『神喰いの花嫁は、愛を捧げない』

夜が、満ちていた。

 空は黒く、星さえ飲み込まれている。

 まるで、この世界そのものが、何かに喰われているようだった。

 社の前に、白夜は立つ。

 迷いはない。

 恐れも、もうない。

 あるのは、ただ一つ。

 ――奪い返す。

「来たか」

 声がする。

 蒼真の姿をした“それ”。

 だが、もう迷わない。

「……ええ」

 白夜は頷く。

「終わらせに来ました」

 静かな宣言。

 風が止む。

 空気が張り詰める。

「お前にできるか」

 低く、問われる。

「できます」

 即答だった。

 根拠はない。

 それでも、断言する。

「私は、あなたより強い」

 一歩、踏み出す。

 その瞬間。

 空間が歪んだ。

 圧がかかる。

 呼吸が苦しくなる。

 それでも止まらない。

「人間が、神に勝てると?」

「ええ」

 白夜は、微かに笑った。

「愛は、あなたより強い」

 その言葉に。

 初めて、沈黙が落ちた。

 

 次の瞬間。

 世界が、砕けた。

 音もなく。

 景色が、剥がれる。

 現実が崩れ、異形の空間が露わになる。

 無数の“感情”が、漂っていた。

 光の粒のように。

 けれどそれは。

 人の記憶であり。

 願いであり。

 ――奪われた、心。

「これが……」

 白夜は息を呑む。

 これほどまでに。

 奪われてきたのか。

『すべて、我のものだ』

 声が響く。

 誇るように。

『お前のものも、な』

「……違う」

 一歩、進む。

「返してもらいます」

 手を伸ばす。

 光に触れる。

 その瞬間。

 激痛が走る。

「……っ!」

 焼けるような痛み。

 拒絶される。

 異物として。

『触れるな』

 圧が強まる。

『人間如きが』

 押し潰されるような力。

 それでも。

「……関係ありません」

 歯を食いしばる。

 進む。

 一歩。

 また一歩。

「全部……返してもらう」

 光を掴む。

 握りしめる。

 砕ける。

 弾ける。

 それでも。

 離さない。

「……これは」

 流れ込んでくる。

 知らない記憶。

 知らない感情。

 涙。

 笑顔。

 絶望。

 愛。

 すべてが、押し寄せる。

「……っ……!」

 意識が揺らぐ。

 壊れそうになる。

 それでも。

「……まだ……」

 立っている。

 倒れない。

 なぜなら。

「……私は」

 知っているから。

 この中に。

 一番大切なものがあることを。

「……蒼真」

 名前を呼ぶ。

 その瞬間。

 一つの光が、強く輝いた。

 他とは違う。

 確かに、そこにある。

「……見つけた」

 手を伸ばす。

 掴む。

 その瞬間。

 激しい拒絶が走る。

『やめろ』

 声が、歪む。

 初めての、焦り。

『それは我のものだ』

「違う」

 強く、否定する。

「返して」

 引き寄せる。

 奪い返す。

 力がぶつかる。

 引き裂かれそうになる。

 それでも。

「……返して!」

 叫ぶ。

 その声が。

 空間を、震わせた。

 

 ――そのとき。

「……し……ろ……や」

 声がした。

 確かに。

 はっきりと。

「……蒼真!」

 光が、震える。

 応えるように。

「……来るな」

 弱々しい声。

 それでも。

 確かに、彼の意志。

「……遅いです」

 白夜は、笑った。

 涙を流しながら。

「もう、来ています」

 手を、強く握る。

「一緒に帰ります」

「……無理だ」

「無理じゃありません」

 即答する。

「あなたがいるなら」

 力を込める。

「私は、何度でも壊れます」

 それでも。

「何度でも、取り戻します」

 その言葉が。

 光を、揺らした。

 

 次の瞬間。

 すべてが、弾けた。

 光が、溢れる。

 感情が、解き放たれる。

『やめろおおおおお!』

 叫びが響く。

 崩れる。

 神が。

 その存在が。

「……終わりです」

 白夜は、静かに言った。

 そして。

 手を、引く。

 その中に。

 確かに。

 温もりがあった。

「……蒼真」

 名前を呼ぶ。

 ゆっくりと。

 目が開く。

 そこに。

 確かな光が戻っていた。

「……白夜」

 その一言で。

 すべてが、報われた。

 

 世界が、静かに戻っていく。

 闇が消える。

 光が差す。

 風が吹く。

 音が戻る。

 ――終わった。

 すべてが。

 ようやく。

 

 白夜は、崩れ落ちる。

「……っ」

 力が抜ける。

 意識が遠のく。

「……白夜!」

 支えられる。

 その腕に。

 その声に。

 もう、迷いはなかった。

「……よかった」

 小さく、笑う。

「戻ってきてくれて」

「……ああ」

 強く、抱きしめられる。

 確かに。

 ここにいる。

 もう、失わない。

 そのはずだった。

 

 ――けれど。

 白夜の体は。

 静かに、崩れ始めていた。