恩田家の離れの中は、手入れがされていなかったこともあり、湿気の匂いで充満していた。
廊下の一番奥にある一室の襖には、大量に札が貼ってあり、呪いのそれを連想させた。更には、夕刻に足を踏み入れたことも相まって、障子の穴や壁にあるシミが恐ろしいものに見えた。
ただ、蒼真の異能である『青火』で部屋を灯してもらえば、その恐怖は薄らいだ。
『呪われた離れ』なんて言うくらいだから、全ての部屋において、赤黒いシミが飛び散る悲惨な状態になっているものだと勝手に思い込んでいた。けれど、札が貼られた部屋以外は、至って普通の部屋のようだ。
私の為に用意された六畳一間の、湿気とい草の匂いが入り混じる部屋は、文机が置かれているだけの簡素な部屋。桜子なら、こんな狭い部屋……と、小言を言いそうな部屋ではあるものの、才塚で使用人以下のような扱いを受けてきた私にとっては、勿体無いくらいの広さだ。それに、先程まで住んでいた蔵より天井が低い分、肌寒くないかもしれない。
「布団は、後で持って来させる」
「ありがとうございます」
畳に膝を付いて頭を下げる。
それを蒼真は冷めた目で見下ろしてから、部屋を出た。
襖が閉まる音を聞いた私は、頭を上げ、文机の上に被った埃に、ふぅッと息を吹きかけてみた。
それは盛大に部屋の中に舞い散り、私の気管にも侵入しようとしてきた。
「ケホ、ケホ」
咳込んでいると、「柚子葉様、失礼致します」と襖越しに使用人の声が聞こえてきた。
空気中の埃を手で払いながら応える。
「ど、どうぞ」
「失礼致します。お掃除をさせて頂きますね」
はたきや雑巾等の掃除用具を持った彼女の邪魔にならぬよう、一旦廊下へと出る。
「すみません。掃除なんて……ありがとうございます」
「いえ、滅相もございません。私共の仕事ですから」
使用人に対して礼など述べる主人はいないが、二十歳と満たないであろう彼女は、随分と手が震えている。私が蔵に火をつけなければ、こんな不名誉な場所の掃除など任されていなかったはず。申し訳なさで胸がいっぱいになる。
それに、彼女は、私の担当の使用人ではない。私の担当は、桜子の身の回りの担当をしている沙耶と知世だ。無能な私の為だけに使用人を付けるのは勿体無いと、桜子が率先して申し出たのだ。
『あたしの世話係は必要ありませんわ。姉妹二人分も新たに増やすのも心苦しいですし、あたしの使用人をお異母姉様の元へ』
その謙虚さから、桜子は義両親や恭介の信頼を勝ち取った。
とはいえ、当主の嫁に使用人が一人も付かないのは世間体が悪い。故に、桜子の世話係二人が、私の担当も務めることになった。
そうは言っても、結局のところ、沙耶と知世は桜子の元から動かない。私の元へは、食事と言う名の残飯を運ぶ時くらいだ。掃除なんて自分でしろと言って箒を投げつけてきた。
外から逃げられないように鍵をかけられている私は、することもないので毎日欠かさず掃除をしていたが……。
震えながらも手を動かす彼女に、問うてみる。
「あの、ここにお勤めになってから、どのくらいなのですか?」
「私ですか?」
「ええ」
「私は、二年半ほど前です。十六の頃より、こちらに」
「そう。お名前を聞いても?」
「若子にございます。柚子葉様は、蒼真様が旦那様で、お幸せですね」
「幸せ……?」
これのどこが幸せなのか。三年もの間、蔵に閉じこめ、そこが無くなれば呪いの離れだ。死にたくても死なせてももらえぬこの仕打ち。私が何をしたと言うのか。せめて、せめて子さえ授かれば……。
体の横でギュッと拳を強く握れば、若子が雑巾を絞りながら眉を下げて笑った。
「孤児で行くあてのない私を拾って下さったのは、蒼真様なのです」
「そう……なの?」
握っていた拳の力が緩む。
「はい。蒼真様がお声をかけて下さらなかったら、私は死んでいたことでしょう。蒼真様は、慈悲深いお方です」
「そう……」
ならば、何故、嫁である私は蔵に閉じ込められ、食事もろくに与えてもらえないのか。何故、死なせてもくれないのか。全て問いたかった。慈悲深い方であるならば、私との間に子を……そう問いただしたかった。けれど、私の口からは、違う言葉が発せられた。
「蒼真様は、どんなお方なのですか?」
「どのような……と、申されましても、奥方様である柚子葉様の方が、良くご存知なのでは?」
若子は、何も知らないのだろうか。私が冷遇されていることを。いや、二年半も前からこの恩田家で働いているのなら、知らないはずがない。
「若子は、主に誰に仕えているの?」
「私は、御病気である大旦那様の看病をさせて頂いております」
「え、蒼真様のお父様は、御病気なのですか?」
「え、ええ。ご存知ありませんでしたか?」
若子は、気まずそうにしながらも、文机を雑巾で拭きながら、話してくれた。
「大旦那様は、妖魔に当てられたので御座います。近年では、妖魔も知恵を付けているとかで、名家を次々に襲っているのであります」
「え……」
「この恩田家も、何度か狙われているようですが、ちょうど私が拾われた頃に狙われまして……その際に、大旦那様は妖魔を祓いきれず、取り憑かれてしまわれました」
「それは……今も尚?」
「いえ、妖魔自体は、蒼真様によって祓われたのですが、その後遺症が残ってしまわれたようでして……今は、寝たきり状態に御座います」
「そう……」
どうりで義母の姿しか見ないはずだ。義父と恭介は、元々私には無関心だった故、それで蔵に訪れないのだとばかり思っていた。もしかすると、義母の日々の鬱憤は、義父の容態が芳しくないからなのかもしれない。
「では、あなたも大変ね。御病気のお相手を毎日するのも疲れるでしょう?」
そう言うと、若子はクスッと笑った。
「柚子葉様は、蒼真様と同じことを仰るのですね」
「え?」
「私は、お仕事を頂けるだけで幸せなのですが、蒼真様が良くも悪くもならない大旦那様の世話は大変だろうと、本日より、仕事内容を変更して下さいました」
「そう、なのですね。次は、どなたに?」
「柚子葉様に御座います」
その言葉を聞いた途端、私の顔はいつになく上がった。
ほんの数分話した仲でしかないのに、若子は信じられる気がした。若子になら、胸の内を話しても嘲笑わないような、そんな気がした。
「では、これからは、あなたが食事を運んでくれるのね」
「いえ、お食事は、こちらでお作り致します。僭越ながら、私は、柚子葉様のお隣の部屋を使わせて頂くことになりましたので」
ニコリと笑う若子だが、すぐに襖の向こうを不安げな表情で見つめた。
「しかし、あのお札は、さすがに恐ろしいですね。蒼真様は、気にするなと仰っておりましたが、どうにか出来ないでしょうか……」
「ですね」
苦笑で返すが、これからは若子が共に同じ屋根の下で暮らすと思うと、胸が躍る。お札は二の次だ。それでも、お札のせいで若子が逃げ出しては困る。どうにかせねば。
「私、少々中を見てきますね」
「え!? 柚子葉様!?」
私は、蒼真が置いて行った青い灯の灯台の一つを手に取り、歩き出す。それを見た若子は、焦った様子で雑巾から箒に持ち替え付いてきた。
「若子は、待っていて結構よ」
「そういうわけには参りません。ですが、柚子葉様、怖くはないのですか?」
「そりゃ、恐ろしいですが、ここで過ごすのですから、中の様子くらい見ておくべきだわ」
本心は、そんなもの見たくはない。目を閉じて暮らしたい。けれど、若子を手放したくない。その一心で、私はお札の部屋の前に立った。
「中の様子さえ分かれば、なんてことないかもしれないわ」
そう自分に言い聞かせる。
そうでもしないと、精神が崩壊しそうだ。一枚一枚には、封の文字が書かれ、随分と古いというのが目で分かる程に黄ばんでいる。所々日焼けしたそれに、効果があるのかは疑問だが、剥がすだけで呪われてしまいそうだ。
恐る恐る襖の取手に付いたお札に触れてみる。
「キャッ」
触れた瞬間、断末魔が聞こえた気がして、咄嗟に手を引っ込めた。
「柚子葉様……?」
「今の、聞こえた?」
「何が……でしょうか?」
若子には聞こえなかったようだ。気のせいかもしれない。
もう一度挑戦しようと手を伸ばせば、若子が怯えた様子で提案してきた。
「柚子葉様……せめて、朝に致しません?」
「そ……そうね」
さすがに夜更けにすることではなかったかもしれない。怖気付いた私は、クルリと回れ右した。若子も倣って背を向ける。
「で、では、柚子葉様。私は、母屋の方から布団をお運び致しますね」
「え、ええ……宜しく頼むわね」
その間は独りぼっちだと思うと心細いが、すぐに戻ってくるのが分かっているから、私の心は、いつになく穏やかだ。
離れの勝手口から出ていく若子の背を見て、呟いた。
「ありがとう」
◇◇◇◇
翌朝、トントントンと包丁がまな板に触れる音で目が覚めた。
体を起こした私は、目を瞑ってその音に耳を澄ませた。
(ああ、夢じゃないんだ)
目を覚ました時、全てが夢だったらどうしよう……そんな不安を抱えて眠りに落ちたが、夢でないことを知り、心が弾む。
私は寝間着用の浴衣から、桜子のお下がりでもらったピンクの着物に着替える。腰まである長い髪は櫛でとき、そのまま後ろに垂らす。
自然と上がる口角は、どうすることも出来ず、私は襖を開けて炊事場へと一直線。自室のすぐ近くにあるそこに足を踏み入れるなり、私は声をかけた。
「若子、おはよう!」
「ああ、目が覚めた……か」
そこには、目を丸くした蒼真の姿があった。白い割烹着の下には、軍服がチラリと見えている。手には包丁が握られており、野菜を切っていたのが蒼真であったことが窺える。
ただ、一つだけ言いたい。目を丸くさせるのは、私の方だ。何故、蒼真が驚いた顔をしているのか。
「蒼真……様? 何故、こちらに?」
上がっていた口角を下げ、不安げな表情で聞いてみれば、蒼真の顔も、いつものような冷淡な顔付きに戻った。
「これでも、一応夫婦だ。朝食は共にすることにする」
「そう……ですか。若子は?」
「若子なら、水を汲みに行ってもらっている」
それを聞いて、ホッと胸を撫で下ろす。蒼真の気が変わって、若子が担当を変えられたのではないかと不安だったからだ。
「それより、どうして、蒼真様が食事を作っておられるのですか?」
蒼真は、異能で青火を出し、竈門に火を点け、手際よく切られた大根を鍋の中に入れた。
「俺は、元より自分で作った料理しか口にせん。何が入れられているか分からんからな」
「そうなんですね」
——随分と昔、父から聞かされたことがあった。
『異能者の家に生まれたからには、常に誰かに狙われていると思え』
異能者同士での暗殺は、普通にあることなのだとか。手を取り合って妖魔を倒すことは、もちろんある。蒼真の働く特殊異能者部隊と呼ばれる軍では、異能者同士の連携が必須。それが良い例ではあるものの、その反面、人間ゆえに、自分の家系が誰よりも有能であり、一番になりたいという欲が出る。
その結果、暗殺という形で、異能者……特に力のある異能者を狙うことは珍しくないらしい。
私もそれを聞かされはしたが、無能だと判明した後は、全く警戒しなくて良いと匙を投げられた。むしろ、桜子や継母からは、全ての食材の毒味をしろと、生の芋を食べさせられ、腹を壊したこともある。
父に助けを求めても、見て見ぬふり。政略結婚で出来た私より、恋愛結婚の末に生まれた桜子の方が可愛いらしい。
話は長くなったが、蒼真の家系は、異能家系の中でも一、二を争う名家。誰よりも警戒せねばならないのかもしれない。
「では、恭介様も」
言いかけた途端、蒼真に睨まれた。その冷たい視線に、体が強張る。
「兄が、どうした?」
「い、いえ、恭介様も、自炊をなさっておられるのか、気になっただけです」
「兄のことが、そんなに気になるか……」
言葉の端々に怒りを孕んでいる。
私は、怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。話の流れで聞いたまでで、恭介のことは、特段気にならない。しかし、気にならないというのも失礼な話だ。当たり障りのない返答でこの場をやり過ごそうと、口を開く。
「蒼真様のお兄様ですから」
「それは、俺の兄でなかったら、気にはならない……と、そういうことか?」
「まぁ、そうなりますかね」
「そうか……皮肉な話だな」
「……?」
蒼真の考えが、全く理解出来ない。言っている意味も分からない。三年も夫婦をやっているというのに……。
俯いていると、廊下の向こうから悲鳴が聞こえてきた。
「キャー!」
「若子!?」
すぐに若子の声だと分かった私は、急いで声のする方へと走った。蒼真も同様に。
「若子!!」
若子は、すぐに見つかった。廊下の一番奥、呪いの札が貼られたあの部屋の中で倒れていた。私が若子に駆け寄ろうとすれば、蒼真が怒鳴るように言った。
「近付くな!」
その怒声に肩をビクッと震わせた私は、襖の前で立ち止まる。
「で、ですが……」
「チッ、なんで、わざわざこの部屋に」
割烹着を脱ぎ捨て軍服姿になった蒼真は、私を押し退け、両手を合わせた。
「青火よ、此処に住まう妖魔を業火の如く焼き尽くせ」
青い炎が部屋中に広がった。
「妖……魔?」
私には、妖魔を目視出来ない。蒼真の青い炎だけが、部屋の中で燃え盛っている。それは、木製の壁や天井、障子や襖、更には、若子をも燃やし尽くしてしまいそうな勢いなのに、不思議と何も燃えていない。
数分も経たないうちにそれは消え、中を見渡すと、若子だけが横たわった状態だった。私が来た時と、それは同じ。
「蒼真……様? 今、何が?」
「話は後だ。即刻、結界を張る」
蒼真は部屋に足を踏み入れ、若子を担ぎ上げた。そして、部屋に出るなり、襖をピシッと閉め、真新しい『封』と書かれた札をどこからともなく取り出した。
それを片手に持つ蒼真は、そこに念を込めた。
「急急如律令!」
新たな札が、破られた札の上に貼られた。
蒼真は、息を吐いた。
「これで、大丈夫だ。柚子葉、無事か?」
その一連の流れに呆然と立ち尽くす私は、蒼真が心配する声も耳には入って来ない。
私は、きっと大きな過ちを犯した。
若子がこの部屋に立ち入ったのは、私がこの部屋の中を確認すると言ったから……だから、若子は、使用人として、私よりも先に中を確認したのだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……知らなくて、私、知らなくて……」
本当に呪われた部屋だと知っていたなら、私だって中を確認したいなんて言わなかった。この札に効力があるなんて、思いもしなかった……。
その場に泣き崩れる私を蒼真は静かに見据えた。そして、私の隣の部屋に設けられた若子の部屋に、彼女を連れて行った。
蒼真の後ろ姿が見えなくなっても尚、懺悔していた私だが、若子の無事を確認したくて、涙を袖で拭った。私は立ち上がり、若子の部屋へと急いだ——。
廊下の一番奥にある一室の襖には、大量に札が貼ってあり、呪いのそれを連想させた。更には、夕刻に足を踏み入れたことも相まって、障子の穴や壁にあるシミが恐ろしいものに見えた。
ただ、蒼真の異能である『青火』で部屋を灯してもらえば、その恐怖は薄らいだ。
『呪われた離れ』なんて言うくらいだから、全ての部屋において、赤黒いシミが飛び散る悲惨な状態になっているものだと勝手に思い込んでいた。けれど、札が貼られた部屋以外は、至って普通の部屋のようだ。
私の為に用意された六畳一間の、湿気とい草の匂いが入り混じる部屋は、文机が置かれているだけの簡素な部屋。桜子なら、こんな狭い部屋……と、小言を言いそうな部屋ではあるものの、才塚で使用人以下のような扱いを受けてきた私にとっては、勿体無いくらいの広さだ。それに、先程まで住んでいた蔵より天井が低い分、肌寒くないかもしれない。
「布団は、後で持って来させる」
「ありがとうございます」
畳に膝を付いて頭を下げる。
それを蒼真は冷めた目で見下ろしてから、部屋を出た。
襖が閉まる音を聞いた私は、頭を上げ、文机の上に被った埃に、ふぅッと息を吹きかけてみた。
それは盛大に部屋の中に舞い散り、私の気管にも侵入しようとしてきた。
「ケホ、ケホ」
咳込んでいると、「柚子葉様、失礼致します」と襖越しに使用人の声が聞こえてきた。
空気中の埃を手で払いながら応える。
「ど、どうぞ」
「失礼致します。お掃除をさせて頂きますね」
はたきや雑巾等の掃除用具を持った彼女の邪魔にならぬよう、一旦廊下へと出る。
「すみません。掃除なんて……ありがとうございます」
「いえ、滅相もございません。私共の仕事ですから」
使用人に対して礼など述べる主人はいないが、二十歳と満たないであろう彼女は、随分と手が震えている。私が蔵に火をつけなければ、こんな不名誉な場所の掃除など任されていなかったはず。申し訳なさで胸がいっぱいになる。
それに、彼女は、私の担当の使用人ではない。私の担当は、桜子の身の回りの担当をしている沙耶と知世だ。無能な私の為だけに使用人を付けるのは勿体無いと、桜子が率先して申し出たのだ。
『あたしの世話係は必要ありませんわ。姉妹二人分も新たに増やすのも心苦しいですし、あたしの使用人をお異母姉様の元へ』
その謙虚さから、桜子は義両親や恭介の信頼を勝ち取った。
とはいえ、当主の嫁に使用人が一人も付かないのは世間体が悪い。故に、桜子の世話係二人が、私の担当も務めることになった。
そうは言っても、結局のところ、沙耶と知世は桜子の元から動かない。私の元へは、食事と言う名の残飯を運ぶ時くらいだ。掃除なんて自分でしろと言って箒を投げつけてきた。
外から逃げられないように鍵をかけられている私は、することもないので毎日欠かさず掃除をしていたが……。
震えながらも手を動かす彼女に、問うてみる。
「あの、ここにお勤めになってから、どのくらいなのですか?」
「私ですか?」
「ええ」
「私は、二年半ほど前です。十六の頃より、こちらに」
「そう。お名前を聞いても?」
「若子にございます。柚子葉様は、蒼真様が旦那様で、お幸せですね」
「幸せ……?」
これのどこが幸せなのか。三年もの間、蔵に閉じこめ、そこが無くなれば呪いの離れだ。死にたくても死なせてももらえぬこの仕打ち。私が何をしたと言うのか。せめて、せめて子さえ授かれば……。
体の横でギュッと拳を強く握れば、若子が雑巾を絞りながら眉を下げて笑った。
「孤児で行くあてのない私を拾って下さったのは、蒼真様なのです」
「そう……なの?」
握っていた拳の力が緩む。
「はい。蒼真様がお声をかけて下さらなかったら、私は死んでいたことでしょう。蒼真様は、慈悲深いお方です」
「そう……」
ならば、何故、嫁である私は蔵に閉じ込められ、食事もろくに与えてもらえないのか。何故、死なせてもくれないのか。全て問いたかった。慈悲深い方であるならば、私との間に子を……そう問いただしたかった。けれど、私の口からは、違う言葉が発せられた。
「蒼真様は、どんなお方なのですか?」
「どのような……と、申されましても、奥方様である柚子葉様の方が、良くご存知なのでは?」
若子は、何も知らないのだろうか。私が冷遇されていることを。いや、二年半も前からこの恩田家で働いているのなら、知らないはずがない。
「若子は、主に誰に仕えているの?」
「私は、御病気である大旦那様の看病をさせて頂いております」
「え、蒼真様のお父様は、御病気なのですか?」
「え、ええ。ご存知ありませんでしたか?」
若子は、気まずそうにしながらも、文机を雑巾で拭きながら、話してくれた。
「大旦那様は、妖魔に当てられたので御座います。近年では、妖魔も知恵を付けているとかで、名家を次々に襲っているのであります」
「え……」
「この恩田家も、何度か狙われているようですが、ちょうど私が拾われた頃に狙われまして……その際に、大旦那様は妖魔を祓いきれず、取り憑かれてしまわれました」
「それは……今も尚?」
「いえ、妖魔自体は、蒼真様によって祓われたのですが、その後遺症が残ってしまわれたようでして……今は、寝たきり状態に御座います」
「そう……」
どうりで義母の姿しか見ないはずだ。義父と恭介は、元々私には無関心だった故、それで蔵に訪れないのだとばかり思っていた。もしかすると、義母の日々の鬱憤は、義父の容態が芳しくないからなのかもしれない。
「では、あなたも大変ね。御病気のお相手を毎日するのも疲れるでしょう?」
そう言うと、若子はクスッと笑った。
「柚子葉様は、蒼真様と同じことを仰るのですね」
「え?」
「私は、お仕事を頂けるだけで幸せなのですが、蒼真様が良くも悪くもならない大旦那様の世話は大変だろうと、本日より、仕事内容を変更して下さいました」
「そう、なのですね。次は、どなたに?」
「柚子葉様に御座います」
その言葉を聞いた途端、私の顔はいつになく上がった。
ほんの数分話した仲でしかないのに、若子は信じられる気がした。若子になら、胸の内を話しても嘲笑わないような、そんな気がした。
「では、これからは、あなたが食事を運んでくれるのね」
「いえ、お食事は、こちらでお作り致します。僭越ながら、私は、柚子葉様のお隣の部屋を使わせて頂くことになりましたので」
ニコリと笑う若子だが、すぐに襖の向こうを不安げな表情で見つめた。
「しかし、あのお札は、さすがに恐ろしいですね。蒼真様は、気にするなと仰っておりましたが、どうにか出来ないでしょうか……」
「ですね」
苦笑で返すが、これからは若子が共に同じ屋根の下で暮らすと思うと、胸が躍る。お札は二の次だ。それでも、お札のせいで若子が逃げ出しては困る。どうにかせねば。
「私、少々中を見てきますね」
「え!? 柚子葉様!?」
私は、蒼真が置いて行った青い灯の灯台の一つを手に取り、歩き出す。それを見た若子は、焦った様子で雑巾から箒に持ち替え付いてきた。
「若子は、待っていて結構よ」
「そういうわけには参りません。ですが、柚子葉様、怖くはないのですか?」
「そりゃ、恐ろしいですが、ここで過ごすのですから、中の様子くらい見ておくべきだわ」
本心は、そんなもの見たくはない。目を閉じて暮らしたい。けれど、若子を手放したくない。その一心で、私はお札の部屋の前に立った。
「中の様子さえ分かれば、なんてことないかもしれないわ」
そう自分に言い聞かせる。
そうでもしないと、精神が崩壊しそうだ。一枚一枚には、封の文字が書かれ、随分と古いというのが目で分かる程に黄ばんでいる。所々日焼けしたそれに、効果があるのかは疑問だが、剥がすだけで呪われてしまいそうだ。
恐る恐る襖の取手に付いたお札に触れてみる。
「キャッ」
触れた瞬間、断末魔が聞こえた気がして、咄嗟に手を引っ込めた。
「柚子葉様……?」
「今の、聞こえた?」
「何が……でしょうか?」
若子には聞こえなかったようだ。気のせいかもしれない。
もう一度挑戦しようと手を伸ばせば、若子が怯えた様子で提案してきた。
「柚子葉様……せめて、朝に致しません?」
「そ……そうね」
さすがに夜更けにすることではなかったかもしれない。怖気付いた私は、クルリと回れ右した。若子も倣って背を向ける。
「で、では、柚子葉様。私は、母屋の方から布団をお運び致しますね」
「え、ええ……宜しく頼むわね」
その間は独りぼっちだと思うと心細いが、すぐに戻ってくるのが分かっているから、私の心は、いつになく穏やかだ。
離れの勝手口から出ていく若子の背を見て、呟いた。
「ありがとう」
◇◇◇◇
翌朝、トントントンと包丁がまな板に触れる音で目が覚めた。
体を起こした私は、目を瞑ってその音に耳を澄ませた。
(ああ、夢じゃないんだ)
目を覚ました時、全てが夢だったらどうしよう……そんな不安を抱えて眠りに落ちたが、夢でないことを知り、心が弾む。
私は寝間着用の浴衣から、桜子のお下がりでもらったピンクの着物に着替える。腰まである長い髪は櫛でとき、そのまま後ろに垂らす。
自然と上がる口角は、どうすることも出来ず、私は襖を開けて炊事場へと一直線。自室のすぐ近くにあるそこに足を踏み入れるなり、私は声をかけた。
「若子、おはよう!」
「ああ、目が覚めた……か」
そこには、目を丸くした蒼真の姿があった。白い割烹着の下には、軍服がチラリと見えている。手には包丁が握られており、野菜を切っていたのが蒼真であったことが窺える。
ただ、一つだけ言いたい。目を丸くさせるのは、私の方だ。何故、蒼真が驚いた顔をしているのか。
「蒼真……様? 何故、こちらに?」
上がっていた口角を下げ、不安げな表情で聞いてみれば、蒼真の顔も、いつものような冷淡な顔付きに戻った。
「これでも、一応夫婦だ。朝食は共にすることにする」
「そう……ですか。若子は?」
「若子なら、水を汲みに行ってもらっている」
それを聞いて、ホッと胸を撫で下ろす。蒼真の気が変わって、若子が担当を変えられたのではないかと不安だったからだ。
「それより、どうして、蒼真様が食事を作っておられるのですか?」
蒼真は、異能で青火を出し、竈門に火を点け、手際よく切られた大根を鍋の中に入れた。
「俺は、元より自分で作った料理しか口にせん。何が入れられているか分からんからな」
「そうなんですね」
——随分と昔、父から聞かされたことがあった。
『異能者の家に生まれたからには、常に誰かに狙われていると思え』
異能者同士での暗殺は、普通にあることなのだとか。手を取り合って妖魔を倒すことは、もちろんある。蒼真の働く特殊異能者部隊と呼ばれる軍では、異能者同士の連携が必須。それが良い例ではあるものの、その反面、人間ゆえに、自分の家系が誰よりも有能であり、一番になりたいという欲が出る。
その結果、暗殺という形で、異能者……特に力のある異能者を狙うことは珍しくないらしい。
私もそれを聞かされはしたが、無能だと判明した後は、全く警戒しなくて良いと匙を投げられた。むしろ、桜子や継母からは、全ての食材の毒味をしろと、生の芋を食べさせられ、腹を壊したこともある。
父に助けを求めても、見て見ぬふり。政略結婚で出来た私より、恋愛結婚の末に生まれた桜子の方が可愛いらしい。
話は長くなったが、蒼真の家系は、異能家系の中でも一、二を争う名家。誰よりも警戒せねばならないのかもしれない。
「では、恭介様も」
言いかけた途端、蒼真に睨まれた。その冷たい視線に、体が強張る。
「兄が、どうした?」
「い、いえ、恭介様も、自炊をなさっておられるのか、気になっただけです」
「兄のことが、そんなに気になるか……」
言葉の端々に怒りを孕んでいる。
私は、怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。話の流れで聞いたまでで、恭介のことは、特段気にならない。しかし、気にならないというのも失礼な話だ。当たり障りのない返答でこの場をやり過ごそうと、口を開く。
「蒼真様のお兄様ですから」
「それは、俺の兄でなかったら、気にはならない……と、そういうことか?」
「まぁ、そうなりますかね」
「そうか……皮肉な話だな」
「……?」
蒼真の考えが、全く理解出来ない。言っている意味も分からない。三年も夫婦をやっているというのに……。
俯いていると、廊下の向こうから悲鳴が聞こえてきた。
「キャー!」
「若子!?」
すぐに若子の声だと分かった私は、急いで声のする方へと走った。蒼真も同様に。
「若子!!」
若子は、すぐに見つかった。廊下の一番奥、呪いの札が貼られたあの部屋の中で倒れていた。私が若子に駆け寄ろうとすれば、蒼真が怒鳴るように言った。
「近付くな!」
その怒声に肩をビクッと震わせた私は、襖の前で立ち止まる。
「で、ですが……」
「チッ、なんで、わざわざこの部屋に」
割烹着を脱ぎ捨て軍服姿になった蒼真は、私を押し退け、両手を合わせた。
「青火よ、此処に住まう妖魔を業火の如く焼き尽くせ」
青い炎が部屋中に広がった。
「妖……魔?」
私には、妖魔を目視出来ない。蒼真の青い炎だけが、部屋の中で燃え盛っている。それは、木製の壁や天井、障子や襖、更には、若子をも燃やし尽くしてしまいそうな勢いなのに、不思議と何も燃えていない。
数分も経たないうちにそれは消え、中を見渡すと、若子だけが横たわった状態だった。私が来た時と、それは同じ。
「蒼真……様? 今、何が?」
「話は後だ。即刻、結界を張る」
蒼真は部屋に足を踏み入れ、若子を担ぎ上げた。そして、部屋に出るなり、襖をピシッと閉め、真新しい『封』と書かれた札をどこからともなく取り出した。
それを片手に持つ蒼真は、そこに念を込めた。
「急急如律令!」
新たな札が、破られた札の上に貼られた。
蒼真は、息を吐いた。
「これで、大丈夫だ。柚子葉、無事か?」
その一連の流れに呆然と立ち尽くす私は、蒼真が心配する声も耳には入って来ない。
私は、きっと大きな過ちを犯した。
若子がこの部屋に立ち入ったのは、私がこの部屋の中を確認すると言ったから……だから、若子は、使用人として、私よりも先に中を確認したのだろう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……知らなくて、私、知らなくて……」
本当に呪われた部屋だと知っていたなら、私だって中を確認したいなんて言わなかった。この札に効力があるなんて、思いもしなかった……。
その場に泣き崩れる私を蒼真は静かに見据えた。そして、私の隣の部屋に設けられた若子の部屋に、彼女を連れて行った。
蒼真の後ろ姿が見えなくなっても尚、懺悔していた私だが、若子の無事を確認したくて、涙を袖で拭った。私は立ち上がり、若子の部屋へと急いだ——。



