1999年7月5日、月曜日。地球滅亡まであと27日。
テストが始まった。一日に三教科ずつ四日にわたって行われる試験は、少年たちを絶望へと叩き落とす。最後の教科が終わるまで油断と自由は許されず、机に向き合い参考書たちと睨み合いをしなければならない。なんせ僕の通う学校は文武両道を校訓に掲げる”自称進学校”であるため、勉学への向き合い方は他校より過激なのである。
三時間目の中盤。呪文のような問題と戦っていると、窓から雨音が聞こえた。驚いて顔を向けると、朝は若干雲がかっていた空が今ではどす黒い雨雲に覆われていたのだった。ぽつぽつと降り出した雫は、瞬く間に激しさを増していく。
呆然とその様子を眺めていると、突然頭上から鈍い音が響いた。見上げると、試験監督の教師が冷たく蔑んだ眼差しで僕を見下ろしている。カンニングをしたと勘違いされたのかもしれない。僕は慌てて博士の答案用紙に向かい合った。
(困ったなあ……)
しかし、僕にとっては将来存在するかも分からない数式を解くことよりも、もっと重大なことがあった。傘を家に忘れたのである。この場合の家というのは、カカシ宅ではなく水梨家を指している。
あと20分程で降り止んでくれないかと合われた期待を胸に、初めて見る数式を解いていく。結果が悲惨であったことは、云うまでもない。
正午前。僕は靴箱で立ち尽くしていた。
試験中から願っていた切望も虚しく、眼前には土砂降りの雨が降り注いでいる。傘なし金なし友なしの僕は、無一文で学校に堰き止められてしまった。
テスト期間のため購買は閉店しており、財布も持っていない。朝食も食べておらず空腹だというのに、雨が止むまで待っていたら餓死してしまうだろう。
カカシ宅までは15分弱かかるが仕方ない。走って帰ろうと腹をくくったその時。
「お前、もしかして傘持ってないの?」
「え……?うん、そうだけど:
突然背後から掠れた声をかけられる。振り返ると、鞄を肩から提げ湿気でうねった髪を描く市川の姿があった。
「俺傘持ってるけど使うか?」
「でも君は?」
「俺?俺はいいよ。家すぐそこだから」
「いやそれはちょっと……」
僕が申し訳なく答えると、市川は「そうだ」と呟いて提案した。
「じゃあ俺がお前の家まで送ってやるよ。それならいいだろ?」
「ありがたいけど、君はいいの?その……僕なんかと一緒に帰るのは」
男二人が身を寄せ合い一つの傘に収まるのは多少抵抗があるが、市川は大して樹にしていないようで「全然いいけど?」とけろっとした表情で返した。
断る理由もなかったため、お言葉に甘え彼の傘に身体をすべらせる。肩が触れ合うほどの慣れない距離感に当惑しながら学校を出る。背の低い僕に合わせたためか、彼の肩は濡れていた。
「水梨の家ってどの辺なんだ?」
「あそこの丘の上の団地だよ」
社交性の欠片もなく黙りこくった僕を見かね、市川がおもむろに尋ねる。僕は俯き足先を見つめながら答えた。
「意外と遠いんだな。でもお前、毎日徒歩で来てるよな。自転車の方が楽じゃねえの?」
「そうだね。でも僕、自転車持ってないんだ」
「それは……足の影響か?」
「違うよ。自転車は乗れるけど、持ってないから仕方なく徒歩で来てるだけだよ」
淡々とそう返すと、市川は「ふうん」と間延びした相槌を打つ。
「答えたくなければ無理して答えなくてもいいが、一つ訊いてもいいか」
「うん、何?」
「お前の足って、なんで悪いんだ?」
交差点の信号が点滅し赤に変わると、おずおずと市川はそう訊いた。僕は降り頻る雨の雫を眺めながら、あの日の記憶を回顧した。
「……昔、事故で怪我をした時に後遺症で残ったんだよ。でも、別に重いものではないよ。片足立ちとか片方に負担がかかる運動ができないだけで、走ることもジャンプすることも普通にできるんだ」
「ああ、そうなんだ。てっきりもっと重いものかと思ってたよ」
僕は朗々とした表情で「そうだよ」と笑い飛ばす。昏いあの日の記憶を隠しながら。
「じゃあ球技大会も楽しみだな。水梨はリベロとして大活躍してもらうぜ」
「はあ?無理だよ。そもそも運動神経悪いし君たちのチームと仲良くないし」
「いやいやそれは誤解だぜ。俺たちのチーム、というかクラスの皆は水梨の足を心配してるだけで仲良くなりたい気持ちは強いんだ」
「嘘ばっかり。どうせ僕は足手まといだから一生補欠でいいですう」
口を尖らせそう云うと、信号が青に変わる。僕たちの横を数台自転車が通り過ぎた。
「まあまあ。どちらにしろ俺達は同じ図書委員なんだし仲良くしようぜ」
「でも君、係決めの時あからさまに落胆してたじゃん。うわあ図書委員かよって」
「あれは図書委員の仕事が面倒で嫌だっただけだよ」
「本当かなあ」
「いや、本当だって。別に嘘つく必要も無いだろ」
何度も歩いた海岸線を、慣れない相手と相合い傘で歩く。今日の波はだいぶ荒れており、嵐の予感を抱かせた。
カカシの住むアパートに到着すると、市川は「こんな所に住んでるのか?」と疑いを寄せる。図星を当てられ面食らい、口を噤んでしまった。
「今日は……あるがとう。雨宿りさせてくれて」
「なんてことないさ、こんなこと。また困ったら俺に云えよ」
「あ、ありがとう」
部屋の前まで送ってもらい礼を述べると、最後に市川は僕に尋ねた。
「俺も、お前の友達になれた?」
「え?」
「俺達同じ委員会で一緒に帰る仲なんだぜ。そろそろ友達に昇格してもいいんじゃねえの?」
「友達……」
その言葉の響きは重く、僕は瞬時に今は亡き丸いシルエットの友を思い出した。数日前にヴァンパイアと名乗る男に血を吸われ亡くなった、彼のことを。
(友達か……)
顔を上げ市川と正面から向き合う。明るく活発的で友だちが多い、僕とは正反対の人間。だが彼の真っ直ぐな純粋な眼を見るに、悪人ではなさそうだ。
「うん。認めるよ」
「マジ?水梨って孤高の一匹狼みたいな感じだったからそういう馴れ合いはしないと思ってたわ」
「どんな偏見だよ」
自分から愚問を呈して来たにも関わらず驚いた顔のいち川に苦笑を零す。彼はごめんごめんと頭を下げ次に嬉々とした表情を浮かべた。
「でも嬉しいわ。俺が水梨の初めての友達になれて」
「ああ、そうだね」
正確に云えば権兵衛が最初なのだが、水を差すようなので黙っておいた。
「じゃあまた明日、学校でな」
「うん。また明日」
雨が激しくなる前に、二人は惜しみながらも別れを告げた。人間の友達が出来るという経験は初めてで、言葉にしがたい不思議な感覚を抱いた。
彼の背中を見送り部屋へ入ると、珍しくリビングルームで窓から外を眺めるカカシの姿があった。いつもならばまだ棺の中で眠っている時刻のため、思いがけず虚を突かれた。
「どうしたの、こんな時間に」
「今の少年は君の友人?」
「……そうだけど」
そう問いかける声は靄がかかったように掠れていて、僕も思わず返答に困った。
「……そうか」
「なに、もしかして嫉妬してるの?」
悪戯な笑みを浮かべ窓の外から視線を外さないカカシにそう尋ねるも、彼は無反応で否定も肯定もしなかった。変なの、と口を尖らせた僕は押入れを漁り数少ない食料を確保した。
湯が沸くのを待っている間も、何故かカカシは窓の外を見つめていた。すっかり小雨は豪雨へと変わった、終末を待つだけのこの町を。
