放蕩華族の冷遇妻


「……戯言を」

 吐き捨てるように言った次男は、勢いよく距離を詰めてくる。
 小夜子は反射的に後ずさった。けれど、畳の端に足が触れ、それ以上は下がれない。

「だったら、なおさら都合がいい。あの兄さんに拒まれて、それでも好きだなんて言っている頭の悪い女が、俺に無理やり組み敷かれてどんな顔をするか、見てみたくなった」

 にたりと、次男の口元が歪む。
 次の瞬間、強い力で腕を掴まれた。逃れようと身をよじっても、びくともしない。

「やめてください」

 小夜子は努めて落ち着いた声を出したが、心の中では明確に緊張が走っていた。

「この家に嫁いだお前に選択肢なんてねぇよ」

 引き寄せられ、身体が大きく揺れる。畳に押し倒される寸前、小夜子はぎり、と歯を食いしばった。
 式神を呼べば、この状況を覆せる。しかし、白蓮なら暴走しかねない。次男を殺してもおかしくはない。そうなれば、全て終わりだ。
 小夜子の胸に、ほんの一瞬、迷いが生じた。
 その隙を突くように、次男の手がさらに強く肩を押さえつけた――その時だった。
 部屋の戸の開く音がした。

「――何をしているの」

 冷えきった声が戸口から落ちる。
 次男の動きが止まった。
 小夜子もはっとして顔を向ける。
 そこに立っていたのは、総司だった。月明かりを背に佇んでいるその姿は美しかったが、その目は、恐ろしいほどに冷ややかだった。

「……兄さん」

 次男がわずかに顔をしかめる。

「見て分かんだろ。兄さんに構ってもらえないこいつがあんまりにも哀れだから、俺が慰めてやろうと――」

 言い終える前に、総司が一歩、踏み込んだ。次の瞬間には、次男の体が横に吹き飛んでいた。次男の大きな体が壁にぶつかる、鈍い音が響く。
 小夜子の身体を拘束していた力が、強引に引き剥がされた。

「そいつは一応、俺の嫁なのだけれど。許可なく俺の私物に触って、許されると思っているのかな」

 場の温度が一段階下がったように感じられた。
 次男は一瞬、呆気に取られたように目を見開き、それから舌打ちする。

「……はあ? 何だよ急に」

 総司は、小夜子と次男の間に立ち、そのまま一歩も動かない。まるで、小夜子を庇うように。
 次男は苛立たしげに笑った。

「さっきは代われるもんなら代わってほしいって言ってただろ。気が変わったのか?」
「勝手に動いていいとは言っていない。見え見えなんだよ。長男の俺に何一つ勝てないからって、俺の嫁に唾をつけて恥かかせようって魂胆がさ」

 その瞬間、次男の顔が鬼のような形相になった。
 次男は、苛立ちを隠さぬまま、最後に小夜子を一瞥し、舌打ちを一つ残して踵を返した。
 荒々しい足音が遠ざかり、しばらくして完全に消える。
 離れに静寂が戻った。
 小夜子は、その場に座り込んだまま動けなかった。助かったという実感が、遅れて胸に広がる。
 ゆっくりと顔を上げる。目の前には、総司の背中。彼は振り返らない。

「勘違いしないでね」

 釘を刺すような一言に、小夜子の体がわずかに強張る。

「お前を助けたわけじゃない。あいつのやり方が気に食わなかっただけだ」

 小夜子はさっと頭を下げた。

「……ありがとうございます」
「さっき、俺を好きだと言っていたけれど。あれは、本当?」

 総司が間髪入れず、淡々とした声で問うてくる。
 小夜子の顔がぼっと熱を帯びる。

「……き、聞いていたのですか」
「お前らが大きな声で喋っているから、廊下を歩いていたら聞こえてきたんだよ。離れの壁は薄い」

 小夜子は恥ずかしさで胸がいっぱいになりながら目を泳がせ、小さな声で伝える。

「……私は確かに総司様が好きですが、総司様がそうでないことは分かっています。何も求めませんので……想うことだけはお許しください」

 その言葉に、総司は一瞬だけ沈黙し――

「会ったこともなかった俺を、何故?」

 と、怪訝そうな顔でこちらを振り向いた。
 小夜子は答えなかった。総司はつまらなそうに視線を外の月へと向ける。答えられないということは、くだらない嘘なのだと思ったのだろう。

「それに、お前に近付くと頭痛が消える」

 小夜子は思わず顔を上げた。

「……頭痛が続いているのですか?」
「俺に頭痛が表れだしたのは最近だ。弟や母上は随分前から原因不明の体調不良に苦しんでいた。そんな中、俺だけに不調がなかった。不自然なほどに」
「そう……ですか」

 小夜子が、ふっと口元を緩める。
 総司はその様子を見て不可解そうに眉を寄せた。

「近付くと頭痛が収まるのは、私が凶祓いの一族、鬼龍院家の人間だからかもしれません。普段から邪気を祓っているので、そういったものには強いのです」
「……は。穢れているのはお前らのくせに、こちらを穢れ扱いか」
「もちろん、我々は穢れに近付く機会が多い分、穢れを纏う時は一般の人よりも高いです。私も何度も、家の教育で怨霊に害されてきました。しかしそれゆえ、耐性がついたといいますか……無意識に穢れを跳ね除けるような力が身についているのです」
「家の教育?」

 総司が聞いてくるので、小夜子は仕方なく答えた。

「鬼龍院家の人々は、子世代の教育に躍起になっているのです。娘の凶祓いの力の強さは、当主選びにも影響しますから。少なくとも私の親は、どんな手段も選ばない人物でした」

 総司はしばらく黙った後、ぽつりと呟いた。

「……お前も、親に愛されてないんだね」

 そして、興が失せたように何も言わず、小夜子に背を向けて去っていった。
 残されたのは、再び静まり返った夜と、部屋に差し込む月の光だけだった。



 ◇

 月ヶ瀬家での生活は、淡々と過ぎていった。
 総司は相変わらず小夜子を顧みず、顔を合わせても言葉を交わすことはほとんどない。夜は他の女たちを部屋に呼んでいるため、小夜子が相手をされることはないまま、季節が移ろっていく。
 女中たちは、表では小夜子に頭を下げながらも、背を向ければ容赦なく悪口を言い合っている。小夜子の耳に入る言葉は、どれも冷たく、棘を含んでいた。
 次男もまた、あの夜以降、手を出してくることはなかった。けれどその代わりに、顔を合わせるたびに浴びせられるのは、嘲りと嫌味ばかりだった。

 そんなある日、女中が慌てた様子でやって来て、小夜子に告げた。
 義母が呼んでいると。
 小夜子はすぐに席を立ち、義母の私室へと向かった。
 屋敷の和館の奥、普段はあまり人の出入りのない一角。襖の前に立った瞬間、小夜子はわずかに眉をひそめた。
 戸の向こうから滲み出てくる気配が、あまりにも重く、濃かった。
 襖を開けると、途端に空気が変わった。粘りつくような空気が室内を満たしている。
 室内の奥で、布団の上に義母が横たわっている。
 その姿を見た瞬間、小夜子は息を呑んだ。

(ひどい……)

 義母の周囲に、無数の悪霊がまとわりついていた。
 形を持たぬ影のようなもの。歪んだ人の顔のようなもの。黒く濁った塊が、幾重にも重なり、絡みつき、まるで巣を作るように義母の身体にまとわりついている。それらはゆらゆらと蠢いていた。しかし一番酷いのは、義母の周囲ではなく――部屋の奥、押し入れの方だった。
 義母の呼吸は荒く、額にはびっしりと汗が滲んでいる。頬はこけ、唇は乾ききっていた。生気が削られているようだった。
 その時、義母の瞳がゆっくりと動いた。
 焦点の定まらない目が、声にはならない何かを訴えるように、かろうじて小夜子を捉える。
 小夜子は義母に近付いた。呼ばれた理由は、もう分かっている。このままでは長くは持たない。
 小夜子は布団の傍に膝をつき、義母に手を伸ばした。
 義母に触れた瞬間、ぞわりとした感触が指先を這う。まとわりつく悪しき気が、小夜子の存在を拒むようにざわめいた。
 小夜子はゆっくりと目を閉じ、呼吸を整える。
 内に巡る凶祓い師としての気を引き出し、掌へと集める。強く念じた次の瞬間、手のひらから淡い気が広がった。
 黒い塊が剥がれ落ちるように、一つ、また一つと離れていく。抵抗するものや、絡みつき、小夜子を食い込もうとするものもあったが、無理やり削ぎ落としていく。
 しばらくして、部屋に満ちていた濁った気配が、わずかに薄らいだ。
 義母の身体から、いくつもの怨霊が離れ、霧のように消えていく。
 小夜子はゆっくりと息を吐いた。

「……ありがとう」

 掠れた声で、義母がそう呟いた。先ほどまでの虚ろさはなくなり、ほんのわずかに意識が戻っているようにも見える。その変化に安堵しつつも、小夜子の胸には拭いきれない違和感が残っていた。
 小夜子は慎重に言葉を選びながら問いかける。

「どなたか月ヶ瀬家に恨みを持つ者に心当たりはありませんか?」
「……どうして?」
「この家の穢れ方は、異常すぎる。十年前に火災があったにしても……何か、他にも原因があるように思います」

 義母はすぐには答えなかった。ただじっと天井の一点を見つめ、何かを思い出そうとしているのか、それとも思い出すことを拒んでいるのか、長い沈黙が走った。
 やがて、その唇がおかしそうに動いた。

「そう……。この家も、もう終わりなのね。あは、あははははは」

 乾いた笑いだった。感情が抜け落ちたような、不気味な響きだけが室内に残る。小夜子が何か言葉を継ごうとした時には、義母はすでに口を閉ざし、再び遠くを見るような目に戻っていた。
 義母がそれ以上何も言わなくなってしまったので、小夜子は小さく頭を下げ、部屋を後にした。
 廊下を歩き出したところで、誰かの声が近付いてくるのに気付いた。顔を上げると、数人の華やかな女性たちが談笑しながらこちらへと歩いてくる。総司が屋敷に連れ込んでいる女たちだった。
 先頭を歩く女は、艶やかな黒髪をゆるく結い上げ、薄紅色の訪問着をまとっている。白粉を丁寧にのせた肌に、細く引かれた眉と紅を差した唇が映え、いかにも男受けしそうな柔らかな美貌をしていた。
 その隣には、切れ長の目元が印象的な、背の高い女がいる。さらに後ろには、まだ年若い少女がいた。淡い藤色の着物に身を包み、愛らしい顔立ちをしている。
 彼女たちは小夜子の姿を認めた瞬間、足を止めた。
 そして次の瞬間、揃って小さく噴き出した。

「あらあら、誰かと思えば。お飾り妻じゃない」
「嫁いできて一月も経つのに、総司様に触れられてもいないんでしょう? 余程魅力がないのかしら」
「見た目もぱっとしないものね。……しかもこの女、今総司様のお母様の部屋から出てこなかった?」
「まあ……穢れた鬼龍院家の娘だもの。お母様のことを呪っているのではない?」
「そういえば、総司様のお母様、最近体調が悪そうにしていたわ。この女が原因なのね」

 好き勝手な言葉を、無遠慮に投げつけられる。
 見た目ばかり美しい女性たちの顔は、嫌味を言う時にはひどく歪んでいた。