『神喰いの花嫁は、愛を捧げない』

それは、あまりにも静かに始まった。

 最初は、違和感だった。

「……蒼真?」

 呼びかけても、返事が遅れる。

 視線が合わない。

 ほんの些細な変化。

 けれど白夜は、それを見逃さなかった。

「どうかしましたか」

「……いや」

 短い返答。

 いつもと同じ声音のはずなのに。

 どこか、空洞のような響きが混じっていた。

「少し、疲れているだけだ」

「……そうですか」

 納得は、できなかった。

 けれど、それ以上踏み込めない。

 踏み込むことに、わずかな恐れがあった。

 ――知りたくない、何かがある気がして。

 

 その日の見回りは、妙に静かだった。

 風の音も、鳥の声も、遠く感じる。

 代わりに、隣を歩く蒼真の気配だけが、やけに際立っていた。

「……蒼真」

「なんだ」

「昨日のことですが」

 言葉を選びながら、切り出す。

「覚えていますか」

 一瞬の沈黙。

 ほんのわずか。

 それでも、確かに間があった。

「……ああ」

 やがて返ってきた答えは、短い。

「覚えている」

「……そうですか」

 安堵するはずだった。

 けれど。

 胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 何かが違う。

 言葉では説明できない、微細なズレ。

「どうかしたか」

「……いいえ」

 首を振る。

 違和感の正体を掴めないまま、歩き続ける。

 やがて、森の奥へと差しかかったとき。

 それは起きた。

 ――気配。

 今まで感じたことのない、重く、濃い“何か”。

「止まれ」

 蒼真が、白夜の前に出る。

 その動きは、いつも通りだった。

 完璧に、護衛としての動き。

 けれど。

 その背中に、かすかな違和感がある。

「下がっていろ」

「……はい」

 従いながらも、視線は逸らさない。

 森の奥。

 闇の中から、何かが滲み出てくる。

 形を持たない影。

 それが、ゆっくりと輪郭を得ていく。

 ――神気。

 白夜は息を呑んだ。

 こんな場所に、神が現れるはずがない。

 社の外で、顕現することなど。

 あり得ない。

『……』

 声はない。

 だが、確かに“意思”がある。

 こちらを見ている。

 そして。

 ゆっくりと。

 蒼真へと、手を伸ばした。

「……蒼真、離れてください!」

 叫ぶ。

 その瞬間。

 蒼真が、振り返った。

 その目を見て。

 白夜は、凍りついた。

 ――色が、違う。

 いつもと同じ形のはずなのに。

 そこに宿るものが、まるで別物だった。

「……蒼真?」

 呼びかける。

 返事はない。

 ただ、静かに。

 彼は、その影を受け入れた。

 触れた瞬間。

 空気が歪む。

 重く、濃く、世界そのものが軋むような圧。

「……っ」

 息が詰まる。

 立っているだけで、膝が震える。

 それほどの“格”の差。

 影は、蒼真の中へと溶け込んでいく。

 抵抗は、ない。

 拒絶も、ない。

 まるで。

 最初から、そこに在るべきものだったかのように。

「……やめて」

 声が震える。

 何が起きているのか、理解できない。

 したくない。

 それでも。

 目の前の現実が、全てを突きつけてくる。

 やがて。

 全てが、収まった。

 静寂。

 何もなかったかのような、森の風景。

 ただ一つ。

 違うのは――

「……蒼真」

 彼の、気配。

 ゆっくりと、顔が上がる。

 視線が合う。

 その瞬間。

 白夜は、理解した。

 ――これは、もう。

「……誰、ですか」

 問いが、零れる。

 蒼真の姿をした“それ”は。

 わずかに、目を細めた。

『面白いな』

 声が、重なる。

 蒼真の声と、別の何か。

 低く、深く、底の見えない響き。

『気づくか』

「……」

 息が、できない。

 足が、動かない。

 逃げなければいけないのに。

 体が言うことを聞かない。

『この器は、優秀だ』

 ゆっくりと、手が持ち上がる。

 その仕草は、蒼真と同じなのに。

 そこに宿るものが、まるで違う。

『長い時間をかけて、整えられてきた』

「……器?」

 かろうじて、言葉を返す。

 意味を理解したくないまま。

『ああ』

 愉しむような気配。

『我を宿すための器』

 ――その言葉が。

 白夜の中で、音を立てて崩れた。

「……そんな、」

『知らなかったか』

 くつくつと、笑う。

 その響きは、明らかに人ではない。

『哀れだな、巫女』

 ゆっくりと、一歩近づく。

 逃げられない。

 足が、動かない。

『お前が捧げてきた感情』

 低く、囁く。

『それが、この器を満たしていたのだ』

「……っ」

 意味が、繋がる。

 断片が、繋がっていく。

 白夜が差し出してきた感情。

 神が喰らってきたそれ。

 その行き先が――

「……蒼真、に?」

『そうだ』

 即答だった。

『お前の“愛”が』

 ゆっくりと、口元が歪む。

『この器を完成させた』

 ――否定したかった。

 違うと、言いたかった。

 けれど。

 思い出す。

 あの日。

 初めて感じた、あの感情。

 そして、それを差し出した瞬間。

 何かが変わった。

「……私が」

 声が、震える。

「私が、壊したのですか」

『壊した?』

 小さく笑う。

『違うな』

 一歩、さらに近づく。

 手が伸びる。

 白夜の頬に、触れる。

 その感触に、背筋が凍る。

『完成させたのだ』

 優しく、告げられる。

 残酷なほどに。

『お前が、望んだから』

 ――違う。

 違う、はずなのに。

 言葉が出ない。

 胸が、苦しい。

 熱い。

 痛い。

 それが何なのか、もう知っている。

 ――恋だ。

 その感情が。

 大切だと思った想いが。

 すべて。

「……返して」

 掠れた声で、呟く。

「蒼真を、返して」

 願う。

 初めて、自分の意思で。

 強く。

 はっきりと。

 その瞬間。

 “それ”は、わずかに目を細めた。

『……遅い』

 静かな宣告。

『既に、始まっている』

 空気が、重くなる。

 圧が増す。

『お前の愛は』

 低く、確実に。

『この器を、神へと至らせる』

 ――終わりが、見えた。

 まだ何も終わっていないのに。

 全てが、取り返しのつかないところまで進んでいると。

 はっきりと、理解してしまった。

「……いや」

 首を振る。

 否定する。

 けれど。

 現実は、変わらない。

 目の前にいるのは、もう――

 蒼真では、ない。