扉の鍵を開けてくれたのは



 貴也が戻ってくるのをずっと待っていた。
 スマホを手に取って、今どこにいる? と書き込みそうになってやめる。
 何も手につかない。

 どうしよう、全然気づかなかった。
 こんなにも貴也のことが好きになっていたなんて。

 翠はベッドに腰かけたままうな垂れていた。
 好きにならないって決めたのに。いつから夢中になっていたんだろう。

「お母さん……」

 ここまで落ち込んだのは、母が亡くなって以来、久しぶりだった。
 母が亡くなった頃、叔父に責められて、どうして母の病気に気づかなかったのか、疲れている姿を見ながら、無理しないでと言えなかった事とか、急に、母の事を思いだした。

 翠は立ち上がると本棚に置いてあるテディベアのヌイグルミを手に取った。
 幼い頃、翠の誕生日に母がプレゼントしてくれたものだ。枕元に置かれていて手紙が添えてあった。

『翠へ お誕生日おめでとう。この子は私が一目惚れして、ぜひ、翠にもらってほしかったの。可愛い子でしょ。大事にしてね』

 母のメッセージを読んで、つぶらな瞳のテディベアを翠も一目で気に入った。その後、母にお礼を言ったかどうか、覚えていない。

「お母さん……」

 生きている間に大好きって言えばよかった。翠はテディベアを抱きしめた。

「僕は……貴也が大好きだ……」

 どうしてこの気持ちを否定しようと思ったんだろう。
 テディベアを抱きしめたまま、翠は泣いていた。
 貴也に会いたい。
 翠は涙をぐいっと拭くと、貴也が帰ってくるのを待とうと思った。時刻を見ると二十三時を回っていた。
 玄関の鍵はかかっているはずだ。父と玲子はとっくに寝てしまっていた。
 貴也はたぶん合鍵を使って帰ってくると思う。翠が起きている必要はないのかもしれない。だって彼はもう自分の合鍵を持っている。

 翠はカバンの中にいつも入れてある合鍵を取り出した。キーホルダーを取り出して眺める。これは、貴也が自分のために初めてプレゼントしてくれたものだ。これを見ていると、もらった時のドキドキした気持ちが込み上げてきて、それだけで幸せになる。

 翠はキーホルダーを持って横になったが、ちっとも眠れず落ち着かないので、体を起こして本を読もうと思った。すると、スマホが鳴り出したので、ハッとしてスマホを見た。

『翠、玄関開けて』

 貴也からのメッセージだった。嬉しくて飛び起きると部屋をそうっと抜け出した。
 足音を立てないように玄関に行って鍵を開ける。翠がドアを開けてそっと外を伺うと、貴也は外で待っていたようだった。

「ただいま」
「お帰り」

 自然とそう言っていた。

「遅くなってごめん」

 貴也は囁くように言って、家の中に入った。二人でそうっと部屋へ戻る。貴也は自分の部屋には戻らず、翠の部屋の方へ来た。一緒に入ると、貴也が言った。

「ごめん、遅くに。少し話があるんだけど、いいか?」
「うん。僕も貴也と話がしたかった」

 そう言うと貴也が目を丸くした。部屋に入ると二人でベッドに腰かけた。翠は、ドキンドキンしながら、貴也の方から話しだすのを待った。心なしか貴也も緊張しているように見えた。
 話って何だろう……不安に思っていると、貴也が口を開いた。

「まず、アミの事だけど、付き合う気はないって断った」
「そ、そうなんだ」

 アミには申し訳ないがホッとした気持ちになる。

「それで……」

 貴也が珍しく言いにくそうにしているのが分かった。

「この間、遊園地に行った話になるんだけど……」
「……えっ?」

 思いがけない話になって翠は面食らった。

「遊園地で何かしたっけ、僕」
「違う。そうじゃなくて、遊園地で翠が俺に向かって、僕は貴也の家族だよって言ったの覚えてるか?」

 もちろん覚えている。
 貴也のことを家族だと思い込もうとして言った。
 それが貴也には気になったのだろうか。

「あの言葉を聞いて、俺、なんか胸のあたりがモヤモヤして、なんか違うって思ったんだ」
「え?」

 意を決して言った言葉だったのに。貴也は、家族だと思ってくれていないのだろうか。
 翠が少し悲しそうな顔をすると、あっと貴也が焦った顔になった。

「ちが、違うんだっ。誤解しないでくれ。そうじゃなくて、家族なのが嫌とかじゃなくて、もっと違うのが欲しかったなって、俺、思って。ああ、ごめんっ。はっきり言わないといけないよな」

 貴也は自分の頭を抱えたり必死になったりしてから、翠に向かって言った。

「俺、こんな気持ちになったの初めてで、告白もしたことなかったんだけど、翠が気になって仕方ないんだ」
「……え?」

 貴也は耳まで赤くなり、顔を隠した後、余裕のない表情でいながらも、もう一度翠を見た。

「すげえ、恥ずかしいんだけど。初めて会った時から、たぶん好きになってたんだと思う。かっこ悪いんだけど、手のひらに文字を書かせたり、バカみたいにやたらとくっついたりして、迷惑ばっかりかけちゃったけど、好きになったことなかったから。翠のそばにいたいって思ってばかりで……」
 
 翠は、必死で言う貴也のシャツに手を伸ばして、ぎゅっとつかんだ。

「翠、何か言ってよ……」

 貴也が言った。翠は首を横に振って何も言えなかった。

「やっぱ、気持ち悪いよな?」
「……ない」
「え?」
「気持ち悪くない。僕の方がずっと……、ずっと貴也が好きだから……」
「マジ?」
「……うん」

 顔を上げられずうつむいたまま、こくんと頷いた。

「はあ……」

 頭上で貴也が大きく息を吐きだした。

「よかったあ、マジ、焦ったあ」

 嬉しすぎてどうにかなりそうだった。翠は、貴也のシャツをつかんだまま、顔を上げられずじっとしていた。

「き、今日はもう寝よっか」
「……うん」

 翠はパジャマを着ていたが、貴也はまだ洋服のままだった。

「い、一緒に寝る?」

 貴也が緊張を含んだ声で言った。翠は無言で頷いた。

「着替えてくる。待ってて」

 貴也がいそいそと部屋を出て行って、翠は下を見たままだった。
 信じられなかった。
 何が起きた? 貴也が自分のことを気になっていたと言った? 最初に会った時から?
 貴也の言葉ひとつ一つが何度も頭の中で繰り返される。

 嬉しくてたまらない。
 翠は、ベッドに寝転がると身悶えするように体を丸めた。

 もう一度、貴也の言葉を思い出す。
 そばにいたいって思ってくれていたのは、好きだから? 

「うー、信じられない。嬉しい……」

 翠は呟くと頭を抱えた。その時、コンコンと部屋をノックする音がして、ドキッとする。ドアが開いて貴也が恐る恐る顔をのぞかせた。

「入っていい?」

 小声でささやく。

「……ど、どうぞ」

 と答えると貴也がゆっくりと入ってきた。エアコンが効いているはずなのに、翠は体が燃えるように熱いと感じた。
 そんなに大きくないベッドに二人で横になる。
 お互い天井を見たまま、肩がくっついて、それだけで自分は息をしているのがやっとのような気がした。

「お、おやすみ」

 貴也が言って、翠もおやすみと答えた。

「翠、手、握っていい?」

 貴也が小さい声で言った。

「ど、どうぞ」

 翠が答えた。貴也の手が自分の手を包み込む。
 夢じゃない。そう思うと泣きそうになった。唇を噛んで翠は、貴也の手を握り返した。そのままぎゅっと目を閉じる。涙がすーっと頬を伝っていった。
 眠れるだろうか、と思ったが、気がつけば二人ともいつの間にか眠ってしまっていた。