背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 それから二日後の朝。
 二日後になったのは準備に時間をかけたため。
 もう十一月に入った。さすがに朝は小寒い。
「朝活が厳しい季節になりました」
 櫻井が肩を縮めて歩く。寒さは苦手なのかもしれない。
「あはは! 早起きは三文の徳って言うじゃん」
「寺の小僧かっての。つか、俺は早起き苦手なんだよぉ」
「櫻井、出家するかぁ」
「仏門に入ったら早起きから解放されるだろうか?」
「バッカ、毎日早起きだ!」
 櫻井と恒例になってきた早朝登校。フワッと欠伸をすれば櫻井もつられる。二人で涙目になりながら誰もいない廊下を進む。
「藤沢、上手くいくと思うか?」
 真剣な櫻井の声。いつもは僕が不安になって櫻井に問いかけるのに。ふふっと笑いが零れる。
「それでも、やらないよりはいい、だろ?」
 いつもの櫻井の言葉を使えば、櫻井は肩をすくめて微笑む。
「オッケ。そりゃそうだ」
 フハハ、と笑いを響かせる。
 ――もし、成功しなかったら……。
 そんな不安を心の底に仕舞い込んだ。
 僕の隣には櫻井がいる。櫻井と一緒なら、何が起きても大丈夫だ。

 教室には誰もいない。この静かな朝が結構好きになってきている。
「お、今日も飴、無くなってる。昨日のは棒付きキャンディーだからな。子供は好きなはずだ」
 櫻井は背面黒板の前で嬉しそうだ。
「小田は寝たままか。本、借りて来たのにな」
 小田用に置いておいた菓子と本は残ったまま。
「授業中も見えなくなったな。あっちが見えないと、ちょい焦る」
「なぁ小田、櫻井がノート見せて欲しいってよ。小田ならどの授業もノート完璧だろ?」
 何の返事もない黒板を叩きたくなる。小田を出せ! そう怒鳴ってやりたい。
「藤沢、時間ないし。早めに準備するぞ」
 櫻井に頷きで同意を示す。
 背面黒板の前に小さな花束を置く。
 これは昨日帰りに買った。花屋に男二人で入るのは恥ずかしかったけれど、日持ちする花束というのがあって助かった。スタンディングブーケというもので、自立してくれるのも飾りやすくて助かる。櫻井と僕とで大奮発した千五百円の花束だ。
 それに折り紙で作った輪っかの飾りを背面黒板の上にテープでつける。

「できた。簡単だけど、谷先輩ミニ卒業式だ」
 背面黒板から少し距離をおいて立つ。櫻井と姿勢を正した。
「一同、起立。只今より、谷先輩卒業式を行います。礼!」
 背面黒板に向かって二人で深くお辞儀をした。
『谷先輩の高校生活のゴールとして卒業式をやる』
 これが僕と櫻井が出した答え。

 ファーストフード店でスマホ検索したときに見つけたのは、某大学学生寮での怪奇現象。
 夜中になると陸上部の寮を走り回る幽霊の存在。ある生徒が機転をきかせて、ゴールテープを貼ったら、そこを通過したあと幽霊が出なくなったらしい。
 つまり、走ることに未練のあった幽霊がゴールできたことで成仏をした。
 谷先輩も卒業できたら高校から離れて次のステージに行けるかもしれない。そうしたら小田が解放されるかも。
 浅はかだけれど、これが僕らの考えた作戦だ。

 櫻井が黒板に向かってネットで作成した簡単な卒業証書を読み上げる。
「谷隼人どの。あなたは高等学校の全過程を修了したことを証する。令和〇年、三月一日」
 校長先生がするように、卒業証書を黒板に向けて差し出した。
 数分の沈黙。
 やはりこんな簡素ではダメなのか? そう思った時。
 男性の手がスッと伸びてきた。半透明な手が証書を受け取り、そのまま黒板の向こうに引っ込んでいく。
 本当は悲鳴を上げたかったが、グッと堪えた。
 櫻井が深呼吸してから、スマホを操作する。
「在校生より送別の歌を贈ります」
 櫻井はRADWIMPSの『正解』を再生した。
 去年の卒業式で合唱に使われた曲だ。そして、この曲の最後が僕は谷先輩に最高に似合っているのではないかと思っている。
 だから、この曲を僕たちから贈りたい。

 スマホから音楽がゆったりと流れる。朝の凛とした空気と差し込む朝日。
 まるで本当の卒業式をしているような特別感だ。
 大きな声では歌えない。だけど心を込めて櫻井と歌った。
 歌の歌詞がまるで僕たちのようだ。
 この奇妙で怖くて不思議な体験、これは僕たちだけの秘密だ。
 歌いながら涙が零れた。
 心がギュッと締め付けられた。
 ――谷先輩を、どう慰めていいか分からない。小田の苦しみにも、何の助けも出来ていない。
 谷先輩は思いがけない死を迎えて、悔しいだろう。友が卒業した校舎に残る寂しさ。やるせなさ。その全てを想像して、涙が流れた。
 櫻井も泣いていた。
 気が付くと、歌に僕と櫻井の声に混じって男性の声が入っている。スマホの音じゃない。
 ――谷先輩だ! それに、小田も?
 その悔しさ、寂しさ、全てを癒す事なんてできない。でも、谷先輩を後輩として送り出すことはできる!
 歌が後半になるころには背面黒板は透明になり、向こうの教室がしっかり見えていた。
 小田は滝のような涙を流している。真ん前にいる谷先輩は下を向いて泣いている。
 最後の大切なフレーズを、心を込めて贈る。
 谷先輩が次のステージに行けますように。そう願いを込めた。
 歌い終わると教室に沈黙が流れる。

「送別の言葉。在校生代表、藤沢祐樹」
 凛とした櫻井の声を聞いて、腹に力を入れた。
「はい」
 準備をしていたけれど、緊張する。涙も止まらない。
「谷先輩。ご卒業おめでとうございます。ささやかですが、僕等から言葉を贈ります。まずは、普通に考えて、幽霊とか有り得ないし、小田を連れてかれたり、どんだけ迷惑かけてんだって話しですが、それも今日で終わりだと思うと寂しく感じます」
 僕は顔を上げて谷先輩を見た。先輩は泣きながら笑って僕を見ている。うん、きっと先輩の心には届いている。
「僕はこれまで幽霊とか信じていませんでした。でも、魂って残るんですね。先輩から大切なことを学びました。小田の苦しさを知れたのは先輩のおかげです。加藤の悩みを知ったのも先輩のおかげです。そして、学校には小さな神様たちがいることも。僕はこの貴重な経験を忘れません。先輩、高校は留まるところではありません。今日僕たちは、先輩を天国に送り出します。前に向けて、歩みを進めてください。先輩には輝いてほしいです。在校生代表、藤沢祐樹」
 まるで時間が止まったかのようだった。僕たちのいる空間自体が現実から切り離されたような。
『……ありがとう。オレは、卒業、出来るのかな。卒業……』
 谷先輩は手元に卒業証書を握っている。
「花子さん、花束を谷先輩に渡してくれる?」
 お願いすると白い子供の手がスッと伸びてきて、スタンディングブーケを向こうの世界に持っていく。
「谷先輩、俺たちも来年卒業します。それぞれ、進む先は違います。ですが、高校から巣立っていきます。僕らの先は大学とか専門とか。そして、先輩は、天国です。ここから、進むべきなんです」
 谷先輩は静かに涙を流している。
『なんで、オレだけ、死んだのかな? 信じられなくて、受け入れられなくて…‥』
 そりゃ悔しくてたまらないだろう。そこについては何と答えて良いのか分からない。唇を噛みしめて立ち尽くした。
 すると、トイレの花子さんが悲しそうな顔で先輩の手を撫でた。
『ナガく、こっチに、トドマると、アタシのように、なるノ。生まレ変ワル、道ガ、消えル。ソシタら、ずっと、ココだヨ』
 黒い空洞の瞳が優しく微笑む。まるで、谷先輩は同じ道を歩んではいけない、と諭しているようだ。モナリザやベートーベン、標本お化けが谷先輩を囲む。
『あなたは、幸せに、生まれ変わって』
 優しい言葉が聞こえて来た。
「谷先輩! 僕らは、進むみ道は違います。でも、この高校を母校に持つ、同士です!」
「俺たちは、貴重な高校生活を共にした、仲間です。こんな青春は、きっと俺たちしか経験してないですよね」
 櫻井の言葉に少し頬が緩む。確かに、こんな青春を過ごしたのは世界中で僕たちだけだ。
 きっと大人になろうが忘れない。この怖くて輝く日々を。
『そっか。オレ、行くわ』
 谷先輩は花束と卒業証書を持ち、フワリと浮いた。空からの光が煌くように谷先輩を照らす。
「先輩! 卒業おめでとうございます!」
「先輩、おめでとうございます!」
 小田も泣きながら見送っている。
『アタシたちガ、天国まデ、送っテ、来ル。ありガトウ』
 キラキラと空に昇る彼らを見守った。
『……ごめん、な』
 低い優しい声がした。涙が溢れて止まらなかった。
 背面黒板がもとの黒板に戻る。
「終わった、な」
「終わった、ハズだ……」
 櫻井と共に床にへたり込んだ。
 背面黒板には折り紙の飾りだけ残っている。その滑稽さに櫻井と声を上げて笑った。
 大急ぎでそれを片付けて、櫻井と抱き合った。
 感極まって、互いに無言で顔を埋めあった。
 この最高に高ぶる胸の感動をどう伝えて良いのか分からず、ただ腕に力を込めた。
 ――けれど。
 大切なことを、忘れていた。

「櫻井、小田は⁉」
「はっ⁉ こっちに、いない⁉」
 僕等はバッと離れて、背面黒板を叩いた。
「おい! モナリザ! 標本神様! 頼むよ! 小田を返してくれ!」
「花子さん! 無視すんな! 小田を返せ!」
 必至にバンバンと黒板を叩いたけれど、背面黒板は何の返事もよこさない。さすがに青ざめた、が。
「あの、おはよう。どうか、した?」
 僕等の背後から高めの声がして、バッと振り返った。
 そこには。そこには――。
「おだぁぁ! 小田だぁぁ!」
 僕と櫻井は椅子と机に衝突しながら小田に駆け寄った。
 何度も直接触れたいと思った小田だ。リアルに、ちゃんと存在している。こっちに存在している!
 僕と櫻井は小田を抱きしめて、嬉し泣きをした。「こいつぅ」と言いながら頭を撫でまわした。
 なのに、肝心の小田はポカンとしたままだった。

 数日後。
 加藤は無事に学校に戻り、サッカーに励む日々だ。小田は相変わらず教室の隅っこの席で本を読んでいる。
「な、櫻井。全部、夢だったのかなぁ」
 小田を遠くから眺めて僕は呟いた。
「バッカ。夢であってたまるか。けど、加藤も小田も何も覚えていないとか、有り得ん」
「だよなぁ。あっちに、教室あったよなぁ」
 僕は背面黒板に目を向けてため息をついた。
「もちろん。谷先輩を含めて、全部現実だ。俺が保証する。そして、俺はやりたいことがある」
「は?」
 櫻井はニカっと笑った。そのまま、僕の手を引いて小田の元に行く。
「小田、今日ファミレス行かね?」
 急に声を掛けられて小田は顔を真っ赤にしている。そんな様子が懐かしくて頬が緩む。僕は小田の本を取り上げた。まだ「華の咲く元で」を読んでいる。もうこれは没収だ。
「ドリンクバーとポテト食べようぜ」
 櫻井のようにニカっと笑いながら声を掛ければ、小田は頬をヒクつかせながら口を開いた。その頬がほのかに赤く染まっている。
「いい、の? あの、僕、藤沢君と櫻井君に飲み物を奢りたくて仕方がないんだ。おかしいんだけど、僕が、奢っていいかな?」
 その言葉に鼻の奥がツンとする。
 ――小田は約束を覚えていた。
「よし! ついでにパスタも食べよっかな! けっこう旨いんだって。加藤も誘うぞ!」
「えええ⁉」
 目を白黒させる小田を僕と櫻井の間に迎え入れて笑った。

 そっと背面黒板を見る。
 ――あの向こうにもうひとつ教室があったことは、僕と櫻井だけの秘密だ。
   【完】