その神は、慈悲深いと語られていた。
だからこそ、誰も逆らわなかった。
――感情を、喰われるまでは。
夜の社は、静かだった。
風もなく、虫の音すら遠い。まるでこの場所だけ、世界から切り離されているかのように、音がない。
「白夜」
背後から名を呼ばれる。
振り返らなくてもわかる。蒼真だ。
「時間だ」
「……ええ」
短く答え、白夜は社の奥へと視線を向けた。
灯りの届かない闇が、そこにある。
ただの暗がりではない。見てはいけないものが潜んでいると、本能が告げてくる類の闇だった。
「手を」
差し出された掌に、わずかに迷ってから触れる。
あたたかい。
それだけで、胸の奥にかすかな違和感が走った。
「震えてる」
「……寒いだけです」
嘘だった。寒さではない。
それでも、それ以上の言葉は持っていなかった。
感情というものを、ほとんど差し出してしまったから。
白夜は、この村で最も優れた巫女だと称されている。
理由は単純だ。
――失うものが、もうほとんど残っていないから。
「無理はするな」
「役目ですから」
手を離し、歩き出す。
蒼真の気配が背後に残る。彼は社の中までは入らない。神と対するのは、巫女だけの役目だ。
一歩、また一歩と進むごとに、空気が重くなる。
呼吸が浅くなる。
そして、境界を越えた瞬間。
『来たか、白夜』
声が、頭の奥に直接響いた。
耳ではない。思考に触れてくるような、奇妙な感覚。
白夜は膝をつき、頭を垂れる。
「……夜刀神様」
それが、この地を守る神の名。
人々は恵みを受け、災いを避けてきた。代わりに差し出すのは、祈りではない。
――感情だ。
『今日は、何をくれる』
穏やかな声だった。
慈しむようでいて、その実、底の見えない空虚を孕んでいる。
白夜は目を閉じる。
自分の内側を探る。
けれど、すぐに行き止まる。
喜びも、怒りも、悲しみも。ほとんどが既に削ぎ落とされている。
残っているのは、かすかな名残だけ。
その中で――
ふと、浮かぶ顔があった。
「……」
蒼真。
社の外で待っている、あの人。
剣を振るうときの迷いのなさと、白夜に向けるときだけ見せる、わずかな優しさ。
思い出そうとした瞬間。
胸の奥に、小さな灯がともった。
あたたかい。
名前のわからない、感情。
『ほう』
神が、愉しむように声を漏らす。
『それは良い。まだ残っていたか』
値踏みされている。
この神は、人の感情を糧とする。
強く、鮮やかなものほど、価値がある。
『差し出せ』
逆らえない。
それが、この村の掟であり、白夜の役目だった。
「……はい」
胸に手を当てる。
その小さな灯を、掬い上げるように意識を集中させる。
失うとわかっているのに。
なぜか、ほんのわずかだけ。
躊躇いがあった。
『どうした』
「……いえ」
首を振る。
迷う理由などない。
これは、守るために必要なことだ。
村も、人も、そして――
蒼真も。
「……これを、捧げます」
差し出した瞬間。
何かが、引き剥がされた。
鋭い痛みはない。
ただ、内側を撫でられるように、静かに、確実に、奪われていく。
灯が消える。
あたたかさが消える。
そして。
――何も、残らない。
白夜はゆっくりと目を開いた。
空虚だった。
さっきまで確かにあった何かが、綺麗に消え去っている。
『美味であった』
満足げな声。
闇が、わずかに揺らぐ。
『また来い、白夜』
「……はい」
それだけを告げて、存在は遠のいた。
圧が消え、空気が軽くなる。
立ち上がる。
ふらつきはない。慣れている。
むしろ、軽い。
何も感じない身体は、驚くほど扱いやすかった。
社の外に出ると、冷たい夜気が肌に触れた。
「白夜!」
蒼真が駆け寄ってくる。
「大丈夫か」
「ええ」
即答する。
本当に、大丈夫だった。
何も感じないから。
「顔色が悪い」
「いつも通りです」
そう言うと、彼は眉をひそめた。
何か言いたげに、口を開きかけて、閉じる。
代わりに、強く手を引いた。
「少し座れ」
「必要ありません」
「いいから」
有無を言わせない声音。
けれど、その奥にあるものを、白夜はもう読み取れない。
かつては、わかっていたはずなのに。
「……蒼真」
「なんだ」
「あなたは、どうして」
言葉が止まる。
何を聞こうとしたのか、自分でもわからない。
ただ、さっき失ったものに関係している気がした。
けれど、それが何だったのか。
思い出せない。
「どうした」
「……いいえ」
首を振る。
どうでもいいことだ。
もう、必要ない。
「帰りましょう」
「ああ」
並んで歩く。
触れそうで、触れない距離。
そのはずなのに。
なぜか、そこに何かがあった気がして。
けれど、それが何なのかは、もうわからない。
「白夜」
「はい」
「……もし」
蒼真が、珍しく言い淀む。
「もし、お前が巫女でなかったら」
続きは、語られなかった。
それでも。
その言葉だけが、妙に引っかかった。
理由はわからない。
けれど、胸の奥に、わずかな違和感が残る。
――本来なら、残るはずのないもの。
「……帰りましょう、蒼真」
繰り返す。
それが正しい。
巫女として。
何も持たない者として。
ただ役目を果たす存在として。
その夜。
白夜は知らないまま。
自分の中に最後に残っていたものを、差し出していた。
だから気づかない。
それが、どれほど大切なものだったのかも。
――愛だったことも。
だからこそ、誰も逆らわなかった。
――感情を、喰われるまでは。
夜の社は、静かだった。
風もなく、虫の音すら遠い。まるでこの場所だけ、世界から切り離されているかのように、音がない。
「白夜」
背後から名を呼ばれる。
振り返らなくてもわかる。蒼真だ。
「時間だ」
「……ええ」
短く答え、白夜は社の奥へと視線を向けた。
灯りの届かない闇が、そこにある。
ただの暗がりではない。見てはいけないものが潜んでいると、本能が告げてくる類の闇だった。
「手を」
差し出された掌に、わずかに迷ってから触れる。
あたたかい。
それだけで、胸の奥にかすかな違和感が走った。
「震えてる」
「……寒いだけです」
嘘だった。寒さではない。
それでも、それ以上の言葉は持っていなかった。
感情というものを、ほとんど差し出してしまったから。
白夜は、この村で最も優れた巫女だと称されている。
理由は単純だ。
――失うものが、もうほとんど残っていないから。
「無理はするな」
「役目ですから」
手を離し、歩き出す。
蒼真の気配が背後に残る。彼は社の中までは入らない。神と対するのは、巫女だけの役目だ。
一歩、また一歩と進むごとに、空気が重くなる。
呼吸が浅くなる。
そして、境界を越えた瞬間。
『来たか、白夜』
声が、頭の奥に直接響いた。
耳ではない。思考に触れてくるような、奇妙な感覚。
白夜は膝をつき、頭を垂れる。
「……夜刀神様」
それが、この地を守る神の名。
人々は恵みを受け、災いを避けてきた。代わりに差し出すのは、祈りではない。
――感情だ。
『今日は、何をくれる』
穏やかな声だった。
慈しむようでいて、その実、底の見えない空虚を孕んでいる。
白夜は目を閉じる。
自分の内側を探る。
けれど、すぐに行き止まる。
喜びも、怒りも、悲しみも。ほとんどが既に削ぎ落とされている。
残っているのは、かすかな名残だけ。
その中で――
ふと、浮かぶ顔があった。
「……」
蒼真。
社の外で待っている、あの人。
剣を振るうときの迷いのなさと、白夜に向けるときだけ見せる、わずかな優しさ。
思い出そうとした瞬間。
胸の奥に、小さな灯がともった。
あたたかい。
名前のわからない、感情。
『ほう』
神が、愉しむように声を漏らす。
『それは良い。まだ残っていたか』
値踏みされている。
この神は、人の感情を糧とする。
強く、鮮やかなものほど、価値がある。
『差し出せ』
逆らえない。
それが、この村の掟であり、白夜の役目だった。
「……はい」
胸に手を当てる。
その小さな灯を、掬い上げるように意識を集中させる。
失うとわかっているのに。
なぜか、ほんのわずかだけ。
躊躇いがあった。
『どうした』
「……いえ」
首を振る。
迷う理由などない。
これは、守るために必要なことだ。
村も、人も、そして――
蒼真も。
「……これを、捧げます」
差し出した瞬間。
何かが、引き剥がされた。
鋭い痛みはない。
ただ、内側を撫でられるように、静かに、確実に、奪われていく。
灯が消える。
あたたかさが消える。
そして。
――何も、残らない。
白夜はゆっくりと目を開いた。
空虚だった。
さっきまで確かにあった何かが、綺麗に消え去っている。
『美味であった』
満足げな声。
闇が、わずかに揺らぐ。
『また来い、白夜』
「……はい」
それだけを告げて、存在は遠のいた。
圧が消え、空気が軽くなる。
立ち上がる。
ふらつきはない。慣れている。
むしろ、軽い。
何も感じない身体は、驚くほど扱いやすかった。
社の外に出ると、冷たい夜気が肌に触れた。
「白夜!」
蒼真が駆け寄ってくる。
「大丈夫か」
「ええ」
即答する。
本当に、大丈夫だった。
何も感じないから。
「顔色が悪い」
「いつも通りです」
そう言うと、彼は眉をひそめた。
何か言いたげに、口を開きかけて、閉じる。
代わりに、強く手を引いた。
「少し座れ」
「必要ありません」
「いいから」
有無を言わせない声音。
けれど、その奥にあるものを、白夜はもう読み取れない。
かつては、わかっていたはずなのに。
「……蒼真」
「なんだ」
「あなたは、どうして」
言葉が止まる。
何を聞こうとしたのか、自分でもわからない。
ただ、さっき失ったものに関係している気がした。
けれど、それが何だったのか。
思い出せない。
「どうした」
「……いいえ」
首を振る。
どうでもいいことだ。
もう、必要ない。
「帰りましょう」
「ああ」
並んで歩く。
触れそうで、触れない距離。
そのはずなのに。
なぜか、そこに何かがあった気がして。
けれど、それが何なのかは、もうわからない。
「白夜」
「はい」
「……もし」
蒼真が、珍しく言い淀む。
「もし、お前が巫女でなかったら」
続きは、語られなかった。
それでも。
その言葉だけが、妙に引っかかった。
理由はわからない。
けれど、胸の奥に、わずかな違和感が残る。
――本来なら、残るはずのないもの。
「……帰りましょう、蒼真」
繰り返す。
それが正しい。
巫女として。
何も持たない者として。
ただ役目を果たす存在として。
その夜。
白夜は知らないまま。
自分の中に最後に残っていたものを、差し出していた。
だから気づかない。
それが、どれほど大切なものだったのかも。
――愛だったことも。



