冷遇された無能の妻は、冷徹無慈悲な軍人様に溺愛されていました。

 蒼真と私の掛け違えたボタンが、正しい位置に戻った。
「柚子葉、愛している」
「蒼真様……」
 初めて、蒼真と肌を重ねた。
 食事もろくに取っていなかった私の肉付きは、見られたものではないだろうに、蒼真は、美しいと言ってくれた。綺麗だと。
「初めから、こうしていれば良かったな」
「本当ですよ」
 蒼真が、私に指一本触れなかった理由。それは、忙しかったのも勿論ある。しかし、それだけではなく、私が恭介のことが好きだと、桜子に聞かされていたからだ。肌を重ねる度、私が恭介のことを想いながら抱かれているのだと思うと、触れることすら拒まれたのだとか。
 私自身も、蒼真は桜子を好きなのだと思っていたので、同じ気持ちだ。
 月明りが障子の向こうを照らし、部屋の中がほんの少しだけ明るくなった。
 私の横に、ころんと寝転がっている蒼真の美しい顔を見ながら、聞いてみる。
「蒼真様。私で、本当に良かったのですか?」
「また、その質問か」
「ですが、不安で……これが、夢なのではないかと」
「俺は、柚子葉とこうなりたくて、結婚を申し込んだのだ」
「え、ですが、先ほどは」
 この問いは、三度した。しかし、答えは今と違った。先程までは、『柚子葉が良い』それだけだった。
 けれど、今の言い方では、まるで随分と前から私のことを好きだったような口振りだ。
 私の疑問に、蒼真はどこか遠くを見るようにして口を開いた。
「覚えていないか? 十二の頃」
「十二歳……ですか?」
 十二歳まで記憶を遡る……桜子に、お茶が熱いと怒鳴られながら、それを頭からかけられた記憶が蘇ってきた。
「俺は、兄と共に、どちらが妖魔を多く倒せるか競争していたんだ」
「仲が宜しいのですね」
「昔はな。だが、その頃の俺は未熟だった。自身の異能に驕っている節があってな、油断していた」
「まさか、妖魔に……?」
 蒼真は、頷いた。
「どうにかこうにか祓いはしたんだが、精気を奪われてしまった。精気を奪われた俺は、川辺で倒れていた。そんな時だった」
「まさか、私が……?」
「そうだ。もう、このまま川に流されてしまおうかと思う程にしんどくて、辛かった。そこに、柚子葉が現れた」
「あ……」
「思い出したか?」
「え、ええ」
 思い出しはしたが、確かあの時の私は、水浴びをしに川に赴いたのだ。
 水浴びと言っても、状況は今と同じ。いや、もっと酷いかもしれない。無能の分際で風呂を使うなと継母に言われ、井戸水を汲んでいたら、桜子に突き飛ばされたのだ。泥だらけになった私は、川の方が着物の汚れも取れるのではないかと考え、近くの川に向かった。
 そこで、一人の少年が倒れているのを発見した。まさか、あれが蒼真だとは、思いもよらなかった。
「けれど、あの時の私は……」
 少年もとい蒼真が倒れているにも関わらず、そのすぐ脇に黒い(さなぎ)を発見し、そちらに気が向いていた。
『こんなところで蝶になったら、私みたいに踏み潰されちゃうよ』
 そう言って、私は、地面にいた蛹をやや離れた草の上に移動させたのだ。そのすぐ後に、蒼真はムクッと起き上がった。
『ん? なんでだ?』
 不思議そうに手を握ったり開いたりする姿は、先日の若子のよう。
 なにわともあれ、元気になったのなら良かった。そう思った私は、川に向かって走った。走ったのは、勢いがないと怖気付きそうだったから。
 ——パシャン。
『はぅ。冷たッ』
 この頃は、十月半ば。真冬ほど寒くもないが、川に入る時期でないのは明らか。再び頭まで潜った時、焦った様子の蒼真が川に足を踏み入れた。
『やめろ! 何があったかは知らないが、死ぬな!』
『え?』
 蒼真は、溺れた人を救助するかの如く、私の後ろから手を回し、川辺に引っ張り上げた。
『ハァ……ハァ……ハァ……生きてるか?』
『え、ええ』
『ちょっと待ってろ。青火』
 びしょ濡れの私たちの周りを青白い炎が囲った。
『きゃッ、なに!?』
『着物を乾かすだけだ。このままでは、体温を奪われる。ちなみに、人間は触れても火傷しないようになっているから、安心しろ』
 そう言われた私は、その火に触れてみた。
『本当だ。温かい……』
 その火は、まるで私の冷え切った心を温めているかのようにポカポカした。
 元々死ぬ気ではなかったが、死んでも良いとは思っていた。けれど、蒼真の青い火に触れた私は、もう少し生きていたいと思えた。
 自然と頬も緩み、この時、数年ぶりに心から破顔した。
『ありがとう』
『あ、ああ……』
 蒼真の頬が、ほんのり朱色に変わった。
『えっと、名は?』
『私……?』
『ほ、他に誰がいる』
『へへ、だね。私は、ゆずは。さいづかゆずは』
『漢字は、どう書く?』
『習ってないから……。でも、見たら分かる』
 桜子は名門の女学校に通っていたが、私は無能故に必要ないと、教育を受けさせてもらえなかった。
 着物の裾の方を絞っていると、蒼真が地面に棒で線を描き始めた。
『さいは、これか?』
 私は首を横に振る。
『では、これか?』
『それも、違う』
『では……』
『そう、これ!』
 才塚柚子葉が完成するまで、小一時間かかってしまったが、その時間が楽しくて、心中、蒼真が間違った漢字を出してくれたら良いなと思っていた。そうしたら、着物が乾いてからも一緒にいられるのに、そう思った。
 しかし、名前は完成してしまい、着物もあっという間に乾いてしまった今、さよならするのも時間の問題だ。
 寂しい気持ちになっていると、蒼真が木の棒を渡してきた。
『ほら、自分でも書いてみろ。自分の名前くらい書けないと恥だぞ』
『だけど……』
『教えてやる』
『うん! ありがとう!』
 あの頃の蒼真も、今と同じで無愛想な物言いだったけれど、その言葉の裏には、誰よりも優しく、誰よりも温かいものがあった。
 今思えば、あれが私の初恋だったのかもしれない。
「今思えば、あれが俺の初恋だったのかもしれない」
「え」
 私が思ったことを口に出され、一瞬目を見開いた。しかし、次の瞬間には、笑いが漏れていた。
「は、ハハハ、ふふふ」
「何がおかしい?」
「い、いえ、全く同じことを考えておりましたので」
「それは、つまり……?」
「私も、蒼真様にずっと恋をしていたようです」
「だが、さっきまで忘れていたんだろ?」
 やや不貞腐れたように言うものだから、それが新鮮で、また笑みが溢れる。
「それは、あれが蒼真様だと知らなかったからです。私の名前は何度も言葉に出し、何度も地に書きましたが、蒼真様は、聞いても教えて下さらなかったじゃないですか」
「だって、それは……」
 不貞腐れていた蒼真は、今度は照れたように頭を掻いた。
「俺は、妖魔にやられて倒れていたんだぞ。格好悪くて名乗れんだろう」
「え、そんな理由だったんですか?」
「そんな理由って……まぁ、良い」
 蒼真は息を一つついてから、私の手に蒼真のそれを絡めてきた。
「それから俺は、誰よりも強い異能者になろうと努力した。力の無い柚子葉を嫁にするには、誰よりも強くないといけないから」
「すみません。無能で」
「違う。元より、字も知らぬ柚子葉のことは、一般庶民の娘だと思っていた。着物も粗末なものであったしな」
「……」
「無能だと知ったのは、結婚を申し込む数ヶ月前だ。俺は手放しで喜んだ。『一般人と結婚など許さん!』と、両親に猛反対されていたからな」
「そう……なんですね」
 今の蒼真を見ていると、両親の反対を押し切ってまで迎えに来てくれそうな気がする。
「ま、そうでなくとも、迎えに行っていたがな」
 またもや考えていたことを口に出され、笑みが溢れる。
「なんだ? 嫌だったのか?」
「ち、違います。嬉しくて、つい」
「そうか。しかし、よくよく考えると、あの時、俺は何故すぐに回復したのか……」
「若子もですが、不思議なことがあるものですね」
「もしかすると、柚子葉。お前の異能だったりしてな」
 冗談混じりに笑って、蒼真は眠ってしまった。
「おやすみなさい」
 私も幸せを噛み締めながら瞳を閉じた――――。

◇◇◇◇

 それから、ひと月が経つが、蒼真は離れで一緒に暮らすようになった。
「ただいま帰った」
「え、蒼真様、本日は夕刻まで帰って来られない予定では?」
 昼時に帰って来ることは珍しいため、急いで出迎えれば、蒼真に怪訝な顔を向けられた。
「俺が早く帰ってきたら不都合でもあるのか?」
「い、いえ。そうではなくて」
「はは、冗談だ。それより、隊にある書庫を漁っていて見つけたんだ」
 蒼真は、一冊の古めかしい本を懐から取り出した。
「本……ですか?」
「ああ、柚子葉も見て見ろ」
 靴を脱いで居間まで一直線に歩く蒼真に付いて行けば、早速蒼真は座って本を広げた。私もその中を覗き見る。そして、すぐに私は目を伏せた。
「申し訳御座いません。私には読めません」
 自分の名前だけは書けるようになった私だが、その他の字は未だ読むことも書くこともできない。
 蒼真は、落ち込む私の頭を撫でてから、ひとまず座るよう促してきた。
「読み書きは、俺が教えてやる。今日は聞いていろ」
「はい」
 私は、蒼真の横に座って、読めない本を眺めた。
「この書物には、ある異能について書かれている。その異能は『昇華』と名付けられ、妖魔の残り香を消滅させてきた」
「妖魔の残り香……とは?」
「妖魔に襲われた者は、精気を奪われるだろう? それは、実は妖魔自身に奪われているのではなく、その残り香によるものらしいんだ」
 それを聞いても良く分からない私は首を傾げた。けれど、それを蒼真は呆れることなく教えてくれる。
「例えば、ミツバチの針。あれは、刺したら本体は死ぬが、毒は体に注入されているだろう? それと同じで、妖魔本体がいなくとも、人間の精気を奪うようなのだ。分かったか?」
「なんとなくですが……はい」
 自身無げに頷いた私だが、ハッと気が付いた。
「では、その残り香を消滅させることが出来れば、妖魔に当てられた人々は、すぐに回復すると……そういうことでしょうか」
「さすが、俺の嫁だ。察しが良い」
 褒められて照れた私の顔は、ついついニヤけてしまう。
 自慢じゃないが、褒められるのは生まれて初めてなのだ。許して欲しい。
「ただ、その残り香を消滅させるには、この『昇華』の異能の持ち主しか不可能」
「え、では、蒼真様や恭介様では」
「無理だ。俺たちは、あくまでも妖魔本体を消滅させることのみ。俺……というより、昇華の異能者以外に、残り香は見えぬし、触れられぬらしい。故に、その異能者不在のこの数百年は、療養という形で地道に精を付け、残り香を人間自身の生命力で倒してきた」
「なるほど」
 もしや、義父が回復しないのは、年配ということもあり、自身の生命力では、それに打ち勝てぬのかもしれない。
「では、その昇華という異能者が現れると、この世界はもっと平和に導かれますね」
 他人事のように頷けば、蒼真が次のページを開いた。そこのページに描かれた絵を見た私は、あっと息をのんだ。
「これって……」
「やはりか」
「蒼真様、私……」
「見たこと、あるのだな? ここに描かれている妖魔の残り香を」
 私は、深く頷いた。
「蒼真様と出会った時は、こちらの蛹。そして、若子のところには、こちらの幼虫がいました。けれど、絵なので、それが本当にこれかと言われると……」
「確かめるのは容易い。ゆくぞ」
 立ち上がった蒼真に手を取られた。
「行くって、何処へ?」
「父のところだ」
 私は、蒼真と共に、踏み入れたことのない母屋へ行くこととなった――――。