「モナリザは夕方を描いているって説が多いんだ」
放課後の教室。残暑がきつい。
エアコンが切られて自然風だけでは、長時間は残れないと思う。それに夏休み明けは部活の主導権が二年に移り、僕たちの学年は部活に熱が入っている時期。放課後に教室に残る生徒はいない。だから櫻井と二人きりだ。
「へえ、そうなんだ」
僕たちは背面黒板に向かって座っている。いつもと逆方向に安心している自分がいる。前を向くのが普通だけれど、前を向いていたら後ろで起きていることを見逃すから。
「藤沢は、部活やってない?」
「ああ。辞めたから。吹奏楽だったけど」
「ふうん。どの楽器?」
「パーカッション」
「カッコいいじゃん。希望?」
掘り下げて聞いてくる櫻井にイライラする。
「もう、辞めたんだ!」
ついキツい口調になってしまった。こんなところが自分でダメだと思いながら、去年から全然成長していないと感じて肩を落とす。
「聞いてゴメン」
櫻井はすぐに謝罪の言葉を出した。櫻井の素直さが滲み出ている。櫻井は良くも悪くも感情がストレートに言葉に出るタイプなのだ。ちょっと僕と似ている。
「いや。それより、櫻井は部活良いのか?」
「いい。今、スランプなんだ」
「ふうん。アート系アルアル?」
「そんな感じ」
櫻井は部活の話をしたくなさそうだ。去年僕が部活を辞めた時は、誰にも自分の気持ちなんて言いたくなかった。探って欲しくなかった。それを思い出して、もう聞くのは止めようと思った。
「小田ってどんな奴だ?」
「お、いいね。向こうで聞いてるかもよ? 小田は、シンプルに本が好き」
「あ、そうそう。いつも読んでるよな」
「マンガじゃないんだよ。文字ぎっしり」
「櫻井、何で知ってんの?」
「小田の席ってドアの近くだから。つい見ちゃってさ」
「確かに! 出入りの時に、つい見ちゃうの分かるわ。小田って不思議な可愛さもあるしな」
「いや、分からんぞ。高二はまだ成長期だからな。小田が加藤よりデカい筋肉マッチョになって本を読むかもしれん」
「アハハ! 鋼鉄の本で筋トレだ!」
「おい、小田! こんな言われ放題だぞ。いいいのか?」
面白くなって話を盛りすぎた。話題を振って背面黒板に目を向けたら。
モナリザに隠れるようにして僕たちを見ている小田が見えた。いつの間にか向こうの教室と繋がっていた。
小田は困った顔をしている。相変わらず頬を染めて。
『あの、筋肉、マッチョには、きっとならないよ』
小田の声が届いた。驚きで櫻井と目を見合わせた。櫻井はコクリと小さく頷いたあと、小田に声を掛けた。
「小田、図書室の本、借りてくるのある? 俺、持って来ようか? そっち、暇じゃないの?」
『いい、の? 本、欲しいな。あの、紫木冬樹のって借りてくれる?』
「いいぞ。大サービスだ。背面黒板の前に置けばとれる?」
『多分、取れる。あの、華の咲く元で、の二巻お願いしていい?』
「オッケ。じゃ、図書室行ってくるわ。小田、このまま待てる?」
『うん。けど、ダメって言われたら、待っていられないかも。あの、置いてくれれば、取るから』
櫻井と目線を合わせた。ダメと言われる相手がいるのだ。小田を管理している者がいる。これは大きな情報だ。
「わかった。小田、体調悪いワケじゃなさそうで良かったよ」
小田はハッとしたように櫻井を見た。櫻井は静かに席を立つ。慌てて僕も従った。だってあの教室に残されたくない。正直怖い。
「おい、櫻井」
彼の背中を追いかけながら声を掛けた。
「ん?」
「授業中じゃないのに小田が見えたな。何でだろ。リアルにビビった」
自分の正直な気持ちが出た。同時に疑問も浮かぶ。なぜ授業じゃないのに向こうの世界が背面黒板で繋がったのだろう。
「ちょっと分かったんだけど、もしかしたら小田がこっちの世界を見たいって思うことが重要かもな。授業は小田が受けたいから教室が繋がる。今も、自分の話題に引かれて、聞きたかったんだろうな」
「じゃ、和田がこっちの世界に興味が失せたら?」
「完全に接点が無くなるんじゃね? そしたら、しゃーないな」
まるで小田が完全にこの世からいなくなることを示唆されたようで僕はゴクリと唾を飲んだ。
櫻井は情が厚いのか淡泊なのか、理解に苦しむ。
もし、僕が向こうの世界に行ってしまったら櫻井はどう思うのだろう。
『仕方ないんじゃね?』
そう言うだろうか。チクリと胸が痛む。しかし、先ほど音楽室から連れ出してくれた時の言葉が蘇る。
――お前まであっちに引き込まれるとか、勘弁だからな。
ぶっきらぼうな言葉が出るけれど、きっと櫻井は僕の腕を掴んでくれる。あっちに行くなと止めてくれる。不思議とそんな確信があった。
だから、大丈夫だ。
そう思うけれど、僕の心の底には音楽室でのささやきが居座っている。
――君も、こっちに来れば、楽なんだよ。
あれは多分、小田を向こうの世界に連れ込んだ奴だ。
優しい声音なのに冷たい感じがする声。頭から離れてくれない声に心が揺れる自分がいる。あちらの世界は、どんな世界なのだろう。
そう考え始めた時。
「藤沢、図書室閉まる前に本、見つけるぞ。俺図書室とか入ったことないし、ちょい緊張」
櫻井の声にハッと我に返った。
「あ、うん。そう、だな」
急に自分の心臓の音を認識する。ドクドク走る血流が熱を手足に届ける。まるで自分の身体が『ここに、現実世界にいるよ!』と主張しているようだ。
櫻井に声を掛けてもらって助かった。あっちの世界に気持ちが引かれていた。考えふけってしまうと身体の感覚が曖昧になる。その浮遊感の始まりのような感じが怖い。
これ以上興味を持ったらダメだ。それは絶対だ。僕は首をブルブルと横に振った。
あの声は忘れるべきだ。そう自分に言い聞かせた。
放課後の教室。残暑がきつい。
エアコンが切られて自然風だけでは、長時間は残れないと思う。それに夏休み明けは部活の主導権が二年に移り、僕たちの学年は部活に熱が入っている時期。放課後に教室に残る生徒はいない。だから櫻井と二人きりだ。
「へえ、そうなんだ」
僕たちは背面黒板に向かって座っている。いつもと逆方向に安心している自分がいる。前を向くのが普通だけれど、前を向いていたら後ろで起きていることを見逃すから。
「藤沢は、部活やってない?」
「ああ。辞めたから。吹奏楽だったけど」
「ふうん。どの楽器?」
「パーカッション」
「カッコいいじゃん。希望?」
掘り下げて聞いてくる櫻井にイライラする。
「もう、辞めたんだ!」
ついキツい口調になってしまった。こんなところが自分でダメだと思いながら、去年から全然成長していないと感じて肩を落とす。
「聞いてゴメン」
櫻井はすぐに謝罪の言葉を出した。櫻井の素直さが滲み出ている。櫻井は良くも悪くも感情がストレートに言葉に出るタイプなのだ。ちょっと僕と似ている。
「いや。それより、櫻井は部活良いのか?」
「いい。今、スランプなんだ」
「ふうん。アート系アルアル?」
「そんな感じ」
櫻井は部活の話をしたくなさそうだ。去年僕が部活を辞めた時は、誰にも自分の気持ちなんて言いたくなかった。探って欲しくなかった。それを思い出して、もう聞くのは止めようと思った。
「小田ってどんな奴だ?」
「お、いいね。向こうで聞いてるかもよ? 小田は、シンプルに本が好き」
「あ、そうそう。いつも読んでるよな」
「マンガじゃないんだよ。文字ぎっしり」
「櫻井、何で知ってんの?」
「小田の席ってドアの近くだから。つい見ちゃってさ」
「確かに! 出入りの時に、つい見ちゃうの分かるわ。小田って不思議な可愛さもあるしな」
「いや、分からんぞ。高二はまだ成長期だからな。小田が加藤よりデカい筋肉マッチョになって本を読むかもしれん」
「アハハ! 鋼鉄の本で筋トレだ!」
「おい、小田! こんな言われ放題だぞ。いいいのか?」
面白くなって話を盛りすぎた。話題を振って背面黒板に目を向けたら。
モナリザに隠れるようにして僕たちを見ている小田が見えた。いつの間にか向こうの教室と繋がっていた。
小田は困った顔をしている。相変わらず頬を染めて。
『あの、筋肉、マッチョには、きっとならないよ』
小田の声が届いた。驚きで櫻井と目を見合わせた。櫻井はコクリと小さく頷いたあと、小田に声を掛けた。
「小田、図書室の本、借りてくるのある? 俺、持って来ようか? そっち、暇じゃないの?」
『いい、の? 本、欲しいな。あの、紫木冬樹のって借りてくれる?』
「いいぞ。大サービスだ。背面黒板の前に置けばとれる?」
『多分、取れる。あの、華の咲く元で、の二巻お願いしていい?』
「オッケ。じゃ、図書室行ってくるわ。小田、このまま待てる?」
『うん。けど、ダメって言われたら、待っていられないかも。あの、置いてくれれば、取るから』
櫻井と目線を合わせた。ダメと言われる相手がいるのだ。小田を管理している者がいる。これは大きな情報だ。
「わかった。小田、体調悪いワケじゃなさそうで良かったよ」
小田はハッとしたように櫻井を見た。櫻井は静かに席を立つ。慌てて僕も従った。だってあの教室に残されたくない。正直怖い。
「おい、櫻井」
彼の背中を追いかけながら声を掛けた。
「ん?」
「授業中じゃないのに小田が見えたな。何でだろ。リアルにビビった」
自分の正直な気持ちが出た。同時に疑問も浮かぶ。なぜ授業じゃないのに向こうの世界が背面黒板で繋がったのだろう。
「ちょっと分かったんだけど、もしかしたら小田がこっちの世界を見たいって思うことが重要かもな。授業は小田が受けたいから教室が繋がる。今も、自分の話題に引かれて、聞きたかったんだろうな」
「じゃ、和田がこっちの世界に興味が失せたら?」
「完全に接点が無くなるんじゃね? そしたら、しゃーないな」
まるで小田が完全にこの世からいなくなることを示唆されたようで僕はゴクリと唾を飲んだ。
櫻井は情が厚いのか淡泊なのか、理解に苦しむ。
もし、僕が向こうの世界に行ってしまったら櫻井はどう思うのだろう。
『仕方ないんじゃね?』
そう言うだろうか。チクリと胸が痛む。しかし、先ほど音楽室から連れ出してくれた時の言葉が蘇る。
――お前まであっちに引き込まれるとか、勘弁だからな。
ぶっきらぼうな言葉が出るけれど、きっと櫻井は僕の腕を掴んでくれる。あっちに行くなと止めてくれる。不思議とそんな確信があった。
だから、大丈夫だ。
そう思うけれど、僕の心の底には音楽室でのささやきが居座っている。
――君も、こっちに来れば、楽なんだよ。
あれは多分、小田を向こうの世界に連れ込んだ奴だ。
優しい声音なのに冷たい感じがする声。頭から離れてくれない声に心が揺れる自分がいる。あちらの世界は、どんな世界なのだろう。
そう考え始めた時。
「藤沢、図書室閉まる前に本、見つけるぞ。俺図書室とか入ったことないし、ちょい緊張」
櫻井の声にハッと我に返った。
「あ、うん。そう、だな」
急に自分の心臓の音を認識する。ドクドク走る血流が熱を手足に届ける。まるで自分の身体が『ここに、現実世界にいるよ!』と主張しているようだ。
櫻井に声を掛けてもらって助かった。あっちの世界に気持ちが引かれていた。考えふけってしまうと身体の感覚が曖昧になる。その浮遊感の始まりのような感じが怖い。
これ以上興味を持ったらダメだ。それは絶対だ。僕は首をブルブルと横に振った。
あの声は忘れるべきだ。そう自分に言い聞かせた。


