放蕩華族の冷遇妻


「俺は生涯、お前を愛することはないよ。この家の人間になったからと言っていい気にならないでね」

 夫婦の契りとして式で飲み交わされるはずだった酒を、頭の上から浴びせられた。
 滴る酒の冷たさが、白無垢の襟元からじわりと肌へ這い寄る。
 目の前に立つ、名家・月ヶ瀬家の長男である総司は、空になった盃を無造作に放り出すと、懐から取り出した絹の手巾で己の指先を丹念に拭った。まるで不浄なものに触れた後のような仕草だった。

「俺としても不本意なんだ。お前みたいな穢れた一族の娘と婚姻するのはね」

 結婚式が終わり、親族の目を離れて二人になった途端にこれだ。その顔は柔和な笑みを浮かべているわりに、冷たい目をしていた。
 濡れた髪から酒が滴り落ち、膝の上で重ねた手の甲を冷やしていく。

「……重々承知しております」

 小夜子は淡々と返した。
 この結婚がどういうものか、小夜子は最初から知っている。

 月ヶ瀬家と鬼龍院家。
 両家の利害が一致したという、ただそれだけの婚姻だ。

 総司はくすりと笑った。

「へえ。案外、聞き分けがいいんだね。鬼龍院の娘はもっと我が儘で、自分が一番でないと気が済まない女かと思っていたけれど」

 言葉は柔らかいが、侮蔑を隠そうともしないその姿勢。
 小夜子はしおらしいふりをして目を伏せた。何も返さずにいると、総司は「つまらない女」と呟き、無反応な小夜子に興味を失ったように自室へと帰っていってしまった。

 小夜子が嫁入りした月ヶ瀬家は、明治に入って急速に台頭した華族の一家である。
 総司の祖父は、幕末の混乱期に長州藩へ資金を貸し付けて財を築いた豪商。維新後はその資金を元手に、生糸の輸出と鉄道敷設事業に乗り出した。
 とりわけ横浜港から欧州へ送られる生糸は莫大な利益を生み、さらに政府の鉄道政策にいち早く投資したことで、月ヶ瀬家は一代で巨万の富を手に入れた。
 その功績により、総司の父は華族に列せられたのだ。
 金と新しい時代の風に乗って成り上がった家――それが月ヶ瀬家である。

「あれが例の?」
「ご当主様、どうしてあんな女を息子の嫁として選んだのかしら。鬼龍院って、凶祓いの一族でしょう? 穢れが付いているわ」
「ご当主様は総司様のこと、道具としてしか見ていないのよ」
「それにしても、よりにもよって鬼龍院家の娘だなんて。総司様が一番嫌っているお家じゃない」

 歩を進めるたびに、女中たちの好奇の目に晒された。

「総司様、琴里様以外の女性とは結婚したくないって、ずっと縁談を断ってきたのに。こんな形で強制的に結婚させられるなんて……本当にお可哀想」

 隠す気がないとしか思えない声量で話し合う女中たちの前を通り抜け、屋敷の離れへと向かう。
 月ヶ瀬家の屋敷は、帝都の都心から少し離れた高台に建っている。和洋の美意識が歪に混ざり合った、だだっ広い邸宅。洋館の奥へと進めば、長い渡り廊下を経て和館へと繋がる。
 しかし小夜子に与えられた部屋はその和館の一室ですらなく、誰も寄り付かないような、修繕もされていない離れの一室だった。
 小夜子はその一室に入ると濡れた着物を脱ぎ捨て、どさりと寝転がった。


 小夜子の生家である鬼龍院家は、月ヶ瀬家とはまったく別の意味で名が知られている。
 古くから続く旧家でありながら、社交界では〝穢れた一族〟と陰で囁かれているのだ。鬼龍院家が古来より凶祓い師として暗躍している家系であり、怨霊や死体などと近しくなることも多いためだった。
 あの家に関わると不幸が起きるだの、血筋が呪われているだの、そんな噂だけがまことしやかに広がっている。華やかな明治の上流社会において、鬼龍院家は触れてはならない影のような存在だった。

 そんな家の娘を、なぜ月ヶ瀬家が娶ったのか。答えは単純。

 ――利があるからである。

 鬼龍院家は、処刑場跡や、疫病で人が大量死した土地、古戦場、事故が多い川など、普通の人が所有したがらない土地を代々管理してきた。
 鉄道や鉱山の開発を進めている月ヶ瀬家にとって、鬼龍院家の土地がどうしても必要だった。
 手っ取り早く月ヶ瀬家を取り込もうと、野心の強い鬼龍院家の方から持ち出された提案だった。
 月ヶ瀬家の次期当主と、不気味がられ、婚期を逃した鬼龍院家の令嬢。鬼龍院家に断る理由はなく、小夜子は半ば売られるようにして、月ヶ瀬家へ嫁いできた。
 そして総司は、その婚姻を誰よりも嫌悪しているようだった。

(原因は、十年前の怨霊事件……)

 十年前、月ヶ瀬家では大規模な火災が起こった。
 真偽不明の噂だが、鬼龍院家が月ヶ瀬家を呪って怨霊を送りつけたのが原因とされており、その際に月ヶ瀬家の養子であった美しい娘が亡くなっている。
 死んだ娘は琴里という名前で、総司の初恋の相手らしい。総司は幼なじみのようにして育った彼女が亡くなって以降、一人も恋人を作らず、縁談も断ってきたという。
 しかし、月ヶ瀬家の現当主である総司の父は野心の強い性格で、鬼龍院家の土地を欲しがった。総司は当主が鬼龍院家の外戚となるため、利用されたと言える。
 己の大切な人を殺した鬼龍院家から送られてきた小夜子を嫌うのは当然だ。
 そこまで考えて、小夜子は深い溜め息を吐いた。

「とはいえ、初夜なのだから、きちんとしてもらわないと……」

 おそらく総司は、この部屋に来ないだろう。
 この婚姻が愛のないものであることなど最初から承知している。けれど、それでも形式というものはある。初夜を共にしなかったと知られれば、実家の親族がどんな顔をするか分からない。
 せめて外から見て怪しまれないように、部屋には一緒にいたいところだ。
 小夜子は仕方なく重い腰を上げ、総司を呼ぶため、こちらから部屋に向かうことにした。

 嫁入り道具として実家からもらった着物に着替え、部屋を出てそっと襖を閉める。ゆっくりと渡り廊下を進んだ。
 洋館の高い天井にはランプの灯りが等間隔に並んでいる。淡い橙色の光が磨き上げられた板張りの床に落ちていた。
 広すぎる屋敷は、人の気配が薄い。遠くで風が庭の松を鳴らす音だけが微かに聞こえてくる。
 小夜子は曙染の着物の裾を揺らしながら、黙々と歩いた。

 小夜子は総司に部屋の場所すら教えられていないが、どこにあるのかは把握していた。この屋敷の構造は、前もって全て頭に入れている。
 何故なら、小夜子にとってこの結婚は――任務でもあるからだ。

 しばらくして、廊下の奥に、洋風の扉が見えてくる。総司の私室だった。
 小夜子は一瞬だけ足を止めたが、すぐに小さく息を整え、扉に手をかけた。

「総司様、いらっしゃいますか」

 凛とした声で問いかけるが、一向に返事はない。
 様子を見るため、静かに戸を押し開く。その瞬間、甘い香の匂いと、女たちの笑い声が部屋から流れ出てきた。
 小夜子は思わず、目を見開いた。
 部屋の中央には、西洋風の大きな寝台が置かれている。
 白い天蓋布が垂れ下がるその上に、総司が気怠そうに身体を横たえていた。

 そして、その周囲には――見知らぬ女が三人。

 柔らかな衣を乱し、寝台の上でくつろぐように総司に寄り添っている。

「ねえ総司、この人だれぇ?」

 そのうちの一人が、小夜子を見つけて首を傾げた。
 甘えるような声だった。
 総司はちらりと、入口で突っ立っている小夜子の方を見た。ほんの一瞬だけ視線を向け、それだけで興味を失ったように顔を逸らす。

「今日嫁いできた女だよ」

 そう言いながら、彼は右隣に寄り添っていた女の顎を軽く持ち上げ、そのまま口づけた。
 女は嬉しそうに笑う。

「やだぁ、ずるい。私にもしてよぉ」

 別の女が身体を寄せる。総司はゆっくりとした動きで、今度はその女にも軽く唇を触れさせた。
 女たちのくすくすとした笑い声が部屋に満ちる。
 その光景を、小夜子は扉の傍に立ったまま見つめていた。
 しばらく女たちと戯れていた総司は、ようやく小夜子の存在を思い出したかのように、こちらの視線を向けた。その目はやはり、冷たかった。

「――ところで、お前、いつまでそこにいる気?」

 総司が柔らかな笑みを浮かべたまま言う。
 言葉は穏やかだが、声音にはっきりと拒絶の色が浮かんでいる。

「出ていきなよ」

 有無を言わせない声音だった。
 何か言葉を返そうとしたが、呆れ果てて声が出なかった。結局、小夜子はただ一礼すると、音を立てぬように扉を閉めた。
 小夜子はしばらくその場に立ち尽くしていたが、小さな溜め息を吐き、ゆっくりと歩き出した。

(〝放蕩華族〟とは聞いていたけれど、まさか初夜の日に複数人の女性を連れ込んでいるとはね……)

 総司は、影で放蕩華族と呼ばれているほど、女性関係が派手な人物だ。その噂は社交界でもよく耳にしていた。彼は酒席を好み、女遊びに耽り、夜ごと違う女を伴って現れる――そんな噂ばかりが、まことしやかに語られていた。
 幼い頃は、もっと勤勉で、能力に恵まれた子供だったが、彼は愛する少女、琴里が死んでから、奔放になってしまったのだ。

 小夜子は、廊下の途中で足を止めた。
 大きな窓の向こうに、墨を流したような夜が広がっている。月もなく、ただ深い闇だけが広がっていた。
 その時、一つの影が夜空の奥から滑るように現れる。
 黒い翼が音もなく空を切り、まっすぐに窓辺へと近付いてきた。こつ、こつ、と規則的な音が硝子を叩く。
 小夜子はその姿に口元を緩め、ゆっくりと窓を押し開けた。
 冷たい夜気とともに、黒い烏が室内へと舞い込む。

『お嬢、夜なのにこんなところで何してんだァ? 今日、婚姻の儀の日なんじゃねぇの』

 ふてぶてしい声が廊下に響いた。
 小夜子は周囲に人の気配がないことを確かめてから、烏へと視線を落とす。

「想定通り、この家の長男は私のことを相当嫌っているみたい。部屋の前で門前払いされてしまって……」
『ぎゃはははは! お嬢みてぇな美人を門前払い? 月ヶ瀬家の次期当主様、玉付いてねェんじゃねぇの』
「……ちょっと、そういう下品な物言いはやめて」

 声を潜めて注意すれば、烏――忍丸は肩をすくめるように『へいへい』と言って羽を揺らした。
 軽薄な調子で笑うその姿に、小夜子は小さく息を吐く。

 忍丸は、小夜子に仕える式神である。
 鬼龍院家は古くより、動物の姿を借りた式神を使役してきた一族だ。
 小夜子も様々な式神を飼っている。その中でも忍丸は、小夜子が幼い頃から傍にいる存在だった。誰よりも長く小夜子を見てきた相手であるため、これだけ気安く無遠慮なのである。
 忍丸は、暗い顔をしている小夜子を見て、突然気遣うように声音を落として囁いてきた。

『……落ち込むなよ。次期当主様の趣味が悪いだけだって』
「でも……」
『大丈夫だ。鬼龍院家の連中には言わねェよ。うまいこと言って誤魔化しとくって』

 小夜子は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
 鬼龍院の家は厳格だ。嫁いだ以上、役目を果たせなければ、それ相応の責めが待っている。たとえそれが、どれほど理不尽なものであろうとも。

『それより、やっとあの家を出れたんだ。自由を楽しめよ。な?』

 少し前までいた鬼龍院家での記憶が蘇る。
 血と穢れに触れる修練の日々。厳しく、逃げ場のない教育。凶祓いに失敗すれば、座敷牢に閉じ込められ、暴力を受けた。
 月ヶ瀬家でどれほど冷遇されようと、あの家に比べればましだ。
 そう思いかけた、その時だった。

『――お嬢』

 忍丸の声が低くなる。

『後ろだ。怨霊だ』

 小夜子は弾かれたように振り返る。
 廊下の奥、灯りの届かぬ陰の中に、それはいた。
 黒く滲むような影。人の形をしているはずなのに、輪郭は崩れ、幾重にも歪んでいる。焼け焦げたような臭気と、湿った冷気がじわりと広がる。
 虚ろな眼が、こちらを見ていた。
 小夜子は驚きつつも息を整え、指先をすっと動かす。
 懐から取り出した白い紙片がひらりと宙を舞った。小夜子はそれに触れながら、低く呪文を紡いだ。音にならない言葉が空気を震わせる。
 紙が淡く光り、怨霊へと吸い寄せられるように飛ぶ。
 ばちり、と弾けるような音がした次の瞬間、黒い影が激しく歪み、呻きにも似た気配を撒き散らした。
 逃さないよう、小夜子は一歩踏み出して手印を結ぶ。光が鋭く収束していく。やがて、影は音もなく霧散した。
 後に、冷えた空気だけが残った。

「……本当に、この屋敷は怨霊だらけ……」

 小夜子はぽつりと呟く。
 最初にこの屋敷に足を踏み入れた時から、ぞっとするほど悪しき空気が漂っていた。濃密な禍々しさが、屋敷全体に染みついている。まるで黒い絵の具を幾重にも塗り重ねたような、重苦しい気配がそこら中を埋め尽くしている。
 古い家に怨霊がいるのは珍しくない。でも、多くても三体程度。一つの屋敷にこれほど集まるのは不自然だ。何か原因があるだろう。

 月ヶ瀬家は、異様なほどに――呪われている。
 月ヶ瀬家の内部に侵入し、怨霊の原因を突き止め、魔を祓うこと。
 それが、小夜子が実家である鬼龍院家に課せられた使命だった。

 この婚姻は、小夜子を財産として他家に売る政略結婚の側面もあるが、それに加えて、小夜子の凶祓い師としての実力を試し、一人前として送り出すものでもある。
 そもそも、十年前の事件も、別に鬼龍院家が月ヶ瀬家に手を出したわけではない。
 月ヶ瀬家は十年前から呪われていた。鬼龍院の一族は月ヶ瀬家を救おうとして、怨霊を呼び寄せたと汚名を着せられ、返り討ちに遭ったのだ。当時、怨霊を祓う途中で大規模な火災が起きたが、その原因は鬼龍院家ではない。
 鬼龍院家は月ヶ瀬家の呪いを祓いきれず、月ヶ瀬家と縁を切って十年が経った。その間に、この屋敷の穢れは増幅し、月ヶ瀬家は目も当てられないほどに汚染されている。このままでは穢れが帝都全土に広がる。そうなれば、凶祓いの家系として帝都を守るべき鬼龍院家にも責任が問われるかもしれない。
 ただでさえ不名誉な噂を立てられている。鬼龍院家はこれ以上、家名を汚したくないのだ。

『ひでェな。一体何したらこんなに穢れるんだ?』
「分からない。放置しすぎたのかも……」
『気をつけろよ。いくらお嬢でも、危険かもしれねェ。……つーか、鬼龍院の連中、それを分かっててお嬢をここに送り込んだんだろうな』

 小夜子は床を見た。
 鬼龍院家の人々は、小夜子が嫁ぎ先で死んでも構わないと思っているのだろう。小夜子には、優秀な姉や兄が複数人いる。小夜子一人を使い捨ての駒にしようが構わないのだ。もし小夜子が成功せずとも、他の兄姉を利用して鬼龍院家の問題を解決すればいい。

「……私は大丈夫。忍丸、帰ってもいいよ」
『どうせ一人なら一緒に寝ようぜ。お嬢、寂しいだろ』

 軽口を叩きながら、忍丸は羽を揺らして小夜子の後を追う。その姿に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
 小夜子は苦笑する。

「もう子供じゃないのに」

 子供の頃から一緒にいる式神の忍丸にとっては、小夜子はまだまだ子供なのだろう。

 結局、小夜子は追い払うこともせず、そのまま離れへと戻った。
 広い屋敷の片隅にある静かな部屋で、夜の気配に包まれながら、忍丸と同じ空間で眠りについた。
 穏やかとは言えない一日の終わりにしては、不思議と心地よい眠りだった。


 ◇


 翌朝、小夜子は月ヶ瀬家の人々と、初めて同じ食卓につくことになった。
 案内されたのは、屋敷の奥にある広い和室だった。
 天井が高い。室内は端正に整えられており、磨き上げられた畳が一面に敷き詰められていた。障子越しに差し込む朝の光が柔らかく室内を照らし、淡い明るさを生んでいた。
 正面には床の間が設えられ、季節の花を生けた花器と、山水を描いた掛け軸が静かに佇んでいる。過度な装飾はないが、それぞれが選び抜かれた品であることが伝わってくる。
 室内の中央には、低い膳が人数分、整然と並べられていた。
 既に総司の母と兄弟たちが席についている。父は仕事のためかいない。それぞれが背筋を伸ばし、無言のまま座している。家族にしては、空気が張り詰めているように思えた。
 小夜子は静かに頭を下げ、案内された席へと進む。音を立てぬよう膝を折り、膳の前に座した。
 やがて女中が現れ、部屋に朝餉を運び始める。
 白い湯気を立てる味噌汁や、艶やかに炊き上げられた白米。香ばしく焼かれた魚に、小鉢に盛られた煮物や香の物。華美ではないが、丁寧に整えられた食事だった。
 「いただきます」と、誰かの声が落ち、それを合図に食事が始まった。
 誰も話さない。食事中、会話はほとんどないようだった。
 小夜子は背筋を正したまま、ゆっくりと箸を取った。
 この家で迎える朝は、ひどく静かで、冷えた水の中にいるようだった。
 小夜子は箸を進めながら、密かに隣を窺った。隣の総司は昨夜複数人の女性とまぐわっていたのと同じ人物とは思えぬほど、何事もなかったかのような顔をしている。
 あの寝台の上で見せていた退廃も、女たちに向けていた気だるい色気も、全て幻だったかのように消え失せていた。
 小夜子は視線を逸らし、さらにその先へと目を向ける。
 総司の母――義母が、正面の上座に座していた。
 年の頃は四十を少し過ぎたあたりだろうか。黒髪はきちんと結い上げられ、乱れ一つない。上質な着物を纏い、その佇まいだけ見れば、由緒ある華族の夫人として申し分のない品格を備えている。
 けれど、どこか様子がおかしかった。頬は不自然なほどにこけ、指先は細すぎるほど細く、白いというよりは血の気を失ったような色をしている。
 まるで内側から何かが削り取られているかのような、異様な痩せ方だ。
 切れ長で、美しいはずの双眸をしているが、焦点が定まっていない。
 ただ、どこか遠い場所を見つめたまま、こちらの世界に意識が留まっていないような――そんな不気味さがあった。

「これが鬼龍院が寄越してきた娘か」

 不意に声がかかり、小夜子は顔を上げる。
 正面に座る男――月ヶ瀬家の次男が、露骨に値踏みするような目でこちらを見ていた。
 その隣に座る三男もまた、似たような視線を向けている。
 二人とも総司と似て顔立ちは整っている。が、その端正さを台無しにするように、口元にはだらしない笑みが貼り付いている。にたにたと、いやらしい笑い方だ。

「地味だが乳は大きいな。兄さん、昨夜はどうだった」

 遠慮の欠片もない視線が胸元を舐めるように這い、小夜子の背筋にぞわりとした悪寒が走る。

「穢れた女を抱くわけないだろ」

 総司が、感情を削ぎ落とした声で言い捨てた。
 あまりにも冷たい一言に、次男は「はあ?」と眉をひそめる。

「兄さん、嫁に手を出さない気かよ」
「父さんが知ったら激怒するぞ。この穢れた女には、早く跡取りを産んでもらわないといけない」

 次男、三男から畳みかけるような言葉が投げかけられた。
 けれど総司は箸を止めることもなく、淡々と続けた。

「この家がどうなろうと知ったことじゃない」

 その一言で、場の空気が凍りついた。
 次男と三男が一瞬、言葉を失ったように総司を凝視する。
 小夜子は、思わず義母へと視線を向ける。さすがに総司の発言を咎めるのではないかと思ったのだ。
 しかし、義母は相変わらず、どこを見ているのか分からぬ眼差しで空を見つめているだけだった。こちらの会話を聞いているのかさえ分からない。
 視線を戻すと、次男と目が合った。

「……へえ。なら、俺がこの娘とまぐわって子をなしてやろうか」

 軽薄な声に、小夜子は思わず眉を寄せた。
 何を言っているのか、この男は。

「代われるものなら代わってほしいよ。俺は生涯、琴里以外の女と子をなす気はないからね」

 総司は、小夜子の方を見もせずにあっさりと言い放った。
 小夜子はぎょっとした。
 総司は、こちらに視線すら寄越さない。弟の発言を止める気も、小夜子を守る気もないのだ。であれば、この場で自分を守れるのは、自分しかいない。
 小夜子は、手にしていた箸をそっと置き、背筋を正す。その後、丁寧に頭を下げた。

「申し訳ございません。私は、夫以外の男性と、そういった関係を持つことは望んでいません」

 できるだけ穏やかな口調で、はっきりと断った。
 正面で次男の口元が、「……へえ?」と、おかしげに歪む。
 次の瞬間、視界に何かが飛び込んできた。反応するよりも早く、それは小夜子の身体へ叩きつけられる。汁物の椀が弾け、熱い味噌汁が容赦なく着物へと降りかかった。

「熱ッ……」

 思わず声が漏れる。遅れて、甲高い破砕音。床に落ちた器が粉々に砕け、破片が畳の上に散らばった。熱と湿りがじわりと広がり、布の奥まで染み込んでいく。
 顔を上げれば、次男が立ち上がっていた。その顔に、先ほどまでの軽薄な笑みはなかった。歪んだ怒気を剥き出しにしている。まるで別人のようだった。

「お前、誰に向かって口きいてる」

 低い、押し殺したような声が空気を震わせる。

「……も……申し訳ございません」

 小夜子は咄嗟に謝罪した。
 しかしその言葉は届かず、次男は躊躇いなく小夜子に歩み寄ると、そのまま腕を振り上げた。乾いた音が座敷に響き、頬に衝撃が走る。視界が揺れ、身体が支えを失って、小夜子はそのまま畳の上へと崩れ落ちた。遅れてじんと痛みが広がる。

「俺は鬼龍院家の人間だぞ。鬼龍院に嫁いできた時点で、お前は鬼龍院家の所有物だ。その自覚がないのか? 総司はもちろん、俺への口答えも許さない。女の分際で、今後俺に逆らったら、命はないと思え」

 小夜子は何も言えなかった。言葉が喉に詰まり、音にならない。

「興が冷めた。飯はもういい」

 次男が吐き捨てるように言い、踵を返す。その背中が襖の向こうへ消えると、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
 「あーあ」と、三男が肩を竦める。呆れているようでいて、どこか楽しんでいる声音だった。
 女中たちが慌ただしく駆け寄ってくる。彼女たちは、割れた器を拾い、濡れた畳を拭き、何事もなかったかのように場を整えていく。小夜子はその様子を、ただ呆然と見つめていた。

「どうしてこんなことになったの?」
「あの女が、生意気な口をきいたのよ」
「ええ? この家の人間に口答えするなんて、一体何を考えているの」
「やっぱり、琴里様とは違う、頭の悪い女ね。男を立てることも知らないなんて」

 囁きは遠慮なく耳に入り込んでくる。
 小夜子は、濡れた袖をそっと握りしめた。
 その時だった。ぐるる、と低く唸るような気配が空気の奥で震える。見えない何かがこちらへ近付こうとしている。式神がこちらの指示もなく、この場に顕現しようとしていた。
 小夜子ははっと息を呑み、小さく囁く。

「だめよ」

 その一言で気配は強く揺れ、やがてすっと引いた。式神が主の危機に反応し、顕現しかけていたのだ。
 けれど、ここで現れさせるわけにはいかない。もしも小夜子の式神がこの場で次男に牙を剥けば、それこそ小夜子はこの家を追われる。任務も、何もかも終わる。
 小夜子はゆっくりと息を吐き、湧き上がりそうになる悲しみの感情を押し殺した。

 食事を終えると、総司は最後まで小夜子に視線を向けることなく、何事もなかったかのように席を立ち、そのまま部屋を後にした。残された三男も、ほどなくして箸を置き、気怠げに伸びを一つしてから去っていく。
 広い座敷に義母と小夜子だけが残った。広すぎる空間に、二人きり。
 小夜子は膝の上で手を重ねたまま、ゆっくりと息を吐く。ふと視線を巡らせると、部屋の一角に設えられた棚に、いくつもの写真立てが並んでいるのが目に入った。
 その中の一枚に、自然と目が留まった。
 幼い総司が写っている。今よりもずっと柔らかい表情で、まだあどけなさの残る顔立ち。その隣には、一人の少女が寄り添っていた。長い髪を整え、凛とした佇まいを見せる、美しい娘。琴里だ。この屋敷の人々は、死んだ彼女を好いていたようで、事あるごとに名を出している。
 小夜子はほんのわずかに目を細め、そこから視線を外した。
 そして、上座へと目を向ける。
 義母は先ほどと変わらぬ姿勢で座っていた。背筋を伸ばし、端正に整った姿。だがその眼差しはやはり、どこを見ているのか分からないまま宙を漂っている。
 小夜子はそっと立ち上がり、音を立てぬように歩み寄った。
 近づくにつれて、確信は深まる。
 ――やはり、様子がおかしい。
 まとわりつくような重い気配。淀み、澱み、絡みつくもの。目に見えぬそれが、確かに義母の周囲に滞っている。
 義母は、呪われている。
 小夜子は緊張しながらも、控えめに声をかけた。

「……お義母様」

 その呼びかけに、義母の目がぎょろりと動いた。ようやく焦点が合い、その目が小夜子の姿を捉える。

「最近、お体の調子はいかがですか」
「……調子?」
「肩が重い、頭痛がする、不自然に痩せるなどの症状はございませんか」

 義母はしばし黙り込んだ。どこか遠くを探るような沈黙の後、小さく呟く。

「全て、あるわ」
「……でしたらどうか、私が触れることをお許しください」

 そう断ってから、そっと手を伸ばす。義母の額に小夜子の細い指先が触れた瞬間、熱が伝わってきた。異様なほどの熱だ。まるで内側で何かが燃え続けているかのような。
 小夜子は目を閉じ、意識を集中させる。息を整え、体内の気を巡らせ、手のひらに力を込めた。
 淀んだものが、触れた場所からじわりと浮かび上がる。絡みつくような悪しき気配を、一つひとつ、剥がすように祓っていく。
 やがて、ぴたりとその流れが止まった。
 義母の身体から、重苦しい気配が一瞬だけ薄れる。
 その直後、義母ははっと息を呑んだ。まるで長い悪夢から覚めたかのように目を見開き、小夜子を見つめる。

「……身体が軽くなった。あなた、何をしたの?」
「凶祓いでございます。しかし、一時的な処置でしかありません。この屋敷全体に、悪しきものが渦巻いております。なのでおそらく、お義母様もまた……」
「……そう」

 義母は淡々と相槌を打った。驚きや恐れはほとんど見られない。その声音には、どこか諦めたような響きがあった。
 小夜子は少し間を置いてから、続ける。

「この家がこのような状態になっている原因に、何か心当たりはございますか?」
「……十年前の火災かしら。あの時は、多くの人が死んだから」

 義母は視線をわずかに上げ、遠くを見つめる。その瞳には、過去の光景が映っているのかもしれない。

「お義父様にもお話をお伺いしたいのですが、やはりお忙しいのでしょうか」
「そうね。あの人は、ほとんど帰ってこないから……」

 予想通りの答えだった。
 この家の当主は、息子の婚儀にすら姿を見せなかった男だ。小夜子はまだ一度も直接姿を見たことがない。噂通り、家よりも外を優先する人物なのだろう。
 小夜子がそう考えていると、不意に義母が口を開いた。

「あなた、お名前はなんと言うの」

 義母は、まっすぐに小夜子を見下ろしている。
 その問いに、小夜子は一瞬だけ言葉を失った。婚姻の儀に出ていたというのに、息子の妻の名すら記憶にないのか。けれど先ほどまでの様子を思えば、意識が曖昧であったとしても無理はないのかもしれない。
 小夜子は改めて姿勢を正し、自己紹介をした。

「小夜子です」
「……小夜子」

 義母はその名をゆっくりと繰り返す。舌の上で確かめるように。そして、ふと表情を曇らせた。

「……そう。わたくしの勘違いだったわ」

 その言葉は、ひどく寂しげだった。


 ◇


 夜、空には丸い月が浮かんでいた。

『小夜子ちゃん、あの次男、ぶっ飛ばしましょうよ!』

 声の主は、白い虎の式神、白蓮(びゃくれん)だ。月明かりを受けて、その毛並みが雪のように輝いている。しなやかな肢体をぴんと張り、怒りを隠そうともせず尾を揺らしていた。
 静まり返った離れの一室に、その憤りの声だけがやけに大きく響く。
 小夜子は小さく溜め息をつき、穏やかな声でたしなめた。

「白蓮、今日、勝手に出てこようとしたでしょう」
『だって小夜子ちゃんに物を投げたんだもの! あたし、許せないわ!』
『まァまァ白蓮、落ち着けって。復讐ってのは間接的にやるもんだ。直接的にぶっ殺すんじゃなくて、まずはじわじわと居場所を奪って――』
「忍丸も何を言っているの。私は復讐なんて望んでない。この家の人間とは、できるだけ仲良くやっていかなきゃいけないんだから」
『しかしお嬢……仲良くなんて、もう無理じゃねェ?』

 白蓮の背に器用に腰掛けた忍丸が、珍しく真剣な声音で言う。

『お嬢は月ヶ瀬家の穢れを祓うためにこの家に来たのに、この屋敷の連中ときたら、お嬢を穢れ扱いだぜ。こんな家、もうどうなってもいいんじゃねェ? ぶっ潰して帰ろうぜ』
「……帰るって、どこに」
『それは……』
「鬼龍院家には帰りたくない。何の成果もなく帰れば、殺されるかもしれない」

 白蓮も忍丸も口をつぐんだ。
 鬼龍院家の苛烈さは、式神である彼らもよく知っている。何も言い返せないのだろう。
 その時、白蓮がぴくりと耳を動かし、顔を上げた。

『しっ。誰か来るわ。忍丸、戻りましょう』

 言うが早いか、白蓮の身体がふっと淡く揺らぎ、紙片へと姿を変える。床へと落ちたそれは、何事もなかったかのように静まり返った。
 忍丸もまた、音もなく戸の隙間から夜空へと飛び去っていく。
 小夜子は普段、式神を紙で持ち歩いているが、忍丸だけは放し飼いだ。
 しばらくして、誰かの足音が離れに近付いてきた。
 小夜子は一瞬、期待した。ようやく総司が初夜を迎えてくれる気になったのかと。
 しかし戸を開けて入ってきたのは――総司ではなく、乱暴な次男だった。
 小夜子は目を疑った。美しい着物を着た次男は、にたにたと気味の悪い笑顔を浮かべている。

「よお。朝は世話になったな」
「……こんばんは」

 小夜子の口元が、わずかに引きつった。

「どうしてここへ? 何か御用でしょうか」
「夜這いだよ、夜這い。結婚二日目ですら夫に相手してもらえねぇ可哀想な女の相手をしにきたんだ」

 あまりにも露骨な物言いに、小夜子は息を呑む。

「必要ありません。私は、夫以外の方とは――」
「まだそんなこと言ってやがるのか。どうせ、兄さんのことなんて嫌いなんだろ? お前、鬼龍院家に売られてここへ来たんだろ。鬼龍院家も鬼畜だよなぁ。自分たちの家を恨んでいる家に娘を送るなんて。不本意な婚姻で、何を義理を立てる必要がある」

 次男は、哀れむような口調で笑う。その目には、歪んだ欲と優越しか浮かんでいなかった。

「総司にもやる気はねぇようだし、月ヶ瀬家の跡継ぎは俺が産ませる。お前も、跡継ぎさえ産めば白い目で見られなくて済む。なあ、いい提案だろ」

 小夜子はわずかに目を伏せ、ゆっくりと言葉を選んだ。

「……あなたは、間違えています」
「……あ?」

 次男の眉がぴくりと動く。

「総司様にとっては、不本意な婚姻かもしれませんが。私にとっては、不本意な婚姻ではありません」
「……何だと?」
「私はこう見えて、我が強いのです。私は確かに鬼龍院家の操り人形ではありますが、ずっと好きな人がいました。その一点に関してだけは、鬼龍院家の言いなりにはなりたくなかった。たとえ望まぬ婚姻であるならば、身を投げてでも反抗していました」

 そこまで言って、小夜子は顔を上げる。

「私は、総司様のことが好きです。だから嫁いできたのです」

 次男の口元が、ひくりと引きつる。