『神喰いの花嫁は、愛を捧げない』

その日から、何かが変わった。

 ――はずだった。

 けれど白夜には、それが何なのかわからない。

 ただ、胸の奥にあったはずの何かが消えて、代わりに空白だけが残っている感覚だけが、かすかにある。

「……白夜」

 名を呼ばれる。

 振り向くと、蒼真が立っていた。

「朝だ。行くぞ」

「はい」

 短く答える。

 それだけで会話は終わるはずだった。

 いつも通りに。

 けれど今日は、彼がその場から動かなかった。

「どうかしましたか」

「……いや」

 何かを言いかけて、やめる。

 その仕草に、ほんのわずかに引っかかるものを感じた。

 けれど、それが何かはわからない。

 わからないまま、白夜は歩き出す。

 蒼真が、隣に並ぶ。

 一定の距離を保ったまま、二人は村の外れへと向かった。

 見回りは、日課だった。

 神の加護があるとはいえ、外からの穢れが入り込まないわけではない。

 巫女と護衛が対になって巡るのが、この村の決まりだった。

「……昨日のことだが」

 不意に、蒼真が口を開く。

「問題ありません」

 言葉を遮るように、白夜は答えた。

 何を言われるか、予想がついていたからだ。

「本当にか」

「はい」

 迷いなく頷く。

 実際、問題はない。

 感情を差し出すのは、いつものことだ。

 苦しみも、痛みも、今はほとんど感じない。

 それが正しい状態だと、教えられてきた。

「……そうか」

 それ以上、蒼真は何も言わなかった。

 だが、視線だけがわずかに残る。

 気にかけているのだろう。

 おそらく。

 けれど、それに対して何かを感じることはできない。

 白夜はただ、前を向いて歩く。

 やがて、森の中へと入った。

 木々の間を抜ける風が、葉を揺らす。

 柔らかな光が差し込んで、地面にまだらな影を落としていた。

「止まれ」

 蒼真の声が低くなる。

 白夜も足を止めた。

 気配がある。

 人ではない、何か。

「下がれ」

「……いいえ」

 白夜は一歩前に出た。

「これは、私の役目です」

「白夜」

「大丈夫です」

 振り返らずに告げる。

 事実だった。

 怖いとは思わない。

 何も感じないから。

 木の陰から現れたのは、歪んだ獣のようなものだった。

 穢れを帯びた存在。

 この地では、珍しくない。

 白夜は静かに息を整え、祝詞を紡ぐ。

 言葉に力を乗せる。

 それだけで、穢れは浄化されていく。

 悲鳴も、抵抗もなく。

 ただ静かに、消えていく。

 ――それが、正しい。

 全てが終わったとき。

 背後から、強く腕を引かれた。

「……っ」

 体が、わずかに揺れる。

 振り返ると、蒼真の顔が近かった。

「無茶をするな」

 低い声。

 怒っている、のだろうか。

「問題ありません」

「ある」

 即座に否定される。

「お前は、無理をしている」

「していません」

 感情がないのに、無理も何もない。

 そう言おうとして。

 ふと、言葉が止まる。

「……お前は」

 蒼真が、何かを言いかける。

 その目が、わずかに揺れていた。

 まるで、何かを失うことを恐れているような。

 そんな表情。

 そのとき。

 ほんの一瞬だけ。

 胸の奥が、かすかに軋んだ。

「……?」

 違和感。

 けれど、それはすぐに消える。

 何もなかったかのように。

「……離してください」

 静かに告げる。

 蒼真の手は、まだ白夜の腕を掴んだままだった。

 その体温が、やけに意識に残る。

 理由はわからない。

 わからないまま、それを振り払う。

「……悪い」

 手が離れる。

 その瞬間。

 ほんのわずかだけ。

 何かが失われたような気がした。

 だが、それが何なのかは、やはりわからない。

「戻りましょう」

「ああ」

 再び歩き出す。

 今度は、少しだけ距離が空いた。

 それが正しいと、白夜は思った。

 これ以上近づく理由はない。

 必要もない。

 そう、思うのに。

 なぜか、ほんの少しだけ。

 足取りが、重かった。

 

 その日の夕方。

 白夜は社の前に立っていた。

 奉納の日ではない。

 それでも、ここに来ていた。

 理由は、自分でもよくわからない。

 ただ。

 胸の奥に残る、わずかな違和感が、ここへ足を向けさせた。

「……白夜?」

 背後から、また声がする。

 振り返ると、蒼真がいた。

「どうしてここに」

「……わかりません」

 正直に答える。

 彼は少し驚いたような顔をしたあと、小さく息をついた。

「無理をするなと言っただろう」

「無理ではありません」

「じゃあ、どうして来た」

 問われて、言葉に詰まる。

 答えられない。

 本当に、理由がないから。

 ただ。

 何かを確かめたかった。

 そんな気がするだけで。

「……蒼真」

「なんだ」

「あなたは」

 言葉を探す。

 けれど、見つからない。

 聞きたいことがあるはずなのに、それが何なのか、形にならない。

 ただ、ひとつだけ。

「……どうして、私を守るのですか」

 ようやく出てきた問い。

 蒼真は、一瞬だけ目を見開いた。

 そして。

「それが役目だからだ」

 そう答えた。

 迷いのない声音。

 正しい答え。

 ――それなのに。

 なぜか、胸の奥に、小さな違和感が残った。

「……そうですか」

「ああ」

 それ以上、言葉は続かなかった。

 沈黙が落ちる。

 風が、二人の間を通り抜ける。

 触れそうで、触れない距離。

 それは変わらないはずなのに。

 なぜか。

 ほんの少しだけ。

 遠く感じた。

 

 その夜。

 白夜は、眠れなかった。

 理由はわからない。

 感情がないのだから、不安も、焦りもないはずなのに。

 目を閉じても、意識が沈まない。

 代わりに浮かぶのは。

 蒼真の顔だった。

 怒ったような声。

 心配するような目。

 触れたときの、あの温度。

 それらが、断片的に浮かんでは消える。

「……なぜ」

 呟く。

 答えは出ない。

 ただ。

 消したはずの何かが。

 確かに、まだ残っている気がした。

 名前もわからない。

 形もない。

 それでも。

 確かにそこにある“何か”。

 白夜は、それを知らない。

 けれど。

 それは、確実に芽生え始めていた。

 ――もう一度、恋に落ちようとしていた。