背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

「なんか、これ、雑用じゃんか」
 美術室に戻り、描かない時の部活って何するのかと櫻井に聞いたら、備品の手入れだと言われた。それなら手を貸そうと一緒に取りかかったのだが。キャンパス台のネジのチェックや筆洗いバケツの洗浄をしながら、これは雑用だと気が付いた。
「そう。描きに集中しちゃうと放置になるから、今しか出来ない。しかも、タダ働きがいる高チャンス」
「おい、タダ働き言ったな」
「うそうそ、助かってるって。サンキュ」
 笑いながら、ふと壁のモナリザが気になった。
「櫻井、モナリザの絵って良く見てんのか?」
「ああ、うん。やっぱし、すごいんだ。表情とか深みがすごい。明るくて華やかじゃないのに惹きつけられるし」
 櫻井がため息をついた。今は描けないと言っていた櫻井の心は複雑なのだろう。部員が一人になっている美術部では、誰かが励ましてくれるとか聞いてくれることは無さそうだ。
 櫻井がどんな気持ちでモナリザと向き合っているのか気になるけれど、僕が踏み込むべき事じゃない。
「よし。今日は終わりにしよ」
 櫻井の声に頷いて、片付けに取りかかった。
「いつも何時までやってんの?」
「六時前。今日はちょっと早いけど、暗くなるまで残るの怖いからな」
 櫻井がわざとらしく肩をすくめる。その気持ちは分かりすぎるから、櫻井の動作を真似てみせた。すると櫻井は口角をにっと上げた。いつもどこか冷めた様子の櫻井らしくない顔だ。
 その表情が僕の心をくすぐる。身体の芯がほんのり明るくなるような感覚がする。
「確かに。ってゆうか、部活やるときは誘えよ。僕はココでゆっくり自由に過ごすし。小田の事もどうしたらいいのか話したいし」
「だな。小田、どうしてやるのが良いんだろ」
「とりあえず、明日、本とお茶が無くなってたら、繋がりが持てるってことだな」
「じゃ、小田が好きそうなお菓子でも買ってくか」
「てかさ、お茶の時にも思ったけど、小田の好みが分からん」
 櫻井が困った顔になり固まった。
「じゃ、加藤でも用意するか」
 加藤をどうやって用意するんだよ、と肩を叩き合って笑った。
 結局、小田に直接欲しいモノとか困っていないかを聞いてみることにした。明日、あの教室が出現してくれればいいけれど。
 訳の分からない体験をしているのに、通常モードに高校生活が流れている。現実と夢が並行しているような、とても奇妙な感覚だ。

 帰り道で小田へのお菓子を買った。
 櫻井はビタミンゼリーや栄養食ばかりを買おうとしていた。栄養が沢山はいっているならお得だ、と櫻井は言っていた。
 僕がお菓子を買うなら、美味しいことが優先だけど。櫻井は僕とは全く違う。そんな違うところを見つけるたびに頬が緩む。
 少し前は櫻井のストレートな言葉や態度に苛立っていたのに、今ではそれが楽しい。
 もともと桜井とは挨拶をする程度の仲だったのに、今は一番話をするクラスメイトになっている。
 その関係の変化も、小田のことも、色々な意味で、とても不思議なことが起きている。しみじみそう思う。

 翌日。小田がちゃんと本を受け取れたのか確認したくて早くに登校した。下駄箱で櫻井に会って笑った。同じことを考えていた。
 まだ静かな校舎。朝日が差し込む廊下が美しく光る。
「綺麗だな」
「うん」
 誰もいない廊下を歩くと、まるで異世界への通路を進んでいるような気分になる。僕がいるのは現実だろうか。奇妙な不安に襲われて隣の櫻井を見た。櫻井はいつもと変わらない表情。僕の視線に気が付いて眉間にしわを寄せた。
「何だよ」
 そっけない言葉に安心する。これは現実だ。
「何でもない」
「は? 寝ぼけてんのかよ」
 櫻井が教室のドアを開けた。すぐに見たのは教室の後方。背面黒板は黒板のままだ。
「あ、無くなってるじゃん」
 背面黒板の前に置いたペットボトルもカロリーメイトも無くなっていた。そして、本が一冊。櫻井が借りた本ではない。
「櫻井、これ、返却してってことかな」
 置いてある本には『返却ボックスに入れておいてください。お願いします。お茶とお菓子まで、ありがとう。小田』と付箋がついている。
「おお。俺らをパシリに使うとは。小田、なかなかやるなぁ」
「お、けど、受け取れたんじゃん。これは嬉しいな」
 櫻井とニッと笑い合った。一呼吸して背面黒板に向けて声を掛けた。
「小田! おはよ。これ、返しとくから。あと、今日の放課後にまた会おう」
 背面黒板の向こう側から小さくコンコンと音がした。きっと小田からの返事だ。
 櫻井と視線を合わせて頬を緩ませた。何だかワクワクした。