『神喰いの花嫁は、愛を捧げない』

それから、蒼真は“戻ってきた”。

 ――見た目だけは。

「白夜」

 名前を呼ぶ声も。

 歩き方も。

 剣を握る手も。

 何一つ変わっていない。

 それなのに。

「……はい」

 白夜は、わずかに間を置いて答える。

 その違和感を、どうしても拭えなかった。

 目が、違う。

 そこにあるはずのものが、欠けている。

 空白。

 深く、暗い穴のような何か。

「どうかしたか」

「……いいえ」

 首を振る。

 問い詰めることはできない。

 怖かった。

 何を言われるのか。

 何が返ってくるのか。

 知ってしまうのが。

「今日は、社へ行く日だ」

「……ええ」

 淡々とした会話。

 いつも通りのはずなのに。

 何もかもが、ずれている。

 並んで歩く。

 距離は同じ。

 なのに。

 遠い。

 触れられないほどに。

 

 社の前に立つ。

 夜の気配が、ゆっくりと満ちていく。

「……白夜」

 呼ばれる。

 振り返る。

 蒼真が、こちらを見ている。

 その目に、何かを探す。

 かつてあったものを。

 見つけられないと、わかっていながら。

「……何ですか」

「行くのか」

「……はい」

 当然の問い。

 当然の答え。

 それだけのはずなのに。

 なぜか、そのやり取りが、やけに重く感じた。

「そうか」

 それ以上は、何も言われない。

 止められない。

 引き止められない。

 ――ああ。

 そうか。

 理解する。

 胸の奥が、静かに冷えていく。

 もう。

 彼は、止めてくれない。

 

 社の中に入る。

 闇が、そこにある。

 いつもと同じはずなのに。

 今日は、違って見えた。

『来たか、白夜』

 声が響く。

 あの神の声。

 けれど。

 今は、はっきりとわかる。

 この声が。

 あの人を壊した。

「……返してください」

 膝をつかず、白夜は言った。

 初めての、無礼。

 空気が、変わる。

『何をだ』

「蒼真を」

 はっきりと。

 逃げずに。

『ああ』

 愉しむような気配。

『あの器か』

「器ではありません」

 即座に否定する。

「人です」

 沈黙。

 ほんの一瞬。

 それから。

 くつくつと、笑いが響いた。

『人、か』

 嘲るような声音。

『ならば、なぜ壊れた』

「……っ」

 言葉が詰まる。

『お前のせいだろう』

 静かに、突きつけられる。

『お前の感情が』

 ゆっくりと。

 逃げ場を塞ぐように。

『あれを満たし、我を呼び込んだ』

「違う……」

 否定する。

 けれど、声が弱い。

 自分でも、わかっているから。

『違わぬ』

 断言。

『お前は、望んだのだ』

 低く、囁く。

『あれを愛した』

 胸が、痛む。

 強く、鋭く。

『その結果だ』

 ――崩れる。

 何かが、内側で崩れていく。

「……なら」

 それでも、言葉を絞り出す。

「もう、何も捧げません」

 顔を上げる。

 真っ直ぐに、闇を見据える。

「これ以上、奪わせません」

 静かな宣言。

 その瞬間。

 空気が、凍りついた。

『……ほう』

 声が、低くなる。

『それは、困るな』

 闇が、揺れる。

 圧が増す。

『お前は、巫女だ』

「関係ありません」

『ある』

 即座に否定される。

『お前が捧げねば、この地は滅ぶ』

 冷たい現実。

 逃げられない事実。

 それでも。

「……それでも」

 白夜は、目を逸らさない。

「蒼真を失うくらいなら」

 言い切る。

「意味がありません」

 沈黙。

 重い、静寂。

 やがて。

『面白い』

 小さな笑い。

『ならば、試してみろ』

「……何を」

『捧げずに、どこまで耐えられるか』

 ぞわり、と空気が歪む。

『その器が』

 低く、告げられる。

『どれほど壊れるか』

 ――嫌な予感が走る。

「……やめて」

 振り返る。

 社の外。

 そこに。

 蒼真が立っていた。

「……蒼真!」

 駆け寄る。

 その顔を見て。

 息が止まる。

 表情が、ない。

 完全に。

 何も。

「……蒼真」

 そっと、手を伸ばす。

 頬に触れる。

 冷たい。

 生きているはずなのに。

 何も、返ってこない。

「……ねえ」

 声が震える。

「わかりますか」

 問いかける。

 祈るように。

「私です」

 沈黙。

 反応はない。

 ただ、虚ろな目が、こちらを見ている。

「……返事を」

 掴む。

 強く。

「返してください……!」

 揺さぶる。

 けれど。

 何も変わらない。

 そのとき。

 わずかに。

 唇が動いた。

「……し……ろ」

「……!」

 顔を上げる。

「蒼真?」

「……し……ろ……や」

 途切れ途切れの声。

 それでも。

 確かに、彼の声だった。

「……ここにいます」

 すぐに答える。

 涙が滲む。

「ここにいます」

 繰り返す。

 必死に。

 繋ぎ止めるように。

「……に……げ……ろ」

 その一言で。

 全てが、崩れた。

「……いや」

 首を振る。

「行きません」

「……に……げ……」

 言葉が、途切れる。

 目が、揺れる。

 次の瞬間。

 その中にあった“彼”が。

 完全に、消えた。

「……あ」

 声が、出ない。

 目の前で。

 確かにあったものが。

 消えた。

 戻らない。

 もう、二度と。

『言っただろう』

 背後で、声がする。

『始まっていると』

 振り返ることもできない。

 ただ。

 目の前の現実を、受け入れるしかない。

「……っ」

 息が、できない。

 胸が、壊れそうに痛い。

 これが、感情だと知っている。

 だからこそ、余計に苦しい。

 逃げ場がない。

 消せない。

 失えない。

 ――これが、恋。

 そして。

 その恋が。

 すべてを壊した。

 

 白夜は、ゆっくりと立ち上がる。

 涙を拭うこともなく。

 ただ、静かに。

 前を向く。

「……なら」

 声は、震えていなかった。

「壊します」

 ぽつりと、呟く。

「全部」

 振り返る。

 闇を、睨む。

「あなたも」

 そして。

「この世界も」

 決意が、形になる。

 静かに。

 確実に。

 取り返しのつかない方向へ。

 物語が、進み始める。