冷遇された無能の妻は、冷徹無慈悲な軍人様に溺愛されていました。

 純和風の大きな母屋の敷居を跨いだ途端、義母が悲鳴をあげた。
「きゃー、何故、無能の嫁が母屋に足を踏み入れているの!? しかも、呪われた離れで暮らしているのに、わたくし達まで呪われるじゃない!」
 義母は、蒼真も離れで暮らしていることを知らないのだろうか。無能はともかく、後者の発言は蒼真に対する侮辱でもある。
 そして、桜子も同様の反応を示す。
「どうして、お異母姉様が、この神聖な母屋に!? それに、蒼真様と手なんて繋いで……って、蒼真様は、出張中だったのでは? あ……」
 桜子は、バツが悪そうに蒼真から目を逸らした。
「出張は先月終わった。今は、共にあの離れで暮らしている。仲睦まじく……な」
「仲睦まじくって、お異母姉様が慕っているお相手は」
「蒼真様です!」
 はっきりと言えば、蒼真が隣で微笑んだ。そして、その表情は一変、桜子を冷めた目で見据えた。
「もちろん、俺の愛する相手も柚子葉だ」
「なッ、お異母姉様の分際で、蒼真様に愛されるですって……」
 ギリリと唇を噛む桜子を横目に、私は蒼真と共に義父のいる奥の部屋へと進んだ――。
 頼もしい蒼真の手に繋がれているため、母屋にいても怖くない。けれど、私が見たものが妖魔の残り香と違ったら……私に昇華という異能が無かったら……今度こそ、無能として厄介者でしかない。蒼真のお荷物にしかならない。
 それを口にしたら、蒼真に叱られそうではあるが、これまでいくら試しても何も起こらなかったのだ。今更、夢を見ても絶望が待っている気しかしない。
 一番奥にある部屋の前に立てば、蒼真にギュッと強く手を握り直された。
「大丈夫だ。俺が付いている」
「……はい」
「全然大丈夫そうではないな」
「……はい」
 緊張した面持ちで、胸に手を当てて深呼吸する。
「案ずるな」
 そう言って、蒼真に耳打ちされた。
「実はな。――――だという噂だ」
「……え?」
「もしも、柚子葉に異能がなくても、これからは誰にも文句を言わせない。いや、言えんだろうな」
 蒼真は、襖を横に引きながら、振り向きざまに笑顔を向けた。
「それに、柚子葉には必ず異能がある」
「蒼真様……」
 感極まっていると、目の前の異様な光景に息を呑んだ。
「え……」
 襖を開けた向こう側には、真っ黒い蝶の群れが飛び回っていた。
 部屋の中央に敷かれた布団の上に横たわる義父の顔は、数度しか見たことが無かったけれど、以前見た時よりも随分と痩せこけ、土気色をしていた。呼吸も浅く、今にも事切れてしまいそうな印象だ。
 蝶の一匹が、義父の頭の上に止まった。それは、まるで蜜を吸う様に制止している。
「柚子葉、どうだ?」
「どうだ……と、言われましても」
 よくこれで平然としていられるものだ。
 そして、これらの蝶の外見は、先程蒼真の持ち帰った本に載っていたものと同じ。幼虫から蛹、蛹から成虫になる程、その人の精気を奪っている証なんだとか。更には、成虫になってしまったが最後、自身の生命力だけで、それを消滅させるのは困難だとも書いてあった。その後は、死しか待っていないと……。
「蒼真様。急いだほうが宜しいかと」
「うむ。やはり、そうか」
 蒼真と私の後ろに、義母と桜子もやってきた。
「ちょっと蒼真。なにごとなの?」
「そうですわ。無能が、お義父様になんの用なの?」
「無能ではない。柚子葉は、誰よりも特別な異能者だ」
「は? どういうことですの?」
 怪訝な顔をする義母と桜子に見せつけるように、蒼真は力強く言った。
「柚子葉、頼む」
「はい」
 私は、蒼真から手を離し、部屋の中に一歩足を踏み入れた。
 飛んでいる蝶を幼虫や蛹のように素手で追い払うことは不可能。どうしたものかと悩むことなく、私は祈るように手を前で組んだ。
 異能の使い方は知らないはずなのに、何故だか言葉が勝手に口から出た。
「精気を奪う残り香よ、天に昇れ。昇華」
 そう唱えると、蝶の群れは一斉に黒い霧と化した――――。
 暫しの静寂が流れ、桜子が口を開いた。
「なにも起こらないじゃない」
 私以外には、今の光景が見えていないようだ。しかし、その直後、二年半寝たきりだったはずの義父が起き上がった。
「これは……どういうことだ?」
 不思議そうに自身の体を確認する義父。そして、義母も目を丸くしながら義父の元へと駆け寄った。
「あなた!? あなた、起きられるの? 立ち上がって平気なの?」
 義父は、立ち上がってその場で足踏みする。
「少々動かしにくいが、問題ない。若子が熱心にリハビリをしてくれいたおかげだな。褒美をやろう」
「まぁ! 若子が喜びますわね。蒼真様」
 微笑みかければ、蒼真もまた微笑みかけてくれた。
「だな」
「蒼真、一体これはどういうことだ。説明しなさい」
「これは、柚子葉の異能に御座います。数百年に一度しか現れぬ、稀少な異能『昇華』」
 蒼真は、懐から本を取り出し、義父に手渡した。しおりが挟まれたページを広げれば、義母もその隣から覗き、桜子も後ろの隙間から覗き込んだ。
 三人が読み終わるまで、私は蒼真と目を合わせては照れたように逸らし、また目を合わす。を繰り返した。
 そして、やっと読み終わった義父が私の前で膝を付いて座った。
「柚子葉。感謝する。無能だと蔑んでしまったこと、謝罪する」
「え、あ、えっと……」
「ほら、お前も」
 戸惑う私の前で、義父に促さた義母は、そっぽを向いた。
「こんなの信用できません。わたくしは、先程見ていましたけど、何も起こっていませんでした」
「母上。それは、昇華の異能を持った柚子葉にしか見えないからです」
「そう言って、わたくし達を騙しているのかもしれないわ」
「騙すって……」
 蒼真は途方に暮れたように頭を掻いた。
 私以外の人には見えていないものを証明しろというのは、難しいものがある。これ以上、蒼真に迷惑はかけられない。「もう良い」と声をかけようとしたところで、恭介が現れた。
「なにかあったの?」
 蒼真よりも柔らかい印象を与える恭介は、優しい笑みを浮かべているところしか見たことがない。と言っても、婚儀の時に会って以来だ。無能の私には、いっそ興味がなかったのだろう。蔵にいる私の元まで出向くことなど一度たりとて無かった。それなのに、蒼真は私と恭介の仲を嫉妬するなんて……嬉しくて、つい顔の筋肉が緩みそうだ。
 それはさて置き、土下座している義父を見た恭介は、驚きの声をあげる。
「え、父上!? どうして!?」
「柚子葉に救ってもらった」
 義父は立ち上がり、恭介にも先程の本を読むよう促した。
「わたくしは、認めておりませんけどね」
 突っぱねる義母の隣で、桜子も深く首を縦に振る。
 蒼真は、それを見て眉間に皺を寄せた。
「柚子葉のことを信じて頂かなくても結構ですが、恭介兄さんの子、あの子に異能がないのはご存知ですか?」
「え……? まさか……」
 義母は唖然とし、桜子は焦ったように前に出た。
「ちょ、なにを根拠に。まだ、正孝は二歳半ですわよ。異能がないだなんて失礼なこと言わないで頂けます?」
「先日、母屋の裏手に妖魔が出現し、正孝が居合わせた。だから、聞いてみた。怖かったかと」
「まさか……」
「そう、彼は何もいなかったと応えた」
「そんなはず……」
「まぁ、信じられずとも、いずれ分かることだ。あの子が、恭介兄さんとの間に出来た子でないことも」
 その言葉に、そこにいた全員が桜子を見た。桜子は、目を泳がせた。
「は、え、そんなでたらめ、誰が」
「桜子、どういうことか説明してもらっても?」
 恭介の顔から笑顔が消えた。
「桜子」
「そ、そんなの蒼真様の勘違いです。証拠が、証拠がありますの!? ありませんわよね!?」
「証拠ならここに」
 蒼真は、ポケットから一通の手紙を取り出した。
「あ、それは」
「蒼真。それは?」
「桜子が愛人に向けて出した手紙です。月一でやり取りしているようで……見て下さい。ここに『正次。あなたの子の写真と今月分のお金。入れておきます』と、書かれています。これが、何よりの証拠です。恭介兄さん」
「ふぅん。そっか……」
 恭介からは感情が読み取れなかったが、桜子が言い逃れ出来ないことだけは確かだ。

 ――それから、桜子は恭介や義両親に問い詰められ、白状した。
 桜子の苦し紛れの言い訳はこうだ。
 女学校時代の頃、世間を知らない学生は皆、教師に恋焦がれるのだとか。それがどんな見てくれでも。故に、教師と恋仲になれば、周りから一目置かれた存在となり、学園内では勝ち組となる。
 教師である正次を手玉に取り、恋仲になった桜子は有頂天になっていた。しかし、ちょうどその頃、私に蒼真から婚約話がきた。桜子は、蒼真と正次を天秤にかけた。
 勿論、容姿や器量だけでなく、金銭的にも家柄的にも、全てにおいて蒼真の方が上だった。私に負けたくなかった桜子は、それよりも上を目指す為、恭介に縁談話を持ち掛けるよう父にお願いし、結婚までこぎつけた。
 しかし、桜子の腹には、既に正次の子がいた。桜子は、恭介の子として産み育てた。
 それをバラされたくなかったら……と、正次に脅され、桜子は定期的にお金を渡していたのだとか。ついでに、体の関係も求められ、拒めなかったのだと桜子は証言する。
 本当のところは分からないが、何にせよ、恭介を欺き、恩田家の金をくすねていたのだ。情状酌量の余地はない。桜子は恩田家を追い出される運びとなった——。

◇◇◇◇

「お前が気に病むことはない」
 離れの縁側で、蒼真が私の肩をそっと抱いた。
 月夜を眺めながら、私は不安気に呟いた。
「ですが、子に罪はないのです。正孝とお腹の子は、大丈夫でしょうか……」
「子は、案外強く生きるものだ」
「だと、良いんですけど……」
「さ、今日は冷える。部屋に戻ろう」
「はい」
 蒼真と部屋に戻ろうと後ろを振り返るや否や、若子の慌てた声が聞こえてきた。
「ちょ、桜子様が、なんのご用ですか!? ご実家に、帰られたはずですよね!?」
「桜子……?」
 不安気に蒼真を見上げれば、桜子の狂ったような高笑いが聞こえてきた。
「ハハハハハ、お異母姉様の分際で、あたしより幸せになろうったって、ただじゃおかないんだから! 恩田家なんて、妖魔に襲われて潰れれば良いのよ! ハハハハハ」
「柚子葉、ここで待っていろ」
「蒼真様!?」
 蒼真は、私を置いて走って中に入って行った。
 待てと言われたので、ついていく訳にもいかず、私は縁側で一人待機した。すると、蒼真ではなく、血相を変えた若子が出てきた。
「柚子葉様! 逃げましょう!」
「え、若子!?」
「妖魔です! 妖魔が、あの部屋から!」
 それだけ聞いた私は、桜子が何をしにきたのか分かった。
 呪われた部屋の封印を解いたようだ。恩田家を混乱に導き、私を排除する為に。
「逆恨みにもほどがあるわ……」
「柚子葉様! 蒼真様が食い止めて下さるそうで、急いで外へと、とにかく、離れろと」
 私に異能があることは発覚したが、それでも私に妖魔は見えない。足手纏いになるわけにはいかない。
「分かったわ。では、恭介様らにも協力を仰ぎましょう」
「そうですね。柚子葉様、行きましょう!」
 私は、若子と走った。
 離れの中が青い炎で燃え盛っているのを背後に、かつて住んでいた蔵の前を通り、母屋へと続く道を走る。そこで、急に若子が転んだ。
「キャッ」
「若子!?」
 それは、まるで後ろから突き飛ばされたように見えた。が、そこには誰もいない。
「まさか……妖魔? 若子、立てる!?」
 若子に駆け寄れば、転んだだけのはずなのに、顔面真っ青になっていた。
「柚子葉様……」
「若子、しっかり!」
 声をかけつつ、若子の身の回りを観察すれば、妖魔の残り香が若子の着物に付いていた。私は、すぐさまそれに手をかざす。
「精気を奪う残り香よ、天に昇れ。昇華」
 残り香は黒い霧と化し、若子の顔色が戻った。
「あれ、私……」
「若子、急ぐわよ! 残り香は倒せても、私、妖魔は倒せないから!」
「はい!」
 目には見えない妖魔から逃げつつ、私たちは母屋を目指した――――。

 それから、恭介と義父に説明すれば、すぐに出てきてくれた。
 義母はといえば、可愛がっていた孫と血の繋がりがないことを知ってから、元気を無くしているよう。部屋から出て来なかった。
「お義母様をお一人にして、大丈夫でしょうか……。もしも、母屋にまで妖魔が来たら……」
 不安げに母屋を振り返れば、義父は平然と応えた。
「あいつは、問題ない。私より強い」
「そ、そうなのですね」
「それより、よく、この妖魔から逃げて来られたな。怖かっただろう」
 相当いるのだろう。先程から、恭介の異能『黄雷』が次々に繰り出されている。
「見えないのが、功を奏したかもしれません」
「なるほど。それは、あるかもしれないな」
 見えていたら、恐怖で立ち上がることも出来ないかもしれない。今、私はただ暗い敷地内を小走りに移動しているだけだ。
「柚子葉様。こちらに、沙耶さんと知世さんが倒れていらっしゃいます!」
 草むらの方から若子が叫んだ。それと同時に、沙耶と知世の真上に恭介の黄雷が放たれた。
「妖魔にやられたみたいだね。柚子葉ちゃん。残り香、見える?」
「あ、は、はい。少々お待ちを」
 沙耶と知世の周りを観察すれば、残り香は七匹ほどいた。かなりの妖魔にやられた模様。
「すぐに、倒しますね」
 手をかざそうとすれば、恭介が間の抜けた声で言った。
「けど、彼女らはさ、良いんじゃない? 放っておいて」
「え……?」
「だって、蒼真から聞いたよ。桜子の言いなりになって、柚子葉ちゃんを虐めてたんでしょ? まだ若いし、自力で回復するでしょ」
「で、ですが……」
「これでも、僕は桜子の元夫で、この家の当主だ。そんなことにも見抜けなかったこと、謝罪するよ」
 恭介に頭を下げられた。
「え、あ、い、良いんです。恭介様は、被害者ですし……」
「面目ない」
 今日は、何度も頭を下げられる日だ。
 しかし、下げられ慣れていない私は、どうして良いか分からず、手をあげた。
「えっと、私、やはり、この二人を助けようと思います。使用人は、主人には逆らえませんから……」
「柚子葉ちゃんは、優しいね。蒼真の嫁にしておくのが勿体ないよ」
「そ、そんなことは……私なんかに、蒼真様が勿体ないだけで」
「じゃあ、僕のところに来る?」
「え!?」
「冗談だよ。そんなに嫌そうな顔しなくて良いのに」
 茶化したように笑う恭介に、蒼真が私を近付かせたくない理由が分かった気がした。物静かで口下手、誤解を生みやすい蒼真とは正反対で、人柄の良さと親しみやすさを備えている恭介に、うっかり流されてしまいそうだ。
 とはいえ、私は既に蒼真に惚れている。そんな心配は無用だ。
 昇華で沙耶と知世を救った私は、改めて気を引き締める。
「急ぎましょう。あら、お義父様は?」
 振り返った時、先ほどまでいた義父の姿が無かった。その問いには、若子が応えた。
「皆で離れに行く必要はないと、大旦那様は敷地内の妖魔を倒しに行かれました。敷地外に妖魔が逃げても厄介ですし」
「そう……」
 義父の考えは尤もだ。しかし、妖魔の根源とも言えるあの離れで、蒼真と恭介二人で大丈夫だろうかと不安になる。かなりの数の妖魔が外に出たということは、若子の時のように、すぐには封印が出来なかったということ。今もそれが出来ているとも限らない。
 不安を胸に、私は蒼真の元へと急いだ——。

 離れに着くなり、私の心配は杞憂だったと思い知らされる。
 離れは、全てが青い炎に包まれていた。その前には、紐で雁字搦めにされた桜子と、冷淡な瞳で青い炎を見つめる蒼真の姿があった。
「蒼真様!」
 いつになく大きな声で呼べば、蒼真は驚いたように振り返った。そして、次の瞬間、優しく微笑んだ蒼真が両手を広げた。
「柚子葉」
 私は、その胸の中に飛び込んだ。
「無事だったか」
「はい、おかげさまで」
「蒼真様は……」
「この通りだ。しかし……」
 蒼真の顔に影が刺した。
「どうか、なさいました?」
「いやな、あの部屋がある限り、この女は何度だって来そうな気がして……」
 私は、青い炎を見つめた。
「もしや、この炎は、妖魔だけでなく……」
「そう、離れ全てを燃やし尽くしている」
「そう……ですか」
「すまない」
「ど、どうして、蒼真様が謝られるのですか!?」
 この離れは、蒼真の物だ。所有者が好きにすれば良い。
 ただ、この離れには、楽しい思い出が詰まっている。呪いの札が貼られた部屋は、確かに怖い。けれど、若子に出会い、蒼真と思いが通じ合った場所。それから沢山の話をして、共に料理もした。蒼真が帰ってくるのが待ち遠しく、玄関の前に何時間も前から座っていた。
 これが無くなると思うと寂しいが、蒼真は無事なのだ。私は、それで良い。
「蒼真様。実は……」
「やはり、ここが良かったか?」
「いいえ、そうではなくて……私のお腹には、蒼真様の子が……いるようなのです」
 照れたように上目遣いで見れば、蒼真は目を丸くした。
「それは、真か!?」
「ええ、おそらく。ですので、私は、呪われた部屋がある離れより……」
「そうだな。新居を設けよう。今すぐに」
「え、あ、し、新居でございますか? 母屋ではなく?」
「ああ、ここでも良いし、あの蔵を更地にしても良い。なんなら、新しく土地を購入するか?」
 蒼真の喜びように、目がまわる程だ。
 そして、恭介と若子は微笑ましい表情で私たちを見守っている。恥ずかしくて、蒼真の胸に顔を埋めた。
「柚子葉……?」
「と、とにかく、私は蒼真様と一緒なら、どこでも……大丈夫です」
「そうか」
 頭をポンポンと撫でられていると、蒼真が恭介に視線を送った。恭介も真剣な顔で頷き、桜子を見下した。
「才塚桜子。自分が何をしでかしたのか、分かっているのか?」
「……はい」
 桜子の顔色が非常に悪いのに気が付いた。よくよく見れば、妖魔の残り香が数十匹、蛹の姿で桜子のススで汚れた着物に付いていた。私は、蒼真から少し離れ、一歩桜子に近付いた。
「蒼真様」
「ああ、何もするな」
「ですが、お腹には子が……」
「問題ない。あれは虚偽だ」
「え?」
「俺は隊に入隊しているのに対し、兄は恩田家の当主だ」
「え、ええ。それが、お腹の子と、何か関係が……?」
 きょとんとした顔で蒼真を見上げれば、無知な私に辟易した様子も見せず、丁寧に教えてくれた。
「俺は、妖魔の目撃情報や被害状況等により、各地域に派遣される。酷い時には、数か月から数年近く、その地域にいることもざらにある。それは、先日伝えたな」
「ええ。愛人の家に入り浸っていると勘違いしてしまい、すみません……」
「それは、もう良い。でだ、兄の場合は、恩田家の当主として、この街の一帯を管理している。それを共に行うのが、嫁である桜子の役目だった」
「あ、もしかして!」
「さすが柚子葉。察しが良いな。そう、この女は、嫁としての務めから逃げていたのだ」
 つまり、実践向きの異能を扱えない桜子は、どうにかしてその責務から逃げようと目論み、妊娠したと虚偽の情報を報告したようだ。妊娠すれば、妖魔退治に出向かなくて良いから。そして、産後も、子が三歳になるまでは免除される。
「けれど、嘘を吐けばいずれ……」
「子が流れたとでも言うつもりであったのだろう。まぁ、その嘘が吐けるのも、残り数年が限界だっただろうがな」
 蒼真が言えば、恭介も補足するように応えた。
「結婚を申し込まれた時は、あんなにも実践に向いていると自慢げに話していたのにね。偽りの情報で結婚の申し込みをしてきた桜子の両親にも、責任を取ってもらうことにするけど、良い?」
「え、私、ですか?」
「一応、大好きな父上と母上だったら可哀想かなって」
「大好き……」
 父は血の繋がった実の親であるが、物心ついた頃には私の味方ではなかった。見て見ぬふりをする父を私は好きだと思ったことは一度もない。継母は、以ての外だ。
「被害を受けた分、しっかりと慰謝料なりなんなり、お取りくださいませ」
「ふふ、そうするよ」
「ちなみに、桜子に憑いている残り香ですが、既に蛹になっております故、回復するまでには時間がかかりそうです」
「じゃあ、こっちは、そのまま家に帰すことにするよ。成虫になって、いよいよ死にそうなら命乞いしに来るでしょ。正孝、おいで」
「え?」
 桜子の子である正孝が、木の陰からひょこっと顔を出した。
「ちちうえ!」
 恭介が、走って来る正孝をしゃがんで抱きしめた。
「正孝、君は僕が育てるよ」
「恭介兄さん、良いのですか? 血の繋がりは……」
「なくても、正孝が生まれた時から一緒にいるのは、この僕だ。実の父親は、お咎めに遭うのが怖くて逃げてしまったし、桜子の家になんておいておけないよ。蒼真が教えてくれたんでしょ。桜子の本性と、柚子葉ちゃんの境遇が酷いこと」
「ですが……お人好しすぎます」
「へへへ、読み書き出来ない女の子に、日が暮れるまで教えてた蒼真に言われたくはないかな」
 蒼真と私は見つめ合った。そして、二人でフッと笑った。
「恭介兄さんの言う通りですね」
「ふふ、孤児の若子を救ったのも蒼真様だとお聞きしました」
「な、若子の奴、余計なことを」
「余計なことではありません。若子に教えてもらっていなければ、蒼真様を勘違いしたままでしたから」
「それなら、良いが」
 照れる蒼真は、最近色々な顔を見せてくれる。それが新鮮で、嬉しく思う。
「まぁ、ここは後処理しとくからさ、二人とも母屋の方で休んでいなよ。お腹の子に障るよ」
 恭介の一言で、蒼真はハッと気づいたように私の背に手を回してきた。
「では、後は宜しく頼みます。さぁ、柚子葉。行こうか」
「宜しいのですか?」
「腹の子に何かあった方が問題だ」
「ふふ」
 クスリと笑ってしまい、蒼真に怪訝な顔をされた。
「何がおかしい?」
「いいえ。私、とっても愛されているんだなと思いまして」
「当たり前だ。生涯愛すると、婚儀の時に誓い合っただろう?」
「そういえば、誓い合いましたね」
 あの時は、それが儀式の常套文句だったから言っていたのだと思っていた。しかし、今となれば、あれは本気だったのだと分かる。ならば、私も儀式だからではなく、本心を伝えなければ――。
「私も、蒼真様を愛しております。この先ずっと、生涯かけて愛します」
「当たり前だ」
 私は、照れる蒼真に微笑みかけた。

                                    ~おしまい~