『神喰いの花嫁は、愛を捧げない』

春が、来ていた。

 あの日の夜が嘘のように、穏やかな風が吹いている。

 村は、少しずつ日常を取り戻していた。

 笑い声が戻り。

 子どもたちが走り回り。

 人々は、空を見上げて笑う。

 ――もう、奪われることはない。

 

 社の前に、一人の青年が立っていた。

 蒼真だ。

 かつて神に喰われた器。

 そして――取り戻された存在。

「……」

 無言のまま、空を見上げる。

 青い空。

 どこまでも広がる、穏やかな世界。

 あの日、彼女が守ったもの。

 彼女が、壊してまで守ったもの。

 

「……白夜」

 名を呼ぶ。

 返事は、ない。

 

 社の奥。

 そこには、小さな石が置かれている。

 墓ではない。

 祀るものでもない。

 ただ、そこにあるだけの“印”。

 

 白夜は、消えた。

 形も残さず。

 跡も残さず。

 ただ――いなくなった。

 

「……ひどいな」

 ぽつりと呟く。

 苦笑のような、かすかな声。

「勝手に全部やって」

 拳を握る。

「……勝手にいなくなるなよ」

 返事はない。

 当たり前だ。

 わかっている。

 それでも。

 言わずにはいられない。

 

 風が吹く。

 柔らかく。

 優しく。

 

「……なあ」

 石の前に、腰を下ろす。

「俺はさ」

 視線を落とす。

 言葉を探すように。

「ちゃんと、生きてる」

 静かに、続ける。

「笑えるし」

「怒れるし」

「……泣ける」

 そこで、声が詰まる。

 少しだけ、間を置いて。

「全部、戻ってる」

 当たり前のこと。

 けれど。

 それが、どれだけ奇跡か。

 知っているから。

 

「……だからさ」

 顔を上げる。

 空を見る。

「見てるなら」

 ほんの少しだけ、笑う。

「安心しろ」

 その言葉は。

 誰に向けたものなのか。

 言うまでもなかった。

 

 沈黙が落ちる。

 静かな時間。

 それでも、不思議と苦しくはない。

 

 ふと。

 風が、強く吹いた。

 

 その瞬間。

 ――気配がした。

 

「……?」

 顔を上げる。

 振り返る。

 誰もいない。

 それでも。

 確かに。

 何かが、そこにあった。

 

「……白夜?」

 思わず、名前を呼ぶ。

 返事はない。

 けれど。

 

 ――ああ。

 

 なぜか、わかる。

 

 ここにいる。

 

 目には見えない。

 触れることもできない。

 それでも。

 確かに。

 

「……そっか」

 小さく、笑う。

 今度は、自然に。

 

「そこにいるのか」

 

 風が、優しく頬を撫でる。

 

 それが、答えだった。

 

「……じゃあ」

 ゆっくりと、立ち上がる。

 前を見る。

 もう、迷わない。

 

「行くよ」

 

 一歩、踏み出す。

 

「一緒に」

 

 隣には、誰もいない。

 それでも。

 

 確かに。

 そこにいる。

 

 見えないだけで。

 触れられないだけで。

 

 それでも。

 消えたわけじゃない。

 

 愛は。

 失われたわけじゃない。

 

 形を変えて。

 ここに、残っている。

 

 だから。

 

 蒼真は、歩き出す。

 

 この先を。

 生きていくために。

 

 彼女が、守った世界で。

 

 彼女と共に。