『神喰いの花嫁は、愛を捧げない』

 春の気配が、わずかに混じり始めていた。

 風はまだ冷たいが、どこか柔らかい。冬の終わりを告げるような、曖昧な温度だった。

「……ここで休む」

 蒼真が足を止める。

 見回りの帰り道、森を抜けた小さな川辺だった。

「問題ありません」

「俺がある」

 短く言い切られ、白夜は黙る。

 こういうときの蒼真は、引かない。

 仕方なく、近くの石に腰を下ろす。

 水の流れる音が、静かに耳に届く。

 何も感じないはずなのに。

 なぜか、その音だけが、やけに意識に残った。

「……白夜」

「はい」

「最近、おかしい」

 唐突な言葉だった。

「何がですか」

「全部だ」

 即答だった。

 迷いがない。

「前から無茶はしていたが、今は違う」

「違いません」

「違う」

 言い切られる。

 その強さに、言葉が詰まる。

「お前は、何も感じていない顔をしているくせに」

 蒼真の視線が、まっすぐに向けられる。

「時々、わずかに揺れる」

「……」

「それが、余計に危うい」

 意味がわからない。

 わからないのに。

 なぜか、胸の奥がわずかにざわついた。

「私は、何も感じていません」

「嘘だ」

 即座に否定される。

「……っ」

 その言葉に、なぜか息が詰まった。

 理由はわからない。

 ただ、逃げ場を失ったような感覚だけが残る。

「お前は」

 蒼真が、一歩近づく。

「本当に、何も感じていないのか」

 問われる。

 その距離が、やけに近い。

 触れそうで、触れない。

 視線が絡む。

 逃げられない。

「……」

 答えようとして。

 言葉が出てこなかった。

 何も感じていないはずなのに。

 なぜか、何かが引っかかる。

「白夜」

 名前を呼ばれる。

 その声が、少しだけ低くなる。

 いつもより、近い。

 そして。

 そっと、手が伸びてきた。

 頬に触れる。

 その瞬間。

 ――熱が走った。

「……っ」

 息が漏れる。

 驚きだった。

 感じないはずの自分が、確かに何かを感じた。

 あたたかい。

 やわらかい。

 逃げたいのに、離れたくない。

 矛盾した感覚が、一気に押し寄せる。

「今のは」

 蒼真が、わずかに目を見開く。

「感じただろ」

「……わかりません」

 かろうじて言葉を返す。

 けれど、それは本当ではなかった。

 確かに、何かを感じた。

 名前はわからない。

 けれど。

 消えたはずのものが、確かにそこにあった。

「嘘をつくな」

 蒼真の手が、わずかに強くなる。

「お前は、まだ残っている」

「……」

「全部、なくなったわけじゃない」

 断言される。

 その言葉が、胸の奥に落ちる。

 静かに。

 けれど確実に。

「……なぜ」

 ぽつりと呟く。

「なぜ、あなたは」

「なんだ」

「そこまで、私を気にかけるのですか」

 問う。

 さっきと同じ問い。

 けれど、今度は違う意味を持っていた。

 蒼真は、少しだけ黙る。

 視線が揺れる。

 迷いが、見えた。

「……それは」

 言いかけて、止まる。

 そして。

「役目だからだ」

 そう言った。

 同じ答え。

 変わらないはずの言葉。

 ――なのに。

「……嘘です」

 気づけば、口にしていた。

 自分でも驚くほど、はっきりと。

 蒼真が、目を見開く。

「お前……」

「違います」

 言葉が止まらない。

 胸の奥から、何かが溢れ出る。

「それだけでは、ありません」

 なぜ、こんなことを言っているのか。

 わからない。

 でも、止められない。

「あなたは」

 喉が、わずかに震える。

「それだけではない理由で、私を見ている」

 確信だった。

 根拠はない。

 それでも、わかる。

 蒼真は、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと息を吐く。

「……ああ」

 短い肯定。

 それだけで、空気が変わる。

「役目だけじゃない」

 はっきりと告げられる。

 逃げない声音で。

「お前を守るのは、俺の意思だ」

 その言葉が。

 真っ直ぐに、突き刺さる。

「……どうして」

「……それは」

 蒼真が、わずかに視線を逸らす。

 そして、すぐに戻す。

 覚悟を決めたように。

「お前が、大切だからだ」

 静かな告白だった。

 派手でもなく、強くもない。

 それでも。

 何よりも、重い言葉。

 その瞬間。

 白夜の中で、何かが弾けた。

「……っ」

 息が、うまくできない。

 胸が苦しい。

 痛い。

 でも、嫌ではない。

 むしろ――

「……なに、これ」

 零れる。

 初めて、自分の中に生まれた感情に戸惑いながら。

 熱い。

 苦しい。

 でも、離したくない。

 矛盾したものが、胸いっぱいに広がる。

「白夜」

 蒼真が、名を呼ぶ。

 その声が、さっきよりもずっと近く感じる。

「それが」

 ゆっくりと、告げられる。

「感情だ」

 ――ああ。

 そうか。

 これが。

「……これが」

 胸に手を当てる。

 鼓動が、うるさいほどに響く。

「……これが、」

 言葉を探す。

 ようやく、見つける。

「……好き、ですか」

 呟くように。

 確かめるように。

 蒼真は、静かに頷いた。

「そうだ」

 その瞬間。

 白夜の中で、はっきりと形になる。

 名前のなかった感情が。

 確かな意味を持つ。

 ――恋だった。

「……蒼真」

「なんだ」

「私も」

 言葉が、震える。

 それでも、止めない。

「あなたが、大切です」

 伝える。

 初めて、自分の意思で。

 感情を言葉にして。

 その瞬間。

 風が吹いた。

 木々が揺れる。

 光が揺らめく。

 世界が、わずかに色づいた気がした。

 けれど。

 それと同時に。

 どこかで、何かが軋む音がした。

 見えない場所で。

 確実に。

 何かが、狂い始めていた。