背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 ただの黒板になった壁に僕の目は釘づけだ。想像以上の事が起きている。
 モナリザが、お菓子を食べる。さらに、僕たちに関わろうとしている。モナリザが現実世界に興味を持っている! 
 これは深入りしていい事なのだろうか。ヤバい事ではないだろうか。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「モナリザ、チーズ味が好きなのか……」
 呟くような櫻井の声にハッと我に返る。
「櫻井! なぁ、櫻井! 俺たちどうなるんだ⁉ このままで良いのか? 俺らまでこの世界から消えちゃうなんて、無いよな⁉」
「そんなの、俺にも分からないよ。けどさ、小田をそのままに出来ないしな。なんか、小田は囚われているような感じだし」
「モナリザの願いが、とんでもないモノだったら断れるのかな?」
「それも含めて、ちょっと覚悟が必要だ」
 櫻井の顔を見てピンときた。
「櫻井、もしかして、カロリーメイトに話題を逸らして、モナリザの願いをすぐに聞くのをやめた?」
「まぁな。聞いたら、断るか願いを叶える協力をするかになるだろ。俺はまず藤沢の気持ちを確認してから、一緒に行動したいと思ったから」
 櫻井は頭が良い。あのパニックを起こすような状況でちゃんと考えて行動していた。僕は頭が真っ白だったけど。なんだか櫻井がカッコよく見えてくる。
「櫻井、僕は櫻井がいれば大丈夫だと思う。でも、一人じゃとても怖くて無理。だから、お互いに約束しよう。単独で行動しない。必ず、一緒に」
「うん。オッケ。藤沢と一緒なら心強い」
 櫻井がニカっと歯を見せる。いつもの大人びた笑みより子どもっぽい笑顔だ。表情の奥に嬉しそうな気持ちが見えている。そんな顔を見てしまうと、心の奥がくすぐったくなる。
「それに、気になるのは和田のバックにいる奴だな。モナリザとかベートーベンではないのは確かじゃね?」
「ああ。俺はモナリザから悪い感じを受けない。小田に寄り添っている感じがする」
「それは、ベートーベンもそう。遠くから見守っている感じ。小田から親しそうな感じしてるしな」
「つか、向こうの世界のクラスメイトか! 小田はグローバル人間だなぁ。編入先は異世界教室でした、かよ」
「異世界留学とかウケる! リアルバーチャルかよ!」
 少し笑ってから、櫻井が真顔になった。
「俺、気になるんだけど。小田は両親の事とか、一言も言わないな。心配かけてるかも、とかさ」
 言われて気が付く。その通りだ。小田は家族の事を一言も言わない。普通なら真っ先に気にしそうなものなのに。
 それどころか、本の続きを欲しがって、まだあちらの世界に留まるような態度を見せている。戻りたいという必死さは、無い。
「ああ、ちょっと、変かも」
 小田は一体何を抱えているのだろう。モナリザのお願いに関わっている場合ではない。小田自身の問題に向き合わなくて良いのだろうか。考えがまとまらなくて、櫻井にどう言って良いのか悩む。櫻井も何かを考えている様子だ。
 その日は互いに言葉少なく帰路についた。

 寝る前に考えた。僕が急にあちらの世界に行ったら、どうするだろう。小田のように授業を普通に受けたいと思うのだろうか。いや、そうは思わないはずだ。
 まず考えるのは、家に帰りたい、ではないか。もし、一人で現実世界から切り離されたらパニックに陥るはずだ。
 やはり、あの小田の落ち着きはおかしい。
 小田の行動が読めない中で、僕は何をしたらいいのだろう。
 もしモナリザの願いを聞くとなると、お化けと関わることになる。
 外から見ているだけだと思っていた自分が、あっちの世界に関わらなくてはいけないなんて。
 僕は大丈夫なのだろうか。
 櫻井は不安にならないのだろうか。
 考え出すと頭が冴えてしまって、その日はなかなか寝入ることが出来なかった。

 翌日の放課後。
「小田、化学のノートとった?」
 櫻井が背面黒板に呼びかける。背面黒板が徐々に透明になる。
『うん。とっていたよ』
「見せて。俺と藤沢は寝た」
『いいよ。えっと、明日は化学ないから、来週までに返してくれたら助かる、かな』
「りょ。じゃ、置いといて」
 僕は二人が会話している間、向こう側の教室を見つめた。
 いくつかの黒い影はハッキリ見えない。小田とモナリザは前にいるが、ベートーベンは離れた位置にいる。僕はベートーベンに目を向けたくない。僕の中に閉じ込めてある嫌な気持ちを見透かされているような気がするから。
『藤沢君、あの、体調は大丈夫?』
 呼ばれて視線を小田に移す。眠いけれどそれ以外の不調はない。
「なんで?」
『この間、急に倒れちゃって、もしかしたらコッチのせいかなっってベートーベンさんが心配していたから』
 驚いてベートーベンを見つめた。僕の心配をしていた? 意外なことに言葉が出ない。 
「へぇ、ベートーベンは優しいんだな」
 僕の代わりに櫻井が答えた。すると何故かモナリザが左右に揺れた。モナリザが動いているのは初めてだ。
「小田、そっちで仲良くやってんじゃん」
 櫻井の言葉に僕はガクッと肩を落とした。仲良くしていたらダメだろう。小田がこちらに
戻ってこれなくなりそうだ。
「心配してくれてありがとう。こんな非現実なことに巻きこまれて絶好調とは言えないけど。まぁ、ちょっと慣れたかな。小田は? そっちは快適?」
 言いながらベートーベンに目を向けた。相変わらずの偏屈顔だ。お化けなのに心配をしてくれているのか。怖いだけでは無いのかも。そんな気持ちが生まれた。
『快適かって言われたら、どうだろう。でも、今の僕には最適、かな』
「最適、か」
 その言葉が意味深で繰り返した。現実世界より、あちらが良いという事だ。いつも静かな小田に一体何があったのだろう。
「な、モナリザと俺たちは話せないの?」
 櫻井はモナリザを見つめている。
『うん。モナリザさんやベートーベンさんの声はこっちの世界でしか聞こえないらしいよ。だから僕が伝えるね。えっと、言ってもいいのかな?』
 小田の最後の声は僕たちに向けたものではない。隣にいるモナリザに問いかけている。モナリザはまた左右に少し揺れた。まるで動揺をしているようだ。
「ブハっ!」
櫻井が堪えきれないという様子で口を押さえている。いや、気持ちは分かるのだけど我慢して欲しい。モナリザの動きがコミカル過ぎるのだ。
『モナリザさんは、ベートーベンさんが気になっているんだけど』
 小田がモナリザを気にしながら小声になった。
「は?」
「え?」
 僕と櫻井は同時に声を出していた。モナリザはソワソワするように揺れている。
『モナリザさんはベートーベンさんと、向き合って話せないんだって。絵だから』
「はぁぁ⁉」
 予想外すぎる展開に悲鳴のような声が出てしまった。つまりだ。モナリザはベートーベンに好意を寄せている、とか? そんなことあり得るのだろうか。
『どうにか、ならないかな』
「ちょっと、待て。小田、それは、つまり、モナリザの恋を何とかしろと」
『しっ! 声が大きいってモナリザさんが言ってる。後ろにいるベートーベンさんに聞かれちゃうって』
 櫻井と顔を見合わせた。僕はもっと怖い事かと思っていたのだけど。いや、お化けの恋も十分怖いか、と考え直す。
「あのさ、たかだか高校二年の僕らが、超長生きしているだろうお化けの恋をどうにかできると思うのか?」
 櫻井が同意を示す頷きをする。
『平面なんだって。自分たちは平面だから、こっちの世界でも正面から向き合えないらしいよ。だから、現実世界で絵を向き合わせるとか、無理なのかな』
 なるほど。モナリザとベートーベンは二次元の絵だから、互いを立体で認識することが出来ないのか。そう言えば二人はいつも離れた場所にいる。あれが現実世界の絵の置き場所による距離感を表しているとしたら。
 現実世界の距離感を何とかしたら、あっちの世界でも向き合えるのではないかと小田は考えているのだ。
 櫻井とコクリと頷き合う。それなら何とかできそうだから。
「小田、ひとつ確認」
『何?』
「願いを叶えたら、何か俺らに得はある? それから、もし絵を破損したとか失敗したら、死んで詫びろとか、ある?」
 櫻井の言う通りだ。メリットとデメリットは知っておく必要がある。請け負う事でのデメリットがあっちの教室に来い、とか、魂をとるぞ、だったら無理だ。
『ないって。得も損もない。モナリザさんは、もともとずっと諦めていたって。僕がこちらに来たことで、万が一、願いが叶うならって気持ちみたい。無理ならいいって言ってるよ。でも、こんなチャンスは二度とないからって』
 モナリザに目を向けた。
 彼女は揺れることなく静かにそこにいる。寂しさをたたえた表情。そう見えるのは僕の気のせいだろうか。
「よし! やってみる。ただ、放課後は吹奏楽部が音楽室使うから、朝早くかな。けど、お化けって朝の時間は弱いんじゃないの?」
 どうなのかな、と僕たちは三人で笑った。
 小田が笑うのは初めて見たし、これほど一生懸命に意見する姿も初めてだ。
 僕たち三人の間に絆のようなものが芽生えているのを実感した。