背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 午後の授業中に腰をねじるストレッチの振りをして後方に目をむけた。やはり小田がいる。意識して小田の周囲を見ると、モナリザは小田の左隣にいた。そして、周囲にはいくつも黒い影。他に何か見えないだろうか。反対に腰をねじってみたが。
「ねぇ、ちょっと」
 不機嫌な声。ハッと声の主を見れば、後ろの席の三倉がイラついている。それはそうだ。前の席の人が急に振り返って停止していたら気持ち悪いだろう。
「ご、ごめん」
 焦ってすぐに前を向いた。けれど。視界の隅に引っかかるもの。小田のいる教室の後方にチラリと見えた。あれは、ベートーベンだ。確か音楽室の壁に飾ってあった絵だ。櫻井が言っていた意味が分かった。まるで絵そのものの姿で小田のいる教室に存在している。リアルな小田と二次元のベートーベン。かなり奇妙な組み合わせだ。
 僕が見えたのはモナリザだけじゃない。一体、どういう事だろう。もう一度振り返りたい。でも三倉が変に思うはずだ。振り返りたいのに振り返れない! 
 痒いところに手が届かないようなもどかしい気持ちで授業が終えた。終礼と共に後方を見たら、三倉に睨まれた。
 女子の迫力を感じて僕はショボンと前を向く。三倉に嫌がらせしているつもりは無いのだけど。
 これでしばらく後ろを見られなくなってしまった。

「それ、三倉に勘違いされたんじゃねえの? アホじゃん」
 呆れ顔で櫻井に言われるとムッとする。やはりこいつは嫌な奴だ。さっきの事を言うんじゃなかった。それ以上話したくなくて口を閉ざしたが。
「なぁ藤沢。お前が見えたのがベートーベンだとすると、モナリザと何の関係があるんだろう」
 ハッとする。関係とは、何だ? 
「二つとも、飾られた絵?」
「そうだよな。放課後は吹奏楽部が音楽室使うから、次の休み時間でベートーベン見に行くか?」
「うん」
 音楽室にはまだ飾ってあるだろう。僕は良く見ていたから知っている。夢を追っていた去年を懐かしく思い、ため息をついた。

 音楽室まで急いだ。休み時間は十分。櫻井と息を切らして音楽室に到着する。鍵は開いていた。
「失礼します~っと」
 誰もいないだろうと思いながら室内に入った。音楽室独特の匂い。グランドピアノは隅っこで黒いカバーを掛けられている。階段状に配置された音楽室独特の机配置。去年と何も変わりがない。複雑な想いで見渡す僕を気にせず、櫻井はベートーベンの絵画に真っ直ぐ進む。こいつには恐怖感がないのだろうか。
「ベートーベンだけじゃない。モーツアルトも、バッハの肖像もある。でも、ベートーベンだけ、見えたんだな?」
 櫻井はベートーベンの絵を凝視している。
「ああ。僕が見たのは、ベートーベンだけ。でも、分からないんだ。一瞬だったし」
「もう一度振り返るのは難しいだろうな。三倉が怒るぞ」
 一言が余分だ。櫻井は思ったことを直ぐに口にする。こういうところは苦手だ。
「僕だって、分かってる」
 一言を返して唇の内側を噛んだ。
「なぁ、ベートーベンだけ、色が薄くないか?」
「は?」
「見てみろよ」
 先ほど背面黒板の後ろに広がる教室を見たばかりなのだ。多少の抵抗はある。何と表現したらいいのか難しいが、心臓が危険を訴えると言うか、関わりたくない本能なのか、ベートーベンを凝視したくない。少しためらうと、櫻井が振り向いた。
「早くしろ。時間ないし」
 その言葉にムッとする。本当に神経を逆なでする奴だ。
「うざ」
 つい口から漏れ出た一言。しまった、と思い櫻井を見ると、驚きの表情が目に入った。
 一瞬悲しみの色を出してフイっと横を向く櫻井。これは、この表情は、知っている。
 小田が失踪前に見せた悲しい顔に似ている。
 ――僕は、また、傷つけた?
 そんな不安が波のように襲い掛かる。

『藤沢君はもう少し相手の気持ちを考えるべきだって言ってんの』
『独奏してんじゃないんだから!』
 思い出したくない記憶が蘇る。もう、消え去ったハズなのに。急に苦しさが込み上げた。身体が動かない。

「藤沢?」
 櫻井の声に膝がガクっとゆれた。慌てて傍の机に手を付く。
「あ?」
 何だ。どう言えば正解なのか。それが分からなくなる。良い答えは、どこだ?
「うん。教室に戻ろう。ココに居たら良くない」
 櫻井が急に僕の背を押した。何だろう。フワフワした気分だ。バンッという音にハッと気が付いた。ドアの閉まる音がやけに大きく耳に届いた。
「え? あれ?」
 気が付いたら音楽室の外だった。櫻井に肩を抱かれて歩いていた。
「藤沢、大丈夫か? お前まであっちに引き込まれるとか、勘弁だからな」
 強い瞳に見つめられて、全身がブルリと震えた。途端に肩を抱かれている恥ずかしい状況を理解する。
「は? ふざけんな! 離せって」
 乱暴に肩の腕を引きはがせば、ホッと安堵した櫻井の顔がある。やけに心臓がドクドク動く。
 ひとつ大きく深呼吸してクラスに戻るために足を動かしたが。
 音楽室では、確かに声がした。
『君も、こっちに、来れば、楽なんだよ。仲良く、しよう』
 そう聞こえた。あれは、小田の声では無かった。腹の底が冷えるような男性の声。
 頭の隅で危険のシグナルが光っている。これは魂の危機を知らせる防衛反応かもしれない。けれど今更見なかった振りなど出来ない。ふと前を歩く櫻井が気になった。こいつは怖いとか嫌だとか思わないのだろうか。
 ――もし、僕が関わりたくないって逃げたら、櫻井はどうするのかな。
 そんなズルい考えはいけないと思いながら、心の奥に湧きあがる思いを消すことが出来なかった。