小田が借りたい本は直ぐに見つかった。本に疎い僕でも知っている有名作家の本だから目立つところに並べられていた。櫻井の図書貸し出しカードで借りて教室に戻るとき。
ふと自動販売機が目に入って足を止めた。そう言えば小田は向こうの世界で飲食はどうしているのだろう。
「藤沢? どした?」
「ああ、小田に飲み物でも買って行こうかな」
「ブハっ! あっちの教室に差しいれか。ウケる!」
「笑うな! いいだろ別に」
「ん。じゃ、俺はカロリーメイトをあげよ」
「持ち歩いてんの?」
「まぁ、腹減ったとき用に」
「何味?」
「チーズ」
「マジかぁ。カロリーメイトはチョコだろうが」
わはは、と笑いながらお茶のボタンを押した。ガコンと重い音と共に冷えたペットボトルが姿を現す。
「自販機みたいに小田が出てこないかな」
櫻井の言葉に少し首を傾げた。あっちの世界から小田がガコンと出てきたら、面白すぎる!
「そりゃ、櫻井……、小田が冷え冷え登場になるじゃんか!」
「ブハっ! 藤沢、斜め上すぎ!」
緊張の中で少し糸が緩んだように二人で笑った。
おかしな恐怖体験の中にいるのに、グラウンドでは運動部が必死に汗を流している。いつもと変わらない日常がそこにある。
僕も、本当だったらいつもと変わらない日常のはずだったのに。
グラウンドに目を向けていると、ポンと肩を叩かれた。
「藤沢、行こう。小田が待ちくたびれる」
きっと櫻井も同じことを思ったのかもしれない。そんな風に感じる寂しさを秘めた横顔。
「ああ」
僕たちはグラウンドに背を向けて教室に急いだ。
教室に戻ると背面黒板は黒板のままだった。
「小田。本借りて来たぞ」
声を掛けるが、何の反応もない。
「今日はもう出て来れないかもな」
「そうかも、な」
背面黒板の前に借りて来た本を置き、その傍にお茶とカロリーメイトを並べる。
「小田、良ければ食べて。じゃ、僕たち帰るから」
ただの黒板に向かって声を掛けた。今日はもう小田に会うのは無理そうだ。
櫻井と共に教室を出た。ふと気になっていたことを聞く。
「櫻井、このまま帰るのか?」
櫻井の眉が下がる。
「いや、ちょっと部活行こうか、迷う」
「何で? 行けば良いじゃん」
「いや、三年抜けて美術部は俺だけだし。さすがに、モナリザの絵がある教室に独りは、なぁ」
そう言われればその通りだ。それは怖いだろう。櫻井がそこまで図太くないのが分かって安心する。
「じゃ、僕が付いていようか? どうせ暇だし」
「ん~、どうしよ。藤沢って寝ちゃったりしそうだし。そしたら一人と同じだしな」
「寝たら起こせば良いじゃん」
「ま、そっか。一人よりマシか」
「アホか。人の親切をマシ程度に言うなよ」
「ブッハ! ごめんって。助かる」
理解できない物への不安を紛らわすように冗談を言いながら美術室に足を進めた。
こうして普通に話していると、櫻井は嫌な奴じゃないと思う。時々カチンとくるのだが。
何と言うか、掴みどころがない奴だ。
美術室に入ると熱気が籠っていた。すぐに窓を開けて換気する。熱を含んだ風がフワリと通り、それと共に音楽室の音が入り込む。懐かしさに耳が反応した。
「窓開けると、聞こえるんだよ」
櫻井が何かを察したのか窓を閉めようとする。
「閉めなくていいって。暑いし。締めきったら死ぬって」
苦笑いして振り向けば、櫻井は悲しそうな顔をした。こいつは感情が表に出やすい。
「美術部は人数少なくて。節電で夏は窓開けてること多くて」
「そっか。そりゃ大変だ」
「いつも聞こえていたんだ。パーカッションの練習の音」
櫻井の言葉が心臓を揺らす。
僕だって頑張っていた時期はある。パーカッションは打楽器だから実際に叩いて自主練するなら居残りや早朝しかない。家でエア練習するより叩く方が学べるから。
結果として頑張ってもダメだったけれど。
悔しさが蘇って僕は唇の内側を噛んだ。
熱い風が優しく髪を揺らす。吹奏楽部の現代曲が軽やかに美術室を侵食する。沸き上がる感情を抑えられず、窓を閉めた。
「やっぱさ、エアコンにしようぜ」
一言を必死に出して振り返ると、モナリザの絵が目に入った。ギクリとする。優しい微笑みが、労わるような目を向けている。
絵を見上げると思い出す。昔は音楽室でベートーベンの肖像画を複雑な思いで見上げたことがある。
高校一年まで所属していた吹奏楽部。
どうしても走ってしまうテンポが修正できず、壁にぶち当たった。何度やっても出来ない自分に苦しんだ。
先輩から責められてもどうしようもなかった。周囲を見たくなくて、壁の絵に目を向けることが多かった。パーカッションの位置がベートーベンの絵画の近くだった。
思い出すと背筋に寒気が走る。ただの絵だと思っていたのに、ベートーベンの絵は僕のどす黒い気持ちを吸い込んだのだろうか。
僕に関係、あるのだろうか。当時の嫌な気持ちまで戻ってくる。僕は小さくため息をついた。
「小田が読んでる『華の咲く元で』って本さぁ、バリバリの不倫モノらしいぞ」
櫻井の声に椅子をガタンと鳴らしてしまった。
「はぁ⁉」
「だろ! あの小田が、不倫モノにハマるとはな」
小田は一人で静かに過ごしているから淡泊なのかと思っていたが。予想外過ぎて口元が緩む。
「ちょっとググってみるわ。本とか読まないし知らないんだよ」
「俺も知らなくて、今、AIに聞いた」
「何だ、ズルじゃん」
「けどさ、あの小田が、なぁ」
櫻井と目が合う。櫻井の口元がフルフルしている。僕の頬もヒクヒクがおさまらない。
「ブハハ!」
「アハハ!」
吹き出して笑ってしまった。笑いだすと先ほどまでの暗い気持ちがフワリと軽くなる。
櫻井は不思議な奴だ。
エアコンの風が心地よく室内に行き渡る。強い日差しが非日常の恐怖を和らげる。
「櫻井は美術部で何やってんの?」
「絵を、かいてるよ」
「ふうん」
少し、沈黙。
「見る?」
「うん。見たい」
櫻井が椅子から立ち上がる。
「こっち」
隣の準備室に招かれる。櫻井に続いて行けば、布の被ったキャンバスがいくつも置いてあった。そのうちの一つの布を櫻井がまくり上げる。
そこに現れた青の世界に息を飲む。
「すっげ。きれぇ……」
ため息のように言葉が出た。キャンバスに描かれた揺れる青。これは、海だろうか。もっと近くで見たいと思った時。バサリと白い布で隠される。
「まだ未完成だし、ちょっと今は、描けないんだ」
「海?」
「そう」
絵を隠した櫻井の顔は影がある。櫻井はスランプだと言っていた。描くことに悩んでいるのだろう。
「僕、吹奏楽辞めたけど、パーカッションは好きなんだ。叩けないけど、それでも、イイなって思う」
「触れなくても、好きなのか?」
「そう。音楽が好きな気持ちと、それをやることは僕の中では別」
「ふうん」
布がかけられた絵を見つめる櫻井の黒い瞳は、絵の青のように澄んでいた。
ふと自動販売機が目に入って足を止めた。そう言えば小田は向こうの世界で飲食はどうしているのだろう。
「藤沢? どした?」
「ああ、小田に飲み物でも買って行こうかな」
「ブハっ! あっちの教室に差しいれか。ウケる!」
「笑うな! いいだろ別に」
「ん。じゃ、俺はカロリーメイトをあげよ」
「持ち歩いてんの?」
「まぁ、腹減ったとき用に」
「何味?」
「チーズ」
「マジかぁ。カロリーメイトはチョコだろうが」
わはは、と笑いながらお茶のボタンを押した。ガコンと重い音と共に冷えたペットボトルが姿を現す。
「自販機みたいに小田が出てこないかな」
櫻井の言葉に少し首を傾げた。あっちの世界から小田がガコンと出てきたら、面白すぎる!
「そりゃ、櫻井……、小田が冷え冷え登場になるじゃんか!」
「ブハっ! 藤沢、斜め上すぎ!」
緊張の中で少し糸が緩んだように二人で笑った。
おかしな恐怖体験の中にいるのに、グラウンドでは運動部が必死に汗を流している。いつもと変わらない日常がそこにある。
僕も、本当だったらいつもと変わらない日常のはずだったのに。
グラウンドに目を向けていると、ポンと肩を叩かれた。
「藤沢、行こう。小田が待ちくたびれる」
きっと櫻井も同じことを思ったのかもしれない。そんな風に感じる寂しさを秘めた横顔。
「ああ」
僕たちはグラウンドに背を向けて教室に急いだ。
教室に戻ると背面黒板は黒板のままだった。
「小田。本借りて来たぞ」
声を掛けるが、何の反応もない。
「今日はもう出て来れないかもな」
「そうかも、な」
背面黒板の前に借りて来た本を置き、その傍にお茶とカロリーメイトを並べる。
「小田、良ければ食べて。じゃ、僕たち帰るから」
ただの黒板に向かって声を掛けた。今日はもう小田に会うのは無理そうだ。
櫻井と共に教室を出た。ふと気になっていたことを聞く。
「櫻井、このまま帰るのか?」
櫻井の眉が下がる。
「いや、ちょっと部活行こうか、迷う」
「何で? 行けば良いじゃん」
「いや、三年抜けて美術部は俺だけだし。さすがに、モナリザの絵がある教室に独りは、なぁ」
そう言われればその通りだ。それは怖いだろう。櫻井がそこまで図太くないのが分かって安心する。
「じゃ、僕が付いていようか? どうせ暇だし」
「ん~、どうしよ。藤沢って寝ちゃったりしそうだし。そしたら一人と同じだしな」
「寝たら起こせば良いじゃん」
「ま、そっか。一人よりマシか」
「アホか。人の親切をマシ程度に言うなよ」
「ブッハ! ごめんって。助かる」
理解できない物への不安を紛らわすように冗談を言いながら美術室に足を進めた。
こうして普通に話していると、櫻井は嫌な奴じゃないと思う。時々カチンとくるのだが。
何と言うか、掴みどころがない奴だ。
美術室に入ると熱気が籠っていた。すぐに窓を開けて換気する。熱を含んだ風がフワリと通り、それと共に音楽室の音が入り込む。懐かしさに耳が反応した。
「窓開けると、聞こえるんだよ」
櫻井が何かを察したのか窓を閉めようとする。
「閉めなくていいって。暑いし。締めきったら死ぬって」
苦笑いして振り向けば、櫻井は悲しそうな顔をした。こいつは感情が表に出やすい。
「美術部は人数少なくて。節電で夏は窓開けてること多くて」
「そっか。そりゃ大変だ」
「いつも聞こえていたんだ。パーカッションの練習の音」
櫻井の言葉が心臓を揺らす。
僕だって頑張っていた時期はある。パーカッションは打楽器だから実際に叩いて自主練するなら居残りや早朝しかない。家でエア練習するより叩く方が学べるから。
結果として頑張ってもダメだったけれど。
悔しさが蘇って僕は唇の内側を噛んだ。
熱い風が優しく髪を揺らす。吹奏楽部の現代曲が軽やかに美術室を侵食する。沸き上がる感情を抑えられず、窓を閉めた。
「やっぱさ、エアコンにしようぜ」
一言を必死に出して振り返ると、モナリザの絵が目に入った。ギクリとする。優しい微笑みが、労わるような目を向けている。
絵を見上げると思い出す。昔は音楽室でベートーベンの肖像画を複雑な思いで見上げたことがある。
高校一年まで所属していた吹奏楽部。
どうしても走ってしまうテンポが修正できず、壁にぶち当たった。何度やっても出来ない自分に苦しんだ。
先輩から責められてもどうしようもなかった。周囲を見たくなくて、壁の絵に目を向けることが多かった。パーカッションの位置がベートーベンの絵画の近くだった。
思い出すと背筋に寒気が走る。ただの絵だと思っていたのに、ベートーベンの絵は僕のどす黒い気持ちを吸い込んだのだろうか。
僕に関係、あるのだろうか。当時の嫌な気持ちまで戻ってくる。僕は小さくため息をついた。
「小田が読んでる『華の咲く元で』って本さぁ、バリバリの不倫モノらしいぞ」
櫻井の声に椅子をガタンと鳴らしてしまった。
「はぁ⁉」
「だろ! あの小田が、不倫モノにハマるとはな」
小田は一人で静かに過ごしているから淡泊なのかと思っていたが。予想外過ぎて口元が緩む。
「ちょっとググってみるわ。本とか読まないし知らないんだよ」
「俺も知らなくて、今、AIに聞いた」
「何だ、ズルじゃん」
「けどさ、あの小田が、なぁ」
櫻井と目が合う。櫻井の口元がフルフルしている。僕の頬もヒクヒクがおさまらない。
「ブハハ!」
「アハハ!」
吹き出して笑ってしまった。笑いだすと先ほどまでの暗い気持ちがフワリと軽くなる。
櫻井は不思議な奴だ。
エアコンの風が心地よく室内に行き渡る。強い日差しが非日常の恐怖を和らげる。
「櫻井は美術部で何やってんの?」
「絵を、かいてるよ」
「ふうん」
少し、沈黙。
「見る?」
「うん。見たい」
櫻井が椅子から立ち上がる。
「こっち」
隣の準備室に招かれる。櫻井に続いて行けば、布の被ったキャンバスがいくつも置いてあった。そのうちの一つの布を櫻井がまくり上げる。
そこに現れた青の世界に息を飲む。
「すっげ。きれぇ……」
ため息のように言葉が出た。キャンバスに描かれた揺れる青。これは、海だろうか。もっと近くで見たいと思った時。バサリと白い布で隠される。
「まだ未完成だし、ちょっと今は、描けないんだ」
「海?」
「そう」
絵を隠した櫻井の顔は影がある。櫻井はスランプだと言っていた。描くことに悩んでいるのだろう。
「僕、吹奏楽辞めたけど、パーカッションは好きなんだ。叩けないけど、それでも、イイなって思う」
「触れなくても、好きなのか?」
「そう。音楽が好きな気持ちと、それをやることは僕の中では別」
「ふうん」
布がかけられた絵を見つめる櫻井の黒い瞳は、絵の青のように澄んでいた。


