めるように千冬の腕に手をかけた。けれど、唇と耳に与えられる甘い刺激に耐えられず、その手は何の功績も残さず、力無く千冬の腕を撫で落ちる。
「はっ、…かわ、いい…っ、」
「…んぅ…っ、ぁっ…」
「先輩、…」
千冬が呼びかけた瞬間、下唇の下辺に生ぬるいものがぬるりと触れた。
「口、開けて…?」
急くようなその囁きに、俺の身体はビクッと固まった。
目を見開き、色っぽい深いチョコレート色の瞳を見る。
開くよう言われた口は、固まったまま動かない。
「………、はぁっ…」
千冬は俺の反応に気付くと、散々貪っていた唇を離した。
俺の顔の横についてた腕に、寄りかかるように額をつけ、顔を伏せた。
「………っ、はぁ…、はぁ……」
キスの余韻を引きずる、浅い呼吸を繰り返す。
上下する肩と、黒い頭を、俺は困惑したまま見つめた。
「………ごめん、なさい…。……まだ…、イヤ、でした…よね……」
俺の顔のすぐ目の前にある千冬の赤い首筋は、焼けるほどの熱を放っていて、俺の顔も、更に熱くなる。
「い…今、のって………な、何、しよう…と……」
「……ディープキス、しようと…しました」
ディープ、キス。
足元から全身がカッと熱くなる。
「そ、そ、そんなの…、俺……」
したことはない。
でも知識としては知っている。
いつもの、唇を合わせるだけのキスとは違う。
もっと深くて、濃密な…やつ。
ちょっと、…エロい、やつ……。
「………千冬…は、……それが、したい…のか…?」
俺の質問に、千冬は壁についていた手を下ろし、俺から体を離した。
教卓から少し出たところで、片膝を立てた格好で座り直し、長い足に腕をかけ、ふぅ、と息を整える。
視線をやると、決まりが悪そうに目を逸らされた。
そして、悪事を白状するかのように、小さな声が躊躇いがちに答えた。
「……もちろん、したい、です」
「………」
胸の奥がぎゅっ、となった。
顔を赤くしながら、自分の欲を素直にぶつけた千冬を、愛おしく思う気持ち。
千冬が本当に、俺を「そういう対象」に、見ていたことへの、驚き…。
そして、それらを上回る、自分が千冬の「したい」に応えられるのかという、不安と緊張……。
手のひらの温度が急激に消えていく。
「伊織先輩が、よければ…、…その先も…、俺はしたいです」
「……っ…」
「…伊織先輩が、…欲しい」
真剣に俺を見つめた千冬の顔は、夕日に染まっても分かるくらい、赤く色付いていた。
無意識に唇を噛み締める。
床に触れる指先にも、力が入った。
千冬の視線を避けるように、真っ赤になった情けない顔を伏せた。
「……先輩は…、…嫌、ですか…?」
声の聞こえた方向から、千冬が顔を背けたのが分かった。
その言葉は微かに震えていて、恐怖を滲ませているように聞こえる。
「……俺は、まだ…、そこまで、したい…とか…、思えねぇ…から……」
教室の床の細かな模様を、無意味に見つめた。
付き合っているのに、こんな風に拒むのは、おかしいんだろうか。
好きなのに、こんな風に思うのは、変なんだろうか。
千冬は、こんな恋人をどう思うんだろうか…。
千冬が体勢を変えたのか、布が擦れる音がした。
「……『まだ』、思えない。…ですか?…それなら、……伊織先輩も『したい』、って思ってくれる可能性は、あるんですよね?」
「…………」
目を逸らしたまま、沈黙を続ける。
そんなこと言われても、約束なんてできねぇよ。
俺は、千冬と手を繋いだり、ハグしたり、唇が触れるキスでも十分幸せだし、心臓は痛いくらい跳ねる。
…それ以上のことなんて、どう踏み出していいか…。自分は本当に望んでいるのか…。
想像すら、つかない。
「…僕は、伊織先輩の全部が欲しいです」
「……」
「伊織先輩の、心も欲しいですし、体も…、欲しいです。それでいて、伊織先輩には、僕なしじゃダメなくらい、僕を求めてほしい…」
狭い視界に、千冬の綺麗な指先が映った。
千冬が床に手をついたんだ。
指先から体を登らせるように、千冬の顔を見上げた。
黒髪の綺麗な男は、体を乗り出し、俺に顔を寄せる。
「それなら……、伊織先輩が、僕を欲しくなるまで、僕からは手を出しません」
「え…?」
必死に見えた栗色の瞳は、ゆっくり瞼を閉じ、再び薄い瞼を開けると、今度は俺を試すように、薄く俺を見下ろした。
イケナイことに誘惑するような甘い声が、言い聞かせるように優しく囁いた。
「…だから、欲しいときは、伊織先輩から。言ってください」
「……は、…え…?」
ニコッと笑い、話を切り上げるように立ち上がった千冬は、俺にも手を差し伸べた。
「大丈夫です。僕、我慢は得意なんです」
千冬に言われたことをちっとも理解できないまま、とりあえず差し出された手に自分の手を重ね、教卓の下から抜け出す。
欲しいときは、俺から、言う…?
いつ、何を、どうやって…?
言葉の意味を必死に噛み砕こうとするも、まだ鼓動も落ち着かなくて、考えがまとまらない。
欲しいって、何を??
外のステージショーはフィナーレを迎えているようだ。なのに、オレンジ色のひっそりした教室では、外のざわめきが別世界のことのように感じた。
「そうだ、もう一度聞いても良いですか?」
「え?」
「伊織先輩の、『一番』は、誰ですか?」
急に話が変わった。
何のことだっけ、とキョトンとする。
千冬はいつものように優しく微笑み、俺の答えを待っていた。
「あ…」
あれか。
「断トツで、一番カッコいい」のは、誰か?っていう…。
「教えてください?」
可愛らしく微笑み小首を傾げる。
口に出すのは少し恥ずかしくて、恨めしく千冬を見た。
千冬は期待に満ちた笑顔で、俺の返答を待っている。
「…はぁ。」
ため息の後、仕方なく、口を開く。
そんなの、決まってるだろ。
「……千冬が、一番だ。…千冬よりカッコいい奴なんて、いねぇよ」
「ふふっ、嬉しいです。ありがとうございます」
スキップでもし出しそうなくらい嬉しそうに言って、かわいらしく微笑む。
俺は頭の中も胸の中も、まだなにも整理できてねぇし、落ち着いてねぇのに。
そんな俺の混乱はつゆ知らず。
美しい顔の黒髪の恋人は、今度こそ高校生みたいに幼く笑って、俺もつられて口元を緩めた。



