扉の鍵を開けてくれたのは

 不安でいっぱいになり、叔父の方を見た。

「叔父さん?」
「社長が翠に会いたいそうだ」
「え……?」

 母はほとんど仕事の話はしなかったが、マネージャーをしていた父は、社長には頭が上がらないとよくぼやいていた。
 手をつかまれたまま、叔父がドアを開けると、受付けに女性が座っていた。

「こんにちは。いらっしゃいませ」
「社長さんお願いします。アポは取ってますんで」
「承っております」

 受付けの女性はどこかへ行ってしまい、代わりに別の女性が現れた。

「いらっしゃい。待っていたわよ」

 低い声の女性だった。年配の女性だったが彫の深い顔で髪は短く切り、黒いパンツスーツを着ていた。背がとても高くてモデルだろうかと思った。

「こっちに来て」

 背後に立たれ背中を押される。中に入るなりソファに座るよう指示された。叔父は親しいのか、軽く挨拶をしただけで翠の隣に座った。
 正面に社長が座って長い足を組んで、見定めるように翠を見つめてきた。

「会えてうれしいわ。陽菜(はるな)の息子がどうなったのか、ずっと気になっていたのよ」
「十五歳だ」
「綺麗な肌をしてるわね。今、コンテストがあるからそれに出てみるのはどうかしら」
「翠、タレントになりたくないか? お前なら俳優でもモデルでも何でもできるぞ」

 翠は何か言おうとしたが(かす)れて声が出なかった。

「お小遣いはもらっている? 一臣(かずおみ)の給料よりもっと稼げるようになるわよ。そうすればお父さん喜んでくれるんじゃない?」

 叔父と社長は互いの顔を見あってから頷いた。
 父の一臣を呼び捨てにし、社長は机の上に置いてあったシガレットケースを引き寄せると口にくわえて火を点けた。部屋中に煙草の煙が充満する。それから一枚の紙を手に取った。翠の前に差し出す。

「これは特別よ。あなたは陽菜の息子だし、今ならまだ売り出せる。うちのタレントになれる契約書。サインしてくれるだけでいいわよ」
「親権者の欄は俺がサインしておいた。後はお前が、うんと言えばいいだけだ」

 なんで? どうして? という疑問だけが翠の中で渦巻いていた。
 自分は今、呼吸しているのかすら分からなくなる。

 その時、奪われたバッグからスマホの着信音が鳴り響いた。社長がイライラした口調で叔父を睨んだ。

「うるさいわね、音消しなさいよ」

 叔父が、翠のバッグからスマホを取り出して電源を落とした。
 貴也だ。きっと心配して探してくれているはずだ。
 翠は唇を噛みしめると、手をぎゅっと握りしめた。

「嫌です……」
「翠……?」

 叔父が困惑して顔を近づける。翠は首を何度も横に振った。

「嫌だっ。嫌だっ。絶対にサインなんかしない。勝手なことをしたら警察へ駆け込むっ」

 叫ぶと、二人がギョッとした顔で翠を見た。叔父が立ち上がって翠に向かって手を振り上げようとしたのを見て、社長が叫んだ。

「やめてっ」
「でも……」
「いいわ。わがままを言えるのは元気が残っている証拠でしょ。少し休んでもらいましょ」
「休むって……。どうするんですか?」
「この部屋、誰も使わないから、サインするまでの間よ」

 社長はすくっと立ち上がると灰皿に煙草を押し付けて部屋を出て行った。叔父も後を追う。翠はソファに座ったまま身動きもせず、閉まったドアから鍵がかかる音を聞いていた。

 閉じ込められた。
 時計を見ると十五時を過ぎていた。
 貴也と約束したのは十三時だ。二時間も過ぎている。バッグを取られているので携帯も財布も何もない。

 翠は立ち上がってドアノブに手をかけた。がちゃがちゃとノブを回す。鍵がかかっているので開かないのは明白だった。
 窓はないだろうかと見渡したが、窓のない部屋で閉塞感を感じた。息が詰まるようだった。
 再びソファに座って膝を抱えた。膝の間に頭を入れて目を閉じる。

 ドキンドキンと自分の鼓動だけが聞こえた。
 どうやって逃げ出そう。
 トイレに行きたいって頼もうか。
 ドアを壊すくらい叩いて助けを呼んだらいいだろうか。
 翠は立ち上がると思い切ってドアを叩いた。ドンドンと思い切り叩く。それから大声で叫んだ。

「……助けてっ」

 最初は小さい声で、ドアを叩く音の方がずっと大きかった。次第にお腹から叫んだ。

「誰かっ、ここを開けてっ。助けてっ。助けてーっ」

 誰でもいい。叫びながらドンドンと扉を叩いた。手が痛くなってきた。声も叫んでいるせいで喉が痛い。けれど、ここから出なきゃいけない。ここにいちゃいけない。
 翠は叫び続けた。すると、女性と社長の言い争う声が外で聞こえた。

「エレベーターまで声が響いています」
「なんなのよもうっ」

 社長が苛立った口調で言い、がちゃんとドアの鍵が開く音がした。翠は体当たりをして外へ飛び出した。無我夢中で事務所を飛び出して非常階段を見つけてそちらへ向かって走った。

「待ちなさいっ」

 ヒステリックな声がしたが、カンカンと音を立てて必死で階段を駆け下りた。涙が頬を伝って唇に入った。
 本当なら今頃、貴也と一緒に水族館で魚を眺めていたかもしれないのに。
 一階まで駆け下りてビルの外へ飛び出す。そのまま走り続けた。

 ここが一体どこなのか分からない。けれど、叔父たちにつかまるわけにはいかない。
 誰かに追いかけられているわけじゃないのに、翠は走り続けた。
 すれ違う人が何事かと自分を見て驚いている。お金がないので電車に乗ることもできない。
 走れるだけ走り続けて、ここまで来たらもう大丈夫だろうと思ってようやく歩き始めた。
 全身が汗だくになっている。
 はあ、はあと息を吐きながら、できるだけ自分を落ち着かせて、絶対に足を止めずに歩き続けた。
 翠の家まで、電車の特急なら数分で着くが、歩いて帰れる距離じゃなかった。
 交番に駆け込もうかと思った。でも、そうしたらどうやってここに来たのか、何があったのか説明しなくてはいけない。歩くしかなかった。