おかえりなさい、俺の英雄

俺と君は同類だ。
上手く生きることができなくて、人に寄りかからないと不安になるくせに、助力を求めるのが苦手で。
平気なふりをするのだけは上手くて、限界まで声を上げない。
人の温度を求めるくせに他人は苦手。
成長過程での親からの愛情が足りなくて人一倍寂しがり屋なくせに、自分は一人でも大丈夫って見栄を張りたがる。
自分が欠けていることを認めないし、心を開いた相手に全てを預け切る勢いで依存するくせに、それすらも認めようとしなくて。
俺と君は同類。生きるのが下手クソで面倒くさい性格をしている、日陰で生きるのがお似合いな出来損ない。
だから。二人きりで薄暗いぬるま湯の中で、お互いのかけたところを指でなぞり合って、
無痛の無数の傷を舐め合いながら生きていくのがお似合いだったのに。
だというのに君は一度、俺の傍から離れた。薄暗くて居心地のいいぬるま湯から這い上がって、明るく輝かしい『普通』を目指そうと立ち上がって。
希望に満ちた未来へと前を向いて、苦手だったはずの、光から差し伸べられた他人の手を取って、俺の手を離した。
君の面倒くささも、弱さも。醜くてどうしようもないところも何もかもを、受け入れて抱きしめて愛することができる、
君に最適化された俺という存在から離れた。

けれど、君は壊れてしまった。
輝かしい『普通』へと導いてくれる、君にとっては天使のような存在を、偶然という神様の残酷な気紛れによって失って。
強くなろうと、立派になろうと。『普通』になろうとした君は、昔みたいに弱って、一人では何もできなくなった。
一人ぼっちで大きな身体を縮こまらせて、震えて泣くことしかできない君を抱きしめて受け入れることができる存在は、
俺だけだ。ようやっと、君を抱きしめて受け入れることができる、君にとっての『一番』たる立ち位置が、俺の手元に戻ってきたのだ。
これは、長年の我慢と積み重ねを、神様が見ていてくれたのだろうか。そう思わずにはいられなかった。
おかえりなさい、俺の英雄。

母親が亡くなるよりも前のことは、正直あまり覚えていない。
静かに穏やかに、安らかに目を閉じた母の棺に張り付くようにうなだれて、終始一言も話さない父親の、
希望を見失ってしまったような、生きることを諦めたようなあの表情が、地面にへばりついたガムのように、しつこく脳裏にこびりついている。

母が骨壺に収まったあの日から、父親に当たる人物とまともに会話をした覚えはない。
電子機器を介して交わされる、業務連絡と言った方が適切な文字のやり取りだけが、俺と父親との関係が、
ギリギリ共に暮らす家族であると証明しているようなものだった。

居住者が一人欠けてしまった上に、一家の大黒柱がほとんど帰宅してこない一軒家は当時齢8の小さな子供であった俺にはあまりにも広く、
とても恐ろしく感じられた。心のよりどころであり一番触れ合うぬくもりを失ってしまった俺は、
父親に迷惑をかけぬように、とめどなくあふれ出て止まらない寂しさと悲しさから目を背けるように、
母親が生きていたという確かな痕跡から少しでも目を背けるために、自分で世界をコントロールできるゲームの世界にのめり込んでいった。




程無くして。父親は母との思い出が詰まった我が家で生活することを苦痛に感じたのか、はたまた単にほとんど帰宅しないファミリー向けの一軒家に小学生の息子と自分だけが住んで家事がまともに回らない状況が不適切と感じたのか。どちらにせよ住み慣れた一軒家を手放し、
子持ち世帯向けのアパートへと引っ越すことになった。

物がめっきり減って、生活の匂いが薄くなったアパート。引っ越してきて一週間たつというのに、未だ開けられてすらいないいくつかの段ボール箱。
引っ越した先の、新しい学校。新しい環境。それらになじんで、新しく仲間を作るなんて気も起きなかった俺にとっては、ただ勉学に勤しむために通う場所に過ぎなかった。
無意識のうちに、心を閉ざしていた。いや、「空っぽ」だったと言った方が適切かもしれない。
無意識のうちに空っぽにして、透明にして。次第に何も感じなくなってゆく。
母を失った悲しみも、幼い身一つで返事も温度も匂いもない、眠るための場所でしかない家に帰る虚しさも。全てを諦めたように仕事に生きる、ただ一人の肉親である父親からの愛情を貰えない寂しさも。そのすべてに蓋をして、心の奥底に沈めて。期待もしない代わりに何も感じなくなった方が、生きていく上では楽だった。幼い脳が、心を壊さないようにと必死に考えた末に導き出した防衛反応が生み出した、小さな小さな難攻不落の城。その中に籠って、ただ過ぎる時を消化していくだけ。
真っ暗闇で、音もぬくもりも何もなくて、何も感じない俺だけの城。
誰にも触れられなかったその城は、たった一人の幼く小さな臆病者の英雄に、何ともあっけなく攻め堕とされることになった。


その小さな英雄は、ある日突然俺の城の前に現れ、扉を勢いよく開け放った。
『ドッヂの人数足りないからお前参加な!』
こちらに拒否権を最初から与えないという、少年特有の横暴さをもってして、俺を外に引きずり出した。英雄—梅原光留。招かれてもいない他人の心のうちに断りもなく土足でズカズカと入り込んで、剰え平然とした顔で居座ってくる男だった。
己の心を守るために作り上げた小さな城に籠る俺が顔をしかめているのにもかかわらず、この男は図々しく居座り続け、俺の心に勝手に椅子を作ってドカリと座り、そこを定位置とした。

感情も表情も乏しく、面白みのかけらもない、ただ時が過ぎるのに身を任せるだけの子供らしからぬ子供だった俺に、誰からも可愛がられそうな可愛げのある子供である光留が興味を持つ理由なんて好奇心以外の何物でもないだろうから、どうせすぐ飽きるだろうと思っていたが、その答えは存外早く知ることになった。

『俺の家さ、父ちゃんいなくて。母ちゃんはずっと働いてるから帰ってもだれもいなくてつまんねーの!』
軽い、いつもの調子で何気なくそう告げられたのは、光留が俺に構い始めてから二週間ほどが経ったある日の帰り道のことだった。

引っ越してきて一カ月たってようやく知った、光留が俺にやたらと構う理由。
一つは、俺と光留が同じく片親であり、家に一人でいることが多い家庭環境に置かれていること。
そして二つ目は——

『今日は弘也の家でいいよな?』

「うん。」

俺たちの家が、隣同士であること。隣の家に、よく似た家庭環境。親に構われない子供たち。
子供ながらに感じたシンパシーが、光留が俺に構う理由だったのだ。
そんな俺たちがお互いの家を行き来するほどの仲になるまで、そう時間はかからなかった。
飢えている子供同士であっても、久しいぬくもりに触れてしまったら離しがたくなるから。

放課後二人で下校して、荷物を自分の家に置いたら、すぐにどちらかの家に身を寄せた。
同じテーブルに教科書を広げて宿題をして。ゲームをして。マンガを読んで。
一人だけの音のない部屋でただ時間が過ぎ去るのを待つように過ごしていた時が噓みたいに、光留と一緒に過ごしていると時間が過ぎるのが早くて。
二人で過ごす時間が増えていくと同時に、夜が来るのが怖くなった。一人になるのが怖くなった。
光留に構われるよりも前は、一人でも平気だったはずなのに。怖くなんてなかったはずなのに。
でもそれは光留も同じだったみたいで。夜中に枕を抱えて半泣きでインターホンを押しに俺の家まで来た光留は、俺がドアを開けたとたんに見栄を張って涙を袖で急いでぬぐい、

『夜更かししちゃおうゼ!俺たち共犯だ!』

なんてのたまったものだから、俺は笑いながら光留を家に招き入れた。


子供用の小さな布団に、小さな子供二人で身を寄せ合って。
狭いとかもうっちょっと端に寄れ、なんて最初は言い合っていた文句も、久方ぶりに感じた人肌の温かさにお互い安心して。
気が付いた時にはお互いの体に腕を回して、抱き合う形で眠っていた。
布団の冷たさに目を覚ますことも、孤独感に押しつぶされそうになりながら時間がたつのをただひたすら待ち続けることもなかった。
母親が死んで以来ぐっすり眠ることができたのは初めてだった。
目が覚めるまで寝ていたのは光留も同じで、二人そろって寝坊して、遅刻して、先生に怒られる羽目になってしまったけど。


人肌の温かさと安心を知った俺たちが毎日のように交代で泊まるようになったのは自然なことだった。
以外にも、どちらの親も「となりの家にいます」と書置きをしておけば何も言われなかった。
放任されていたのか、信頼されていたのか。どちらにせよ、特に干渉されることもなく二人だけで補い合いながら過ごす日々はとても心地が良かったし、光留となら何をしていても楽しかった。
母親が死んでから感じないように閉じ込めて沈めていたはずの感情が、光留によって檻を壊され引き上げられていく。それでも、不思議と不快感は感じなかった。