放蕩華族の冷遇妻



 小夜子は何も言い返さずに立っていた。反論すれば逆上されると思ったからだ。
 それがかえって気に障るのか、女たちの嘲りは次第に強くなる。

「黙っていればいいってものじゃないのよ。何とか言ったらどう?」
「本当に陰気な女。だから総司様にも見向きもされないのよ」

 くすくすと笑い声が重なる。
 先頭の女が近付いてきた。袖口から覗く白い手が、小夜子の顎に触れようと伸びる。

「ねえ、どんな気持ち? 夫に捨て置かれて、この家で一人ぼっち」
「ていうかぁ、何でまだこの家にいるの? あたしだったら恥ずかしくて耐えられない」
「面の皮厚いわよね。自分が特別だとでも思ってる? 言っておくけれど総司様は、誰のことも愛さないわ。総司様がお好きなのは琴里様ただお一人なの」

 その時だった。

「――おい」

 冷たく、よく通る声が廊下に響いた。
 空気が一瞬で変わる。女たちの笑いがぴたりと止まり、小夜子に掴みかかろうと伸びかけていた手も宙で固まった。
 小夜子はゆっくりと顔を上げる。
 廊下の向こうに、総司が立っていた。整った着物を纏った、いつも通りの端正な佇まいだった。

「総司様……」

 女たちの声色が、露骨に変わる。その顔からは先ほどまでの嘲りは消え、媚びるような笑みが浮かんだ。

「あら、総司様! お久しぶりでございますわ……今夜のご予定はいかがでしょうか?」

 夜を誘うような言葉が続くが、総司は最後まで聞こうともしない。

「お前たち、もう来なくていいよ」

 総司の素っ気ない態度に、女たちの表情が引きつる。

「え……っど、どうしてですか!」
「お前らみたいな下品な女が、琴里の名を口にしたからだよ。汚らわしい」

 決して声を荒らげているわけではないものの、有無を言わせぬ圧があった。
 先ほどまでの優雅な空気が消え失せ、女たちは言葉を失う。

「ご……ごめんなさい……」

 誰からともなく頭を下げると、逃げるようにその場を去っていった。華やかな着物の裾が慌ただしく翻り、やがて廊下は再び静かになった。
 残されたのは、小夜子と総司だけだった。
 短い沈黙の後、総司が億劫そうに頭をかく。

「お前はどうして、いつも絡まれているのかな。無駄な騒ぎを起こさないでよ。面倒だから」

 小夜子は顔を上げ、思わずお礼の言葉を口にした。

「……あ、ありがとうございます。二度も助けていただいて」
「別に、お前を助けたわけじゃない」

 総司は溜め息を吐き、義母の部屋の方に目をやる。

「母さんの状態が急変した。家の連中は、お前が母さんを呪っていると噂している。疑われるようなことはしない方がいい」

 小夜子の顔がわずかに強張った。

「そんなこと……断じて違います。むしろ、お義母様の体調が優れない様子だったので、少しでもお力になれればと……僭越ながら、凶祓いをさせていただいておりました」
「ふうん」

 意外にも、総司は小夜子の言葉を疑わなかった。
 拍子抜けするほどあっさりとした反応に、もっと追及されると予想していた小夜子は、わずかに目を瞬かせた。総司はそれ以上何も言わず、興味を失ったかのように視線を外す。
 彼がそのまま立ち去ろうとした、その時だった。衣擦れの音とともに、何かが床に落ちる。
 小夜子ははっとして視線を落とした。板間の上に転がっていたのは、小さな古びたお守りだった。色褪せ、何度も手に取られてきたことが分かる。
 小夜子はすぐにそれを拾い上げると、総司の背を追いかけた。

「あの、落としましたよ」

 呼びかけに、総司が振り返る。
 総司はお守りを見た瞬間、小夜子の手からそれを奪い取った。あまりに素早い動きに、小夜子は息を呑む。

「だ……大事なものなのですね」
「…………」

 総司は答えない。ただ、手の中のお守りを強く握りしめている。その様子から、どれほどの意味を持つ品なのかは、言葉にされずとも伝わってきた。
 小夜子はわずかに微笑み、続ける。

「それ、常に持ち歩いていた方がいいかと思います。そのお守りを総司様に渡した方は、そのお守りに強力な守護の術を仕掛けたように見えます。総司様だけが体調をひどく崩さなかったのは、そのお守りのおかげかと」

 言い終えた瞬間、総司は目を見開き、小夜子をじっと見つめてきた。そして、その手がすっとこちらへと伸びてくる。
 総司が小夜子の顎に触れ、そのまま軽く顔を持ち上げられた。
 息が止まる。顔を上げさせられ、至近距離で視線が交わる。総司の瞳の奥にある感情を読み取ろうとしても、小夜子には分からなかった。ただ、強く見られているという事実だけが、やけに鮮明に伝わってくる。
 時間にすればほんの数瞬のはずなのに、妙に長く感じられた。
 やがて、総司は何も言わずに手を離す。
 彼はそのまま踵を返し、何事もなかったかのように去っていった。
 残された小夜子は、その場に立ち尽くす。
 遅れて、頬に熱が集まってくるのを感じた。小夜子は、熱くなったその場所に手を当てる。

(びっくりした、口付けをされるのかと思ってしまった……)

 そんなはずはないのに、と浮かれそうになった気持ちをすぐに打ち消す。
 自分に興味のない夫が、そんなことをするはずがないと、分かっているのに。
 頭では分かっていても、胸の鼓動だけは、少しだけ早くなっていた。


 ◇

 変わらぬ日々が続いた。
 総司は相変わらず、様々な女を屋敷へと連れ込み、小夜子には手を出さない。
 けれど、一つ変わったのは――頭痛が重くなると、小夜子のいる離れへやってくるようになったことだった。
 離れの縁側で、小夜子が座り、総司がその膝の上に頭を置く。
 春の訪れた屋敷の庭には、美しい桜が咲いている。
 総司はいつも、頭痛がすると小夜子のところへやってきて、少し休んでは帰っていく。

「最近、悪夢を見るんだ」

 総司が言った。

「春が近付くと悪夢を見る。琴里の夢だ。琴里が死んだ火事の日も、こんな風に風が生暖かくて、麗らかな春の日だった」

 小夜子の膝の上にいる総司は、苦しそうに顔を歪めていた。
 小夜子は総司の額にそっと手を置き、穢れを祓う。こうすれば、総司の頭痛はしばらく治るようだった。しかし、それもしばらくのことで、すぐにまたやってくる。

「あの火災に、お前が関与していなかったのは知っている。当時のお前はまだ子供で、決定権はなかったはずだ。でも俺は、鬼龍院家を恨まなければいられない。鬼龍院家から送られてきた、お前のことも」

 頭痛が収まったらしい総司は上体を起こし、悲しげに呟いた。

「総司様、あの火災は、鬼龍院家が起こしたものではありません。むしろ鬼龍院家は、月ヶ瀬家を襲った呪いを祓おうとして……」
「鬼龍院家の連中は、そうやって嘘ばかりつくね。どれだけ問い詰めても認めやしない」

 は、と総司が嘲るように笑った。
 小夜子はしばらく黙っていたが、顔を上げて総司に提案した。

「……一緒に、本当の敵を突き止めませんか」

 総司がこちらを向く。

「月ヶ瀬家は呪われています。その呪いの原因を突き止めれば、復讐になるかもしれません」

 総司はきっと、恨む相手がほしいのだ。行き場のない怒りを、鬼龍院家にぶつけているだけ。そのはけ口を、どうにか変えたい。
 しかし、総司は舌打ちをした。

「お前なんか信じない。鬼龍院の血を引くお前なんか」

 総司は立ち去っていった。
 彼がここへ来るのは、あくまで頭痛を解消するためだ。
 小夜子を都合のいい医者のように使い、他の女の元へと行く。
 小夜子は目を伏せ、さめざめと泣いた。

 烏の忍丸が庭から飛んできて、『おいおい、泣くなよ』と翼で背中を擦ってくれる。それだけが、心の癒やしとなった。

 ◇

 ――――事態が急変したのは、その日の夜だった。
 煙のような匂いがして、小夜子は目を覚ます。
 戸を開け、外を見れば、和館の方から火が上がっていた。

 使用人たちの寝泊まりする棟は屋敷から離れているが、炎の上がっている和館には、義母と総司の部屋がある。
 胸がざわざわと騒ぐ。
 火は、ただでさえ総司の思い出したくない記憶を呼び起こすに違いない。加えて、義母は床に伏せったままだ。あの状態で、自力で外へ出ることなどできるはずがない。誰かが運び出さなければ、間に合わない。
 小夜子は寝間着のまま外へ飛び出し、和館へ向かって走る。
 けれど、その途中、行く手を遮るように、二つの人影が立ちはだかった。
 次男と三男だった。夜目にも分かるほど堂々とした体躯で、まるで最初からそこに待ち構えていたかのように道を塞いでいる。
 小夜子はすぐに進路を変えようとしたが、その瞬間、次男の手が伸び、強く二の腕を掴まれた。足が止まる。

「おっと、どこ行くんだよ。あっちは危ないぞ」
「あちらにはお義母様と総司様のお部屋があります! ここは私がどうにかするので、あなたたちは、今のうちに消防組に通報してください!」

 息を切らしながら言い切る。けれど、返ってきたのは、場違いなほど軽い笑いだった。
 くくっと、次男が肩を震わせる。

「お前に何ができるってんだよ。この火だぞ」

 その声音に、小夜子は引っかかった。
 おかしい。こんな状況であるにもかかわらず、この二人からは焦りが一切感じられない。それどころか、よく見れば、どこか身軽な装いで、今まさに屋敷を離れようとしているようにすら見える。
 背筋がぞっとした。

「あ、あなたたち、総司様やお義母様を置いていく気ですか!?」
「分からない? 僕達にとって、この状況はむしろ都合がいいんだよ。兄さんが死んでくれたら、次期当主選びがまた行われる」

 次男の隣の三男が、まるで当然のことのように言い添える。

「女遊びに惚けているようなあの兄さんが当主になるなんて、最初から僕は気に入らなかった。見せびらかすように美人ばかり連れ込んで、そのくせ誰も選ばず、琴里、琴里と……もう死んだ女に執着している。あんな奴の下につくなんて、耐えられない」

 次男の口元が、ゆっくりと歪む。

「事故で総司が死んだとなれば、それは仕方のないこと(・・・・・・・)だ」

 耳を疑った。
 言葉の意味を理解した瞬間、視界がぐらりと揺れる。目の前にいるはずの二人の顔が、ひどく歪んで見えた。

 この人たちは、本気で言っているのか。
 小夜子はしばらく立ち尽くしていた。ついには、堪忍袋の緒が切れた。

「……しないで」
「あ?」
「――邪魔しないで」

 掴まれているのとは逆の手を懐に入れ、一枚の紙を取り出す。指先に力を込めた瞬間、それは淡く光り――次の瞬間、白く大きな体が、夜の闇を裂いて顕現する。
 人の倍はあろうかという巨大な体躯。しなやかな筋肉に覆われた白い毛並みは月光を受けて淡く輝き、その双眸は血のように赤く光っていた。
 白い虎の式神、白蓮だ。
 低く唸るその姿に、場の空気が一変する。

「ひぃっ!」
「な、何だこれは!」
「やはり鬼龍院の血……! 悪しきものを飼っているな!」

 次男と三男が、あからさまに動揺して後ずさる。掴まれていた腕から力が抜け、ようやく解放された。
 小夜子は一歩で白蓮の傍へ寄り、その背へと身を乗せる。

「ありがとう。今すぐ和館へ向かって」
『……こいつらは放っておいていいわけ? 殺しちゃってもいいのよ?』
「気持ちは分かるけれど、それはだめよ。時間がないの。今は抑えて……行きましょう」

 短く命じると同時に、白蓮が地を蹴った。夜気を裂き、一直線に炎の上がる和館へと駆け出す。小夜子はその背にしがみつきながら、どうか間に合ってほしいと、ただ一つの願いを胸に抱いていた。



 ◆◇◆

 喉が焼けるように痛かった。
 総司は、火の海の中で、ふらつきながら歩いていた。
 息を吸うたびに、熱と煙が肺へと流れ込んでくる。視界は白く霞み、どこが天井でどこが床なのかも分からない。熱気がまとわりつき、全身の感覚が鈍っていく。

(……まずいな)

 頭の中で、冷静な声がそう告げていた。
 身体はもう言うことをきかない。足はもつれ、壁に手をついたまま、その場に崩れ落ちる。
 近くで、木が爆ぜるような音がした。火の粉が舞い、ぱちぱちと耳障りな音を立てる。
 その音に、ふと、別の記憶が重なった。

(あの日も、こんな音がしていた)

 穏やかな春の日だった。風は生暖かく、空はよく晴れていて。そんな中で、炎だけが場違いなほど鮮やかに燃え上がっていた。
 煙の向こうに手を伸ばしても、愛しい女の子を掴み取ることはできなかった。
 琴里。幼い日の記憶の中で、彼女はいつも柔らかく笑っていた。陽の光の中で、長い髪を揺らしながら、こちらを振り返る。

 ――総司おにいちゃん、と、琴里の声が聞こえた気がした。こちらを呼ぶ声が、ひどく懐かしい。
 ああ、と総司は思った。ようやくだと。

(やっと、君の元へ行ける)

 重く閉じかけた瞼の向こうで、琴里の姿がはっきりとした輪郭を持ち始める。炎の中にあっても、彼女だけは不思議と鮮やかで、穢れ一つないままそこに立っていた。
 手を伸ばせば、届きそうだった。

 ――その時、爆音が轟いた。
 空気を裂くような、水の奔流が視界を埋め尽くした。
 次の瞬間、全身に冷たい衝撃が叩きつけられる。息が止まり、強制的に意識が引き戻された。

「――っ、は……!」

 激しく咳き込みながら、総司は顔を上げる。
 炎が弱まっている。いや、消えていく。
 視界の端に、巨大な影があった。

 それは――大きな象だった。
 あり得ないほどの大きさのそれが、長い鼻を高く掲げ、そこから勢いよく水を吐き出している。まるで豪雨のように降り注ぐ水が、燃え盛っていた火を押し流していく。
 そしてその先に、こちらへと駆け寄ってくる影があった。

「大丈夫ですか!?」

 差し出された手。びしょ濡れになりながら、必死にこちらを覗き込む顔。
 総司は、その手を取ることも忘れて、ただ目を見開いた。
 ――重なる。目の前の少女と、記憶の中の少女が。
 濡れた髪。揺れる瞳。その奥にある光。
 あまりにも似ていた。いや、違う。似ているのではなく――

「その式神は……琴里が扱っていたものだ。どうして、お前が」

 声が震える。
 総司は、信じられないものを見るように、小夜子を見つめる。
 小夜子は一瞬だけ視線を伏せ、それから、どこか困ったように微笑んだ。

「……ずっと黙っていてごめんなさい。家の人たちに、琴里は死んだとしなければ都合が悪いって、ずっと言われていて。だから、隠していたけれど」

 その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
 ただ、次の一言で、全てが崩れる。

「私が、琴里です」

 時間が、止まった気がした。

 総司が最初に疑い始めたのは、自分が落としたお守りを、小夜子が拾った時だった。彼女は、総司が誰にもらったとも言っていないお守りを、誰かからもらったものだと断言して語った。あのお守りを総司に与えたのは琴里だ。総司はそのことを、幼き日から今まで、誰にも言っていない。
 その時点で、小夜子は琴里なのではないかと、薄っすらと思っていた。心なしか、容姿や雰囲気も似ている。
 しかし、琴里が生きているはずがない。小夜子が琴里であるなどというのは、都合の良い妄想だ。そう自分に言い聞かせていたのに。まさか、本当に本人だとは。

「私は元々、鬼龍院家の人間でした。でも、厳しい教育に耐えかねて、幼い頃に家出をしたんです。そんな私を拾ってくれたのが、月ヶ瀬家でした。私は親に捨てられた子のふりをして、身分を明かさず過ごしました。あなたもご存じの通り、私は月ヶ瀬家の養子として大切に育てられましたが、あの日の火災に乗じて、鬼龍院家が私のことを奪い返しにきて……」

 小夜子はゆっくりとした口調で事情を語る。

「鬼龍院家は、私の親権について月ヶ瀬家と揉めないように、琴里は死んだことにしたのです。あなたに手紙を送ることも、厳しく禁じられていました。でも、私があまりにもうるさいから、鬼龍院家の人間も渋々、政略結婚という形で私をこの家に売ってくれました」

 そして、にこりと可愛らしく笑った。
 その笑顔は、総司のよく知る琴里の、美しい笑顔だった。

「また会えて嬉しい。総司おにいちゃん」

 小夜子の言葉を聞いて、総司の胸に熱いものが込み上げる。しかし同時に、冷水を浴びせられたような焦りもあった。

(俺は、この子に、何をした?)

 この家に嫁いできた小夜子を邪険にし、酒をかけ、冷たい態度を取り、目の前で他の女と絡み合った。
 血の気の引くような後悔が襲ってくる。
 立ち尽くす総司の手を、小夜子が引っ張った。その力で、ようやく意識が現実に戻って来る。

「行きましょう、総司様! 火元はおそらく、お義母様の部屋です」

 ◆◇◆


 焼け落ちかけた廊下を駆け抜けながら、小夜子は必死に息を整えていた。背後ではまだ炎の名残がぱちぱちと音を立てている。
 総司の体を支えながら、義母の部屋へと急いだ。
 胸の中で、嫌な確信が膨らんでいく。穢れの濃さや、異様な気配、その全てが一つの答えへと収束していた。
 襖の前に辿り着いた瞬間、小夜子は足を止める。
 ……臭う。焦げた匂いとは違う、もっと粘つくような、腐ったものが滲み出るような異臭が、隙間から漂っていた。
 小夜子は襖に手をかけ、思い切って開いた。
 いつものように、重く、淀みきった気配が室内を満たしていた。肌にまとわりつくような不快な圧迫感に、思わず息が詰まる。
 部屋の中央に義母がいた。
 きちんと正座をしたまま、背筋を伸ばし、微動だにせず座っている。その姿だけ見れば、ただの行儀の良い婦人に見えるかもしれない。
 が、その目は虚ろだった。焦点が定まらず、何も映していないようでいて、どこか遠くを見つめている。
 その周囲に、濃密な穢れが渦巻いている。空気が濁り、床も、壁も、全てが黒く染みついているように見えた。
 小夜子の視線が、自然と部屋の奥へと引き寄せられる。
 部屋の押し入れだけが、異様だった。他のどこよりも濃く、重く、禍々しい気が溜まり、まるで口を開けた闇のようにそこに在る。
 間違いない。あそこが、呪いの中心だ。

「やはり……この家を呪っていたのは、お義母様だったのですね」

 小夜子の言葉に反応するように、義母の目がわずかに動いた。
 その目がゆっくりと小夜子の方へと向けられ、そして、愉しげに細められた。

「ええ、そうよ。十年前の火災も、わたくしがこの家に呪いをかけたから起こったこと」

 あまりにもあっさりと、肯定された。
 少しは否定するかと思っていたのに。小夜子の胸に、鈍い衝撃が走る。

「何故、そのようなことを……」

 動揺のあまり、声が震えた。
 義母は、幼い小夜子のことを、まるで本当の家族のように愛してくれた人だ。昔は、とても優しかった。拾い子の小夜子のことを、とても可愛がってくれた。
 なのに今は、別人のようだ。
 義母は、ふっと遠くを見るように視線を逸らした。

「この家に嫁いでくる前、わたくしには好きな人がいた。旦那様とは別の人。ずっと恋仲だったの。でも、旦那様は、月ヶ瀬家の権力を利用して、わたくしを恋人から引き剥がし、無理やりこの家に嫁がせた……。この家での生活はひどいものだったわ……旦那様は、最初はわたくしに強く興味を持って、無理やり三人もの子を産ませたけれど、子が生まれた後は興味をなくした。わたくしの人生を滅茶苦茶にしておいて、沢山の女中を妾にして、かつては与えてくれていた愛情すら与えてくれなくなった。だからわたくしは――死ねばいいと思ったの。この家諸共、火の海に沈めばいいと」

 淡々と語る声に、感情の起伏はほとんどなかった。けれど、その奥に沈んでいるものはあまりにも深く、重く感じられた。
 小夜子は、言葉を失った。
 部屋を満たす穢れが、まるで義母の感情そのもののように渦巻いている。憎しみ、絶望、諦め。積み重なったそれらが、形を持って溢れ出しているかのようだった。
 そしてその中心に、あの押し入れがある。
 小夜子は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 ここで終わらせなければならない。この呪いを。

 押し入れから溢れ出す穢れを見据えながら、小夜子は問いかけた。

「押し入れの中に、何をしまっているのですか」

 その声に、義母はわずかに首を傾ける。

「……中? ああ」

 義母は視線だけで奥を振り返り、くつりと笑った。

「旦那様の死体よ。わたくしが殺したの」

 空気が凍りついたように感じた。小夜子も、隣に立つ総司も、息を呑む。婚姻の儀にすら姿を見せなかった当主――仕事で不在なのだと誰もが思っていた人物が、まさかこの屋敷の中で、既に命を絶たれていたなど。

「母さん、もうやめろ」

 総司が、低く押し殺した声で言う。
 けれど義母は、その言葉を嘲るように目を細める。

「嗚呼、あなた、憎たらしい顔……あの人にそっくり。だから最初から、気に食わなかったのよ。あなたたち息子を、可愛いと思ったことなんてない。成長するたびに、あなたたちはあの人に似ていく。本当に本当に、苦しかった。だから、あの子がわたくしの救いだったのに」

 その声音が、わずかに揺れる。

「可愛いあの子。月ヶ瀬家とは関係のない、小さな女の子――琴里。あの子だけがわたくしの癒やしだった。月ヶ瀬家から心を離せる、唯一の拠り所。なのにいなくなってしまった……わたくしが、この家を呪ったせいで」

 ぽろぽろと、義母の目から涙が零れ落ちる。畳に落ちたその雫が、まるで合図のようだった。部屋に満ちていた穢れがざわりと蠢き、形を持つ。黒い影が歪み、怨霊となって牙を剥いた。
 来る――そう思った瞬間、小夜子の身体が引き寄せられる。

「下がれ!」

 総司の腕が小夜子を庇うように抱き寄せ、そのまま一歩前へ出る。抜き放たれた刀身が鈍く光った。次の瞬間、振り抜かれる。刃が空気ごと裂き、怨霊を斬り払う。妖刀――ただの剣ではない、穢れを断つための刃だ。

「総司様、押し入れを……!」

 小夜子が短く告げると、総司は一瞬だけ頷き、すぐさま奥へ踏み込んだ。刀を構え、躊躇なく襖を斬り裂く。中から溢れ出す濃密な穢れに顔を歪めながらも、さらに斬りかかる。刃が、そこに縛りつけられていた死の穢れを断ち切る。
 その間に、小夜子は義母の元へ駆け寄った。未だ涙を流し続けるその身体から、黒い気が絡みつくように滲み出ている。小夜子はそっと膝をつき、両手を伸ばした。触れた瞬間、熱と重さが伝わってくる。深く息を吸い込み、力を流す。絡みつく穢れを、一つずつ解くように祓っていく。
 義母の身体から、ゆっくりと力が抜けた。
 小夜子は、その体をそっと抱き締めた。細く、壊れてしまいそうな身体だった。

「もう、休んでください。お義父様はいないのです。あなたが殺しました。もう、あなたを苦しめる人はいません。これからは、自由です」

 囁くように告げる。
 すると、義母の目が、ゆっくりと細められる。彼女は小夜子の顔をじっと見つめ、驚いたように目を見開いた。

「あなた、やはり……琴里なのね……」

 ぽろぽろと涙を零しながら、その瞳が静かに閉じられた。

「生きていてよかった…………」

 張り詰めていた気配が、ふっと解ける。部屋を満たしていた穢れが、まるで霧が晴れるように薄れていく。押し入れの奥から立ち上っていた禍々しい気も、次第に消えていった。
 小夜子はゆっくりと顔を上げる。
 重苦しかった空気が、少しずつ軽くなっていくのを感じた。屋敷全体に染みついていた黒が、剥がれ落ちるように消えていく。まるで長い間閉ざされていたものが、ようやく解き放たれていくかのように。
 終わった。
 そう思い、小夜子はようやく、小さく息を吐いた。