冷遇された無能の妻は、冷徹無慈悲な軍人様に溺愛されていました。

 四畳半の部屋の真ん中には布団が敷かれ、若子が横たわっている。
「若子……本当に、ごめんなさい」
「へへ、昨晩開けなくて正解でしたね。柚子葉様に危険が及ばなくて良かったです」
 結論から言うと、発見が早かったことで、若子は無事だった。ただ、精気を半分以上吸われてしまった若子は、顔色が悪く、寝たきりとまではいかないまでも、すぐには動けない状態になってしまった。
 妖魔に精気を奪われてしまった人間は、異能を持っている蒼真らですら、どうすることも出来ない。食事をしっかりととり、休養するしか術はない。その期間は人それぞれだが、ひと月もすれば、大抵の人は元の生活に戻れるのだとか。それでも戻らない義父は、相当精気を奪われたのだろう。
 目の下に大きな隈が出来てしまった若子は、無理矢理笑顔を作る。
「それにしても、蒼真様がいらしてくれて良かったですね」
「本当に……」
 あの大量に貼られた札の部屋の中には、人体実験された人々の怨念が、妖魔となってあそこにいると、先程、蒼真から聞かされた。しかし、そこにいる妖魔は、祓っても祓っても、次から次へと無尽蔵に出てくるらしく、結界を張って出て来られなくしているらしい。
 いずれにせよ、この度のことで、私は更に厄介者になってしまった。無能な上に、余計なことしかしない嫁だと、愛想を尽かされてしまったに違いない。
「せっかくですので、柚子葉様。蒼真様のお作りになられた朝食、冷めぬうちにお召し上がりくださいね」
 部屋の隅に置かれた二つのお膳には、それはもう見栄えも素晴らしい見事な朝食が置かれている。私と若子の分だ。蒼真が作って置いて行ってくれたのだ。蒼真自身は、皿に盛ることなく、ささっとつまみ食い程度に腹を満たして、仕事に行ってしまった。
 その蒼真の行動にも戸惑いを隠せないが、温かい食事を食べるのはもちろん、見るのも婚儀の時以来。どうして良いのか分からない。
 ひとまず、お膳の一つを手に取り、若子の布団の近くへと持っていく。布団をそっと捲り、背中を支えながら若子を座らせる。
「まずは、あなたが」
 大根の汁が入ったお椀と箸を手に取り、若子の口元に持っていく。
「柚子葉様、私は……」
「とにかく、食べて。食べないと、回復しないでしょ」
「ですが、私は使用人の身ですので、最後に……」
「あなたは、使用人であると同時に、病人よ。いいえ」
 私は、首を横に振った。
「あなたは、私の大切な人ですから」
「そんな、私なんかを大切だなんて」
 困惑する若子に、私は困った顔で笑って見せた。
「実はね、私。無能なのよ」
「それは、存じております。しかし、柚子葉様は、蒼真様の奥方様であり……」
「ううん。私はね——————」
 それから、私は、若子に包み隠さず今の処遇について話した。敬ってもらう立場にないことを。
 私が欲張ったから、若子を危険な目に遭わせた。私が、一人になりたくなくて……だから、私は、もう欲張らない。
「そういうことだから、あなたは、私の担当から外れなさい。蒼真様がお見えになったら、伝えておきますから」
 若子は、泣きそうな顔で首を横に振った。
「柚子葉様……」
「同情してくれるの? 嬉しい」
 形だけの演技だとしても、そう思った。ほんの半日程度の関係だけど、無能と知りつつも、唯一無碍に扱わなかった彼女を私は生きる糧にしようと思った。そうでもしないと、残りの命を全うすることなど、到底出来そうになかったから。
「さぁ、しっかり食べて。早く元気になってちょうだい」
 鯵の開きに箸を通し、一口大に解してから、若子の口に入れてやる。
 若子は、何も言わず、されるがまま食事を半分程食べた。そんな時だった。
「あら、こんなところに虫が入り込んでいるわね」
「え!? 虫ですか!?」
「ええ」
 若子の枕元に、小さな幼虫がいた。それは、真っ黒い姿ではあるものの、アゲハチョウなどのような私の知る幼虫ではなかった。
「わ、私、虫は大の苦手でして……」
 若子は、後ろを振り向くことなく、縋り付くような目で私を見た。
「ふふ、任せて」
「申し訳ございません。このようなことは、使用人である私がするべきことなのに」
「良いのよ。なんたって私、あの蔵に三年、そして、実家では寒空の下、三日放置されたこともあったんだから。このくらい平気よ」
「柚子葉様、それは、自慢にはなりませんよ」
 涙目で応える若子の後ろの幼虫を素手で掴んだ私は、ギョッとした。幼虫が一匹かと思いきや、若子のお尻の辺りに十匹はいた。
 私は、ひとまず怯える若子には伝えず、ほんの少し障子を開けた。障子の向こうには、元々なのか、はたまた私が逃げられないようにか分からないが、鉄格子が付いている。
 何とも言えない気持ちになりながらも、私は黒い幼虫をポイッと外に放り投げた。
「もう、迷い込まないのよ」
 それから、若子に気づかれぬように、そっと残りの幼虫を障子を開けた隙間から一匹一匹確実に外に出していく。
「柚子葉様。お、終わりましたか?」
「ちょ、ちょっと待って頂戴」
 急いで残っている三匹も放り投げた。
 障子を閉めた瞬間、黒い幼虫が全て音も立てず消えたことには、気付かなかった——。
 前に向き直った私は、再び若子の枕元へと移動する。
「さぁ、残り、食べちゃいましょう……あれ? 若子?」
 再び食事の介助をしようとすれば、若子の顔の血色が先程より良くなっているように見えた。
「若いと、回復が早いのかしらね」
 良いことだ、と頷いていると、若子も呆気に取られた様子で手を握ったり開いたりしている。
「柚子葉様、私、なんともないみたいです」
「それなら良かったわ」
「本当なんです! 柚子葉様! さっきまでの重だるい感じが、まるでないんです!」
「そ、そう」
 前のめり気味に言われ、やや怯む。
 若子は、自分で箸を持って、残った朝食をあっという間に全て平らげた。
「ほら、食欲だってこの通り……あ」
 若子の顔が青くなった。
「やはり、まだ本調子ではないのでは?」
「い、いえ……使用人の分際で、奥方様よりも先に食事を平らげるだなんて、私……死んでお詫び致します!」
 本気で詫びそうな勢いで頭を下げたので、私は小さく笑った。
「ふふ、そんなこと気にしなくて良いのよ。先ほども話したでしょう?」
「いえ、そういう訳には参りません」
 頭を上げない若子に、笑っていた顔も困った顔に変わってしまう。そこで、私は冗談のつもりで口を開いた。
「でしたら、私の分も食べて下さいませんこと?」
「え?」
 若子の顔が上がった。私は、苦笑しながら話す。
「私、こんなに食べたことがないの」
 残飯が無ければ、三食抜きのこともざらにあった。私の胃は、相当小さくなっているようで、人一人分など、到底お腹に入るはずがない。
「食べられて、そこのほうれん草のお浸しくらいなの。けれど、残すと、これらの命は勿論、蒼真様に申し訳が立たなくて」
「柚子葉様……」
「なんて、無理な話よね」
「いえ、今すぐ全ては無理でも、昼時に食べますので、まずは、柚子葉様が食べられるだけ食して下さい」
「良いの?」
「勿論です! なんなら、明日以降もお手伝い致しましょうか?」
「え……それって」
 若子がニコッと屈託のない笑みを浮かべた。
「私は、柚子葉様に仕える身ですから!」
「若子……」
 感極まっていると、若子が立ち上がって、手をつけていないお膳を私の前に持ってきた。
「ですが、私が仕えると決まったからには、将来的には、これを一回で食せるように致しますからね! 少しずつ、慣らしていきましょう」
「若子……ありがとう」
 私も、自然と笑みが溢れた。

◇◇◇◇

 その日の夕刻。
 仕事を終えた蒼真が、離れを訪れた。
「蒼真様。こちらにお見えになるのは、朝だけでは?」
「若子の様子が気になってな」
 若子の容態を気にして、お見舞いに来たようだ。しかし、玄関に入るなり、蒼真は怪訝な顔を見せた。
「炊事場に、誰かいるのか?」
「あ、えっと、若子が、食器を洗ってくれています」
「病人に、仕事をさせているのか?」
 その声は、軽蔑の色が含まれていた。
 なんと応えたら良いのか分からず口ごもっていると、若子が炊事場からヒョコっと顔を出した。
「あ、すみません!」
 蒼真に気付いた若子が、焦って玄関まで足早にやってきた。
「お出迎え、遅れました!」
 それを見た蒼真は、言葉を失った。
「何故だ……?」
「申し訳ございません。蒼真様が来られると知っていれば、夕飯の準備をしていたのですが……」
「そんなものは良い。それより、体調は大丈夫なのか?」
「ええ、すっかりと」
 若子は、いつの話をしているのかと言わんばかりに、あっけらかんとした様子で返事をした。
「本日は、少々埃が酷かったので、廊下を水拭きさせて頂きました。柚子葉様にもお手伝い頂き、思ったよりも早く終わらすことが出来ました」
「そうか」
 驚きを隠せないでいる蒼真に、私は感心したように言った。
「お若いと、回復がお早いのですね。朝食を頂いている途中には、元気になられたのですよ」
「朝食……そんなに早くにか」
「もしかしたら、蒼真様のお作りになったお食事には、不思議な力があるのやもしれませんね」
「俺の作る飯に、そんな力はない。それに……いくら若くても、あれだけの妖魔に精気を奪われたのだ。早くても二週間は万全には戻らない」
「と、言われましても……」
 私と蒼真は、元気溌剌と笑う若子を見た。
「過去に見ぬ回復力だな」
「ですね」
「まぁ、良い。風呂は済ませたのか?」
「お風呂……ですか?」
 私は、この恩田家に来てからというもの、風呂に入った試しがない。蔵にはお風呂が無かった為、週一回程度、使用人に見張られながら、井戸の水を頭から被るのが清潔を保つ私の手段だ。
 けれど、今のような寒い季節の水は、身を裂く程の冷たさなので、二週間に一回程度にしている。
 綺麗にしたところで、誰も私を見ないのだ。少々小汚くたって問題ない。
 私は、以前水を被った日を一として、指を折って数えた。
「次に水浴びをするのは、十日後の予定です」
「は?」
「ですから、十日後に、水を」
「柚子葉、もしや、お前は風呂に入っていないのか?」
「え、ええ」
 そう蒼真が仕向けたくせに、私が悪いと責められているようだ。
 蒼真は、靴を脱いで一段高い廊下に上がった。そして、私の腕を掴んだ。
「来い」
「え……?」
「若子、着替えを準備しておいてくれ」
「かしこまりました」
 お辞儀する若子の前を通り過ぎ、私は蒼真に連れられ、風呂場に向かった。
「湯は俺が沸かす。お前は風呂に入れ」
「よ、宜しいのですか?」
「良いも何も、今までどうしていたんだ。それに……」
 蒼真に掴まれている腕を持ち上げられ、袖を捲られた。
「この腕。細すぎる」
「そんなことを仰られましても……」
「ちゃんと、食べているのか?」
「出された物は……」
 残飯ではあるが。
 ただ、今朝の蒼真が作ってくれた豪華な朝食は残してしまった為、真っ直ぐにその目が見られない。
「柚子葉。風呂から出たら、話がある」
「は、はい」
 蒼真は、脱衣場の扉をピシャリと閉めた。
 そのすぐ後に、若子が「失礼します」と浴衣を持って入ってきた。
「若子、どうしよう。蒼真様が、とても怖い顔で、話があるって。食事を残したことがお耳に入ったのかしら」
 顔を青くさせながら若子に言えば、若子は、首をブンブンと横に振った。
「私は、何も言ってはおりませんよ」
「そ、そうよね。だったら、何かしら。お風呂だって、今まで一度もなかったのよ。井戸水で十分だって、いつも冷たい水で……」
「柚子葉様、もしや……」
 若子は、浴衣を籠に入れた後、浴槽に溜まった水に手を付けた。
「もしや……なに?」
 浴室の外では、蒼真が火を炊いてくれている。話を聞かれないように小声で聞けば、若子も小声で応えた。
「子どもを作る気なのかもしれませんよ」
「へ……?」
「だって、これから子作りするのに、小汚いと嫌じゃないですか」
「それは、そうかもしれないけど……」
「絶対そうですよ! これで、冷遇される日々から、おさらば出来ますね!」
「そ、そうだと良いんだけど」
 ——それから、私は、数十年ぶりに暖かいお湯で体を清めた。

◇◇◇◇

 湯浴み後、不安気に自室で待っていると、襖越しに蒼真の声が聞こえた。
「入るぞ」
「は、はい!」
 緊張のあまり、声が裏返ってしまった。
 若子が気を利かせて敷いた布団の横で待てば、蒼真が静かに入ってきた。蒼真も湯浴みを済ませたようで、軍服から浴衣に着替え、髪の毛も湿っていた。
 蒼真は、私の前で綺麗に正座した。
 布団が敷いてあることもあり、蒼真と膝を突き合わせる程に近くなって、緊張は最上級になる。
「お、お話しというのは……?」
「俺が出張でいなかった間、お前は、何をしていた?」
「出張……」
 愛人の家に入り浸っていたことを出張の一言で片付けるのか。
 とはいえ、無能の嫁が、それを咎められるはずもない。
「何と仰いましても、特段することはございませんので。それに、蔵には、外から鍵をかけられておりましたし」
 皮肉っぽく言ってみれば、冷ややかな瞳で見られ、思わず謝罪する。
「す、すみません」
「何故、謝る? 何か、後ろめたいことでもしたのか?」
「し、しておりません」
 俯けば、蒼真が腕を前で組んで溜め息を吐いた。
「鍵をかけていたのは、柚子葉。無能のお前が、外に出ぬようにだ。分かってくれ」
「分かっております。無能故に、外になど出る価値がないことも、自由にすることも許されぬことは、重々承」
「は?」
 少し顔を上げれば、蒼真が怪訝な顔で私を見ていた。
「何を意味の分からないことを言っている?」
「で、ですから、無能の私は、外に出る価値など……」
「異能の家系は、妖魔に狙われやすい。我が恩田家は、特に……だ」
「それは、存じております」
 けれど、何故、今その話をしているのか。キョトンとしながら蒼真を見れば、またもや溜め息を吐かれた。
「無能のお前は、妖魔が来ても、倒すことはもちろん見ることすら出来ん」
「……すみません」
「責めているのではない。俺がいない時に、妖魔に襲われでもしたらどうするのかと言っているだけだ」
「その時は……桜子や」
 口に出して改めて思った。桜子は、まず私を助けないだろう。
 それに、桜子は『咲花』という、花を咲かせる異能を持っているけれど、妖魔を倒す訓練はしていない。そもそも、花を咲かせる異能で、どうやって妖魔を祓うのか。無能の私と変わらないのではないかと思うことがある。
 話は逸れたが、この恩田家には、蒼真と同じくらい優れた異能者がいる。それは——。
「恭介様もいらっしゃいます!」
 自信満々に言えば、蒼真の顔が曇った。
「また、兄か」
「はい、恭介様、それはもう優秀であると、耳にしております。だから、きっと、恭介様が私を救って」
 蒼真が、そこにあった文机をバンッと叩いた。ビクッと肩が跳ねる。
「そ、蒼真様……私、何か、お気に触ることでも……」
「そんなに兄が好きか。そんなに、兄を愛しているのか」
「え、私は……」
「だからだ。だから、俺は、鍵をかけた。蔵に、結界を張った。柚子葉を守るのは、この俺だ。兄になど、助けさせるものか」
 初めて見る蒼真の怒る顔、声、全てに体が強張るが、不思議と愛情が伝わってきた。
「蒼真様、もしや、私を……守って下さっていたのですか?」
 冷遇していた訳ではなく、蒼真がいない間に、妖魔に襲われぬよう、無能の私を……。
「昔からお前は兄を慕っていたようだからな」
「へ……?」
「母屋にでも置いておけば、いつ浮気するか分かったもんじゃない。特に、柚子葉が嫁いできてからと言うもの、仕事が急に忙しくなって、地方を転々と」
「ま、待って下さい! 私は、恭介様をお慕いなど、しておりません」
「は? だが、桜子が」
「それに、蒼真様は、私に愛想を尽かして愛人の家に入り浸っている……と」
「どこからの情報だ」
「桜子の使用人の……」
 鈍い私でも分かった。これは、桜子の仕業だ。蒼真も同様のことを察したようだ。
「改めて、話を聞こう」
「はい。一から、お話し致します」