1999年7月1日、木曜日。地球滅亡まであと31日。
眩しい日差しがまろい頬を照らしていた。
長い梅雨がようやく明け、萎れていた木々は懸命に根を伸ばす。葉は熱を帯びた風に乗り、優雅な音色を奏でていた。
夏の日の真昼。海を望むとある学校のとある教室で、僕はひとり売れ残った菓子パンを貪っていた。四時間目の授業が長引き、購買のパン争奪戦に乗り遅れてしまったのだ。急いで駆け付けた頃には時既に遅し。高価なうえ味気のない不人気なパンしか残っていなかった。
快晴の夏日和の教室は熱気と喧騒に包まれていた。全開にした窓からは夏らしい爽やかな風が吹き、二台の扇風機は健気に稼働している。それでも室内は暑く、下敷きで空を扇ぐ者や、薄汚い足を見せびらかしスカートをはためかせる者もいた。
僕は窓際の最前列で、窓から炎々と照りつける太陽と、延々と続く水平線を眺めていた。先日の豪雨は何処へやら、雲一つない青空が広がっている。
台風が過ぎ去り、今年も巡ってきた夏を痛感しながら、乾燥したホットドックを胃に詰め込む。僕はひとり、明日には滅ぶかもしれない空を見つめていた。
図書委員会の用務を済ませ、その足でアルバイトへ向かう。勤務地は学校近くに佇む、この町では珍しい中華レストランだ。小遣いはもらっているが毎日の昼食代で呆気なく消えてしまうため、最低時給の低賃金だが働いて集金しているのである。
基本的に週に3,4回平日の17時から20時の3時間ほど勤務している。そもそもアルバイトは禁止事項なうえ許可証も出していないため二重で校則違反をしているが、生きていくために必要なことであるから仕方あるまい。働き始めて二ヶ月近く立つが、キッチンスタッフとして働いており厨房から出ることはないため、まだ一度もばれてはいない。同じ学校の生徒でもホールスタッフとして堂々と働いている者もいるから、ばれない努力をしている時点で僕はまだ常識人なのかもしれない。
平日の夜でも客は多く、普段は温厚な店長は、混雑時には悪魔に取り憑かれたように従業員を虐げるため、僕は炒飯製造機に成り下がる。人としての自我を亡くし、虚ろな眼で米と卵と野菜を炒めるだけのロボット。このモードに入ると、炒飯が親の敵のように恨めしく思えてきて、遂には自分の存在意義を問うようになる。アルバイトを初めて未だ二月弱のため辞めるわけにもいかず、暗鬱な気持ちを抱えながら出勤しているのだ。
更衣室で制服から着替えながら、僕は深い溜め息を零す。世界が終わる末までこんなことを続けなければいけないのかと、愚問を自らに説いた。
今日も休み無く稼動し続けた挙げ句、店長に懇願され一時間も延長された。疲労困憊の中海岸線を沿って歩き、帰路を辿る。
辺りは既に夜の帷が下りていて、星がきらびやかに輝いていた。街灯の少ない田舎道で、彼らだけが道標のように頭上で光っている。
涼しげな夜風に当たりながら、僕は交差点で立ち止まった。
このまま家に直帰するか否か迷っていたのだ。いつもならば、アルバイトが終わったら堤防近くのベンチで海を眺め時間を潰している。義父や義兄と顔を合わせたくないからだ。
しかし今日は一時間も長く働いていたため、そのまま直帰しても差し支えは無い。ただ、毎日顔を合わせている野良猫の権兵衛に会いたい気持ちも強い。
僕は散々悩んだ末、後者を選んだ。権兵衛が健気に僕の帰りを待っているかもしれないという浅はかな期待も込め、浜辺へと向かった。
堤防を越え、いつもの青いベンチへ走り出す。波は穏やかだが夜の闇を吸収し、何処か寂しげな翳りがあった。水月は淡い光を放ち、暗闇の中でただひとり静かに町を見下ろしていた。
ベンチにたどり着き、酷使した腰を下ろし一息付く。夜空を彩る星々と妖しげに浮かぶ月のコントラストは、何度見ても神秘的であった。この規則的に波打つ水平線へ身を投じたい。なんて気が湧くほどには、僕はこの光景に魅了されていた。
そんな時、たいてい権兵衛が僕の足に駆け寄り現実に引き戻してくれる。自由気ままに生きる彼は、僕の下らない夢想なんかには興味がないように、ふてぶてしく膝の上に居座るのだ。その図太さが逆に救いになっているのかもしれない。
しかし、待てど暮らせど権兵衛は現れない。いつもより一時間も遅く来たから、呆れて帰ってしまったのだろうか。
(もう9時半だし当然か…)
どこか腑に落ちぬまま腰を上げ踵を返したところで、ふと視界の端に蠢く人影が映った。
波打ち際で誰かが蹲っている。暗くてはっきりと見えないが、案山子のように細長いシルエットだ。
足音を殺して近付くと、僕は衝撃で目を見開いた。細く伸びた人影の足元に、ひどく弱った権兵衛の姿があったのだ。
「権兵衛!」
勝手に命名した名前を叫び駆け寄ると、蹲った影も驚いて振り返った。暗闇に浮かんだその顔を見て、はっと息を呑む。今夜の月のように青白い輪郭に、非現実なほど整ったパーツが配置されていたからだ。
長身痩躯のひどく生気のない肌の男は、闇に紛れる漆黒の髪から赤い瞳を覗かせた。高い鼻筋の下の唇の端には、同じく鮮血のような真紅で染まっていた。
そして、彼の足元にはぐったりと横たわり吐血する権兵衛がいた。
「権兵衛……」
膝をつき震える手で抱き顔を覗き込むも、いつもの澄ました瞳は虚ろに淀んでいて、小さな口から紡がれる呼吸は停止していた。首輪のない首元からは血が流れ落ち、権兵衛の白い毛を汚していた。
「もしかして、君のペットだったかな?」
悲しみに暮れる僕をよそに、傍らで見据えていた男は朗々とした声色で尋ねた。薄ら笑いを浮かべる彼の口元には、権兵衛の血が張り付き顎から垂れ落ちている。否が応でも、彼が権兵衛に何をしていたか予測が付いた。
「お前、何してんだよ!」
「ちょっと、質問を質問で返さないでくれ給え」
睨みつけるように見上げた僕に臆しもせず、男は飄々とした態度を貫く。僕は亡骸と化した権兵衛を腕に抱えながら、落涙するように呟いた。
「ペットなんかじゃない……この子は、友達だよ」
「そうか。それはすまなかったね」
男は悪びれた様子もなく、上辺だけの謝罪を述べる。怒りよりも悲しみが勝っていた僕は彼の言葉に耳を傾けることもなく立ち上がり、砂浜を徘徊した。
「何してるんだい?」
「何処かに埋葬してあげないと。このまま放置しておくのは可哀想でしょ」
「海は寒いよ。それに、土はもっと冷たい。君たちは仏教徒だから火葬じゃないのかい?」
「まあ、普通の人ならね。僕は宗派が違うから」
男の云う通り、海辺の砂は冷たいうえ繊維が細かいため埋葬に向いていない。しかし、裸のまま腐食してゆくのはあまりに権兵衛が不憫だ。
「それじゃあ土葬かい?かなり珍しいけど水葬とか?」
「違うよ。僕たちも火葬だ。ただ、弔いの際に花が要るんだ」
「へえ、火葬にも種類があるんだね」
「それより、あんたは何者なの?こんな所で猫を襲うなんて」
たった一人の友達の墓場を探しながら、僕は漸く本題に切り込んだ。 猫を吸血した姿を目撃されたにも関わらず、逃げもせずずけずけと僕に尋ねて来る、この男。カラーコンタクトを装着しているのか瞳は鮮やかな赤で、肌は病的なほどに青白く、シャツから伸びる腕や首は細長い。僕よりも頭一つ以上は上背があり、細身な体格も相まって紙人形のようだ。明らかに常人の容貌ではないが、犯行現場を目撃してしまった手前、尋ねずにはいられなかった。
権兵衛を抱きながら、作り物にしては精巧な水晶のような赤い瞳を見据える。彼はその瞳を細めると、薄い唇に弧を描いて云った。
「私?私はね、ヴァンパイアなんだよ」
自称ヴァンパイアの男と僕は、小さな浦山に移動した。結局砂浜で埋葬するわけにもいかず、頂に神社が聳える近くの山で弔いをすることにしたのだ。
家に一度帰った僕はマッチ箱だけを抱え、ヴァンパイアと山を登る。その道中、夏の夜風に揺れていた花をもぎ取り、せめてもの餞とした
厳粛な雰囲気を漂わせる社の隣で、僕達は権兵衛の葬儀をした。小さな屍体を焚焼し、名もなき花を供えた。その様子を傍らで眺めていた彼も、僕に倣って可憐な一輪の花を添えた。権兵衛にそっくりの、汚れなき純白の百合の花だ。
燃え上がる炎と、それに包まれる亡き権兵衛を呆然と見つめていると、唐突に彼が尋ねた。
「この子の名前は何ていうんだい?」
「名前は無いよ。野良猫だから」
「でもさっきゴンベエと呼んでいただろう?」
「それは僕が勝手に付けた名前だよ。”名無しの権兵衛”っていう言葉があるでしょ?あれから取った、面白みのない陳腐な命名さ。本当の名前は、僕も知らない」
「ふうん。それじゃあ私と一緒だね、この子も」
「え?」
僕は闇に浮かび上がった彼の横顔を振り返る。そこには何処か物憂げな影がさしていた。
「私も二千年前、勝手にこの身体と名前を与えられたんだ。だから本当の名前はとうの昔に忘れてしまってね」
「……はあ。もしかして本当にその設定で通すつもりなの?」
「設定、とは?私は正真正銘、二千年前から生きるヴァンパイアなのだけれど」
「は、はあ」
真っ直ぐ僕の射抜く瞳に気圧され、曖昧な返事をする。
「信じていないね」
「そりゃあそうでしょ。ヴァンパイアなんて架空の生き物でしょ。それにあんたは人間じゃなくて猫の血を吸ってたじゃん」
「いやあ、実は私は訳ありでね。人間はなるべく避けて、猫やねずみなどの小動物で我慢してるんだ」
「ふうん」
信憑性の欠片も無い愚言を信じるわけもなく聞き流す。権兵衛の屍体は徐々にただの肉塊へと進化し、やがて灰へと化していった。
「信じてくれなくても、別に構わないさ。慣れているからね」
「ねえ、あんた名前は?」
ヴァンパイアという設定を頑なに曲げない彼を見かね、僕は尋ねた。二人の間で淡く炎が燃え上がる。
「……だから云っただろう?本当の名前はもう忘れてしまったって」
「名無しか。権兵衛と一緒だね」
「うん。だから君が付けてよ。この子みたいにさ」
「ええ……」
唐突に命名権を与えられ困惑を見せる。二人の間に静かに火花が散った。
僕は供えられた花を見下ろす、彼の整った横顔を見つめた。細く高い鼻筋と、薄い唇。切れ長の涼しげな瞳。その瞳の鮮やかさに見惚れながら、長考の末思いついた。
「カカシ」
「えっ」
「名前、カカシにする」
カカシ。彼の第一印象から取った、またしても陳腐な名である。どうやら僕は母の胎にネーミングの才を忘れてしまったらしい。
しかし、予想に反して彼は満足げな表情を浮かべ「いいね、それ」と賛同した。否定されると予想していたため、僕の方が狼狽している。
(……変な人)
野良猫を襲い自身をヴァンパイアと称したり、カカシと命名されたにも関わらず嬉々としていたりと、本当に変わった人種である。しかし何故か、僕は彼に親近感を抱いていた。
「そういう君は?」
「え?」
「君の名前」
「僕は……」
と咄嗟に、僕は開きかけていた口を閉ざした。沈黙が二人と亡者の間を包む。
「……僕も名前が無いんだ。あんたが付けてよ」
「ううん、そうだねえ⋯⋯」
僕も彼に倣って命名を委ねた。彼は細い顎を撫でながら考え込む。
「スズメ。うん、スズメだね」
「スズメ?なんで?」
「特に理由は無いよ。小さくて口うるさい漢字が小鳥みたいってだけさ」
「はあ?」
こちらも想定外の命名をされ、間の抜けた声を出す。カカシとスズメ。何とも不格好で不釣り合いな愛称である。
僕達はその後、権兵衛の最期の見送りをし、塵となった遺灰を土に埋めた。別れが早まっただけで、いずれこうなる運命だったのだ。人に吸血され命を落としたことは何とも居た堪れないが、受け入れよう。
盛られた土の横に、二人の花を供える。名無し草と、百合の花。本当は両手に抱えきれない花束で弔いたかったが、友人のいない僕には叶わなかった。
しかし、権兵衛は僕の唯一の友達であり、心の拠り所であった。この事実は、世界が滅びようとも変わることはないはずだ。
下山し、家に帰る頃には日付が変わっていた。カカシと別れを告げ玄関へ手をかけるも、何故か扉は開く様子を見せなかった。
(もしかして……)
慌てて裏口へ回るも、そこも施錠されている。合鍵も持っていないため、僕は完全に家から締め出されてしまった。
(どうしよう……)
無情に佇む玄関扉の前で、ひとり立ち尽くす。近くの公園で野宿でもしようか、と愚考が過ったところで、背後から朗々とした声がかけられた。
「スズメ」
その名称で僕を呼ぶ人物は、世界で一人しかいない。振り返ると、夜風に漆黒の髪を靡かせる美しい青年が立っていた。
「私の家に来るかい?」
悪魔の誘いに、僕は迷うこと無く頷いた。
カカシに案内されたどり着いた場所は、海岸線沿いに建つ二階建てのアパートであった。黒ずんだ壁には蔦が這い剥がれ落ち、いかにも古臭い。カカシの部屋は二階の角部屋で、ロフト付きのワンルームであった。
室内は人が寝食をしているのか疑いたく鳴るほど殺風景で、生活感が皆無である。リビングルームは中央に座卓と座椅子が置かれているだけで、机上には埃一つ無い。キッチンも長らく使っていないのかシンクが乾き切っており、冷蔵庫も酒瓶が数個あるだけで、すっからかんである。
大して、木造の梯子を登った先に広がるロフトは、強盗が侵入したかのようにひどく散乱していた。手前から最奥まで壁際に沿って設置された本棚は、幾多の文庫本が密集し雪崩を起こしている。
そして一際目を引くのは、その横に備え付けられた寝台であった。いや、これは寝台と云っていいのか疑う代物である。
(これは__棺?」
そこには葬儀場やホラー映画で出てくる黒棺があった。中を覗くもクッションの類や布団なども敷かれておらず、出棺前のように静かに置かれている。
「ねえ、これ何?」
「何って、見たら分かるだろう。私の寝床だよ」
「そうじゃなくて、これ棺でしょ?」
「そうだよ。君も知ってるだろう。ヴァンパイアは日光に弱いから棺で眠ると」
そんな逸話も聞いたような聞かなかったような。だがたとえ吸血鬼に憧れを抱いていたとしても、ここまではやり過ぎではないだろうか。
「またまたそんなこと云って。別にここまでしなくても普通に寝ればいいじゃん。どうせ人間なんだし」
「駄目だ。日光は完全に遮断しないと、皮膚が焼け焦げてしまうんだ。そして私は人間じゃなくヴァンパイアだ」
「はあ」
ここまで徹底してヴァンパイアを演じられると、もはや笑いが込み上げてくる。呆れた表情でロフトを降りると、突然腹から奇妙な旋律が奏でられた。
「きゅるるるるうううぅぅ」
「なんだ、腹が減っているのかい?」
「……」
僕は俯きながら自身の薄い腹を撫でる。そういえば昼食のホットドック以降、半日近く食物を一切摂取していないことに気付いた。
「何か食べるかい?といっても、あまり食料は無いけれど」
「いいよ別に。食欲無いし」
先程権兵衛の死に際を目の当たりにしたせいじゃ、空腹ではあるが何か食べたい気分ではなかった。しかし、カカシは押入れを漁り始める。
「ううん、人間の食べ物はあまり食べないのだけれど……」
「じゃあ何を食べてるんだよ」
「何を食べてるかって?愚問だね。勿論血液だよ」
「はあ」
だからそんなに痩せ細っているのか、とひとりでに納得する。カカシは骨が浮き、関節が目立つ骸骨のような体型をしている。恐らく僕よりも彼のほうが早急に栄養を摂取した方が良いのではないかと思ったが、言葉にはしないでおいた。
カカシは押入れからインスタント麺を取り出し、僕に手渡した。しかし彼は作り方を知らないようで、キッチンを借りて調理することにした。
その間、彼はベランダで凪いだ水平線を眺めながら、唯一冷蔵庫に保管していた酒を仰いでいた。人間の飲食物は食べないといっていたくせに、酒は好んで飲むらしい。本当に不思議な人種だ。僕はその後ろで黙々と麺を啜っていたが、すぐに箸が止まってしまう。細い背中に「食べるのを手伝って欲しい」と投げかけると、意外にも了承してくれた。
しかし、彼も箸を進める速度は襲い。無表情のまま食べ進める姿は、ただ胃に流し込むだけの作業であった。人間が虫を食すように、いかにも不味そうである。
「でも、血ばかり吸ってお腹空かないの?」
「まあね。君たち人間とは身体の構造が違うし。そもそも食欲という概念が無いからね」
「だから何も食べなくても生活できるの?」
「そうだよ。たらふく何か食べたいという欲求自体が無いのさ」
「へえ、変なの」
二人で一人前の麺を分け合いながら、そうして夜は更けていった。再び盃を片手にベランダに出るカカシの後ろ姿を眺めていると、唐突に強い眠気が押し寄せてきた。漸く屋内に入り安堵したこともあるだろう。カカシに「六時間後に起こしてくれ」とだけ伝え、そのまま座椅子を枕代わりに寝転んだ。
涼しい夜風が熱を帯びた肢体を冷やし、心地良い。虫の鳴き声と、仄かに混じった酒の香りのする風に吹かれながら、僕は眠りへと落ちていった。
