扉の鍵を開けてくれたのは


 もう足が動かない。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
 空には星が瞬いていて、街頭を頼りに、どこを歩いているか分からない。
 水を一滴も飲んでいないのに泣いていた。
 その時、前から車のライトが迫ってきた。まぶしさに手で顔を覆うと、車が止まって人が下りてこちらへやって来る。叔父かと思って逃げようとすると、前を塞がれた。

「君は、森岡翠くんかな?」
「え?」

 まぶしいと思っていた車はパトカーだった。
 警察官に背中を支えられ後部座席に座るように言われる。運転手側では無線機で、捜索願が出されていた少年を保護したという声が聞こえた。

「大丈夫かい?」

 警察官の言葉に翠は頷いた。疲れすぎて声も出なかった。
 パトカーに乗ったとたん、意識を失うように眠ってしまった。
 目を覚ますと家の前で止まっていた。外で声がする。翠はシートベルトを外して飛び出した。

「翠っ」
「貴也っ」

 貴也が両腕を広げて翠を抱きとめた。翠はそのままずるずるとしゃがみ込んで、貴也の腕の中で大泣きをしてしまった。

「かなり疲れているようです」

 警察官と父が話をしているようだったが、翠は貴也に支えてもらいながら家の中に入った。

「風呂入る?」

 貴也が聞いてきたが、翠は首を横に振った。

「お水が欲しい……」

 小さい声で訴えると貴也がすぐに水を汲んできてくれた。水を飲み干す。

「ありがとう。貴也……。ごめんね」
「謝るのは俺だよ」

 貴也の声が震えていた。泣いているのかと思って、つられて自分も涙が出た。

「よかった。無事で。本当によかった」

 貴也の声を聞いて、家に帰ることができてよかったと思った。



 警察に保護された時刻が日をまたいでいたのを知ったのは、その日の昼頃だった。
 目が覚めた時、翠は貴也の腕の中にいた。体がすっかり冷えていたから、貴也の体温が温かくてホッとした記憶がある。
 何もない部屋に閉じ込められたことを思いだすと体が震えてくる。まだ寝ている貴也にぎゅっと抱きついた。

「……翠?」

 貴也が目を覚まして翠の顔を覗き込んだ。

「どうした? 何かあった?」
「ううん。何でもない。ありがとう。一緒に寝てくれて。僕、まるで幼稚園児みたいだよね」
「そんなの気にすんなよ。とにかく無事に帰って来てくれてよかった」

 貴也は、翠を強く抱きしめると大きく息を吐いた。
 話したいことは山ほどあったのに、お互い何も言えなかった。きっと、貴也も心配してくれたと思う。
 土曜日、何があったかを説明しなきゃと思った。

 昨日の出来事を思い出すと胸が苦しくなる。
 体を起こすと、体の節々が痛かった。特に足が棒になったんじゃないかというくらい痛くて、膝ががくがくしてまともに歩けなかった。

 何とかお風呂をすませると、昨日の出来事をみんなに話した。誰もが驚きのあまり、声を出せないようだった。

「被害届を出してもいいんだよ」

 父が静かに言った。玲子も深刻な顔をしている。
 これまでも未遂で終わったことやつきまとわれた事もあった。叔父のしたことは完全に犯罪だ。被害届を出すべきなのは分かっていた。
 翠は悩んだ。そして、父に頼んだ。

「お父さん、叔父さんに伝えて。被害届を提出するか、もう二度と僕に近づかないって約束するか、本人に選んでもらって」
「翠……。それでいいのか?」
「うん。叔父さんのことはとても怖かったけど、油断していた僕も悪いと思う」

 ずっと誰かが見守ってくれていた。
 一人で歩くのが怖いなんて、この先もずっとそんな考えでいたら、学校にも行けなくなってしまう。そんなのは嫌だった。

「僕、強くなりたいんだ」

 そう言うと、翠の手を温かい手が包みこんだ。ハッとすると貴也が翠の手を握りしめていた。

「時間はかかるかもしれない。けど、堂々と歩きたい」
「分かった。翠がそう言うのなら。みんなで力を合わせて翠を応援しよう」
「ええ」

 父の言葉に、玲子が目に溜まった涙を拭いて笑った。そして貴也に向かって言った。

「貴也、翠くんのこと、任せたからね」
「え?」

 どういう事だろうと驚くと、貴也がこちらをじっと見つめていた。

「俺、翠が通っている高校に転入しようと思ってるんだ」
「えっ」
「ここからだと翠の学校の方が近いし、何より、翠と一緒にいたいって思った。この件が起こったからじゃない。もっと前からおじさんには相談していたんだ」
「そうなんだよ。嬉しいよね」
「ねえ」

 父と玲子は頷きあっている。

「貴也が転校してくるの?」
「いいだろ。翠が一人で頑張る気持ちはよく分かる。俺も応援する。でも、何かあった時、学校が別だと何もできないし、別に学校が一緒になったからって、四六時中、ずっとべったりくっついているわけじゃないから」
「でも……」
「翠、哲司くんの件は、翠は何も悪くない。自分を責める必要は全くない。被害届は出さないが、翠はまだ十六歳だ。守られていい年齢だから。貴也くんの気持ちも素直に受けとっていいんだよ」
「うん……」

 翠はまた泣きそうになって我慢した。
 貴也に向かって頭を下げた。

「貴也、よろしくお願いします」
「おう」

 貴也が照れくさそうに笑う。
 翠は嬉しくてうつむいた。ポタポタと涙が出る。

「泣くなよ、翠」
「うん……」

 こんなにみんなが優しいとなかなか一人立ちできない気がする。
 翠は顔を上げた。

「頑張る」

 泣きながら笑う翠の頭を貴也が笑って撫でた。