朝のホームルール前には教室に滑り込んで遅刻を免れた。
櫻井と何を話すわけでもなく、美術室前でただ座り込んでいた。その時間が自分たちにしっくりきて、なかなかその場から動くことが出来なかった。
――櫻井は、不思議な奴だ。
僕の席からは三つ斜め前の櫻井の後姿が目に入る。黒髪が綺麗だ。ストレートの髪が艶めいている。それに首が長い。
「はい、ショートホームルーム始めます。おはようございます」
担任の先生が話し始めて前を向いた。目線を変えてみて気が付く。櫻井ばかりを見ていた。
「加藤君ですが、もう数日休んでから学校に登校します。元気になっています。本当に安心しました」
「おお」「良かった」そんな声が湧き上がった。加藤がいないと教室の活気が足りない。皆、加藤を心待ちにしているのが伝わってくる。
小田は安堵しているだろうか。後ろを振り返りたくてウズウズした。
だけど、ふと思い出す。加藤は悩みがありそうだった。教室で僕らに見せる顔とは違う面を持っている。それを知っているのは小田だけかもしれない。
――僕は何か加藤にしたほうが良いのかな?
考えるとやっぱり黒い艶髪の後姿に目が行ってしまう。
――櫻井に相談してみるか。
そんな風に考える自分に口元が緩む。もともと僕は人に相談などしないのに。
いつの間にか僕の中で櫻井の存在が大きくなっている。
最近の昼休みは美術室で過ごすのが定番になった。今日も櫻井と弁当を広げている。
「なぁ、加藤はいつ学校来るかな?」
「多分、病院での検査とかすんじゃね? 現実では数日間行方不明だからな。身体の異変とか調べるだろ。俺はその結果が気になって仕方ない」
「うわ、櫻井らしい。宇宙飛行士が地球に戻って全身検査する、みたいな感じか」
「それそれ。ワクワクするだろ?」
櫻井の口にご飯と卵焼きが吸い込まれる。櫻井の綺麗な顔からは想像できない豪快な食べっぷりだ。
「加藤は悩みがありそうって小田も先生たちも言ってただろ? 聞いたりした方がいいと思うか?」
モグモグと咀嚼していた櫻井が飲み下してから口を開いた。
「バカだな、藤沢。加藤の問題は加藤がどうにかする。見守れば良いんだよ。あいつはまだ自分で踏ん張りたいだろ」
「ふうん。そんなもんか」
「ああ。それに加藤を支えるのは俺らじゃない」
櫻井が言いたいことが分かった。
「小田だな。あいつは唯一、加藤の弱いとこを知ってる。加藤も、皆の知らない小田を知ってる」
「だな。あいつら、現実世界でちゃんと向き合うべきなんだ」
だから早く小田が戻ると良い。互いに分かり切っているその言葉は口に出さず、弁当に意識を集中した。
「谷先輩が起きないと小田は戻れないのかな?」
「つか、谷先輩って何者だよ。どうも分からん。そもそも小田を引き込んだのは何でだ?」
それは僕も疑問に思っている。何故、小田だったのだろう。真由先輩ではなく、小田だ。
「小田が抱える問題がそれだけ闇深かったとか」
「どれだけ現実に執着があるか、とか?」
加藤があっちの教室にいた時は人形のようだった。小田とは存在の形が違っていた。
「思うんだけどさ。学校で悩んでも家で休めたり、親とかが嫌でも学校で友達がいたり、どっかしら守られてる場所ってあるだろ。加藤には心配する親がいる。その違い、とか」
小田の家庭を思うと胸が痛いが、そこをどうにかするのは僕らには無理がある。
「最近さ、小田がこっちに戻りたいって思ってくれてんじゃん。これを谷先輩に伝えて分かってもらうのが良いのかも」
「和解の方向だな。それから、俺は谷先輩が学校に留まってる理由を聞きたい、かも。ほら、花子さんはトイレで上級生の助けを待っていた、とか。何かあるかもだろ?」
櫻井は谷先輩であろう怖い奴の声を聞いていないからそんな風に思えるのだろう。あの声を思い出すと不安が生じる。大丈夫だろうか。
「なぁ、櫻井。もし谷先輩が逆上したり、話が通じなかったら?」
櫻井はモナリザの絵を見上げた。
「それでも、何もしないよりいい」
櫻井らしい答えだ。
「オッケ。それでこそ櫻井だな」
僕は逃げる方向を考えがちだけど、櫻井は前向きからブレない。そんなところが……。
ハッとする。僕は何を考えていたのだろう。
そんなところが何なのだ。そんなところが良いところだ! うん、それでいい。
「藤沢? 何考えてんだ?」
いつのまにか櫻井はモナリザから僕に視線を移していた。怪訝な顔で僕を見ている。
「いや、ええ?」
櫻井の事を考えていたとは絶対に言えない!キョロキョロと目を泳がせてしまった。挙動不審な自分が恥ずかしい。顔が火照る。
「エロいことでも考えてたか? つか、どの流れでそうなるんだ?」
エロい? もしかして僕の様子がそう見えたのだろうか。だとしたら、ものすごい勘違いだ!
「バッカ! 違うって! 何で急にエロなんだ! 僕の事を何だと思ってるんだ!」
「はいはい、青少年ですからねぇ」
あきれ顔になる櫻井と「アホが!」「エロが!」と言い合って昼休みを終えた。
櫻井といると時間が過ぎるのが早くて困る。他にも話をしたい事は沢山なのに。
あっという間に放課後だ。
「さすがに午後は眠かった。ここんとこ朝活が多いからなぁ」
「あはは! 朝活だな。お化け幽霊関係なのに朝活! 笑うしかない」
櫻井と背面黒板前にお菓子と飲み物を並べる。
「あ、忘れてた。飴の残りを花子さんにあげよう」
櫻井が飴の袋を斜めにしてガサっと中身を出した時。
まだ透明になっていない背面黒板から、白い子供の手がニュッと出て来た。
「ぎゃぁぁ!」
「うおおおお!」
さすがに驚いて僕と櫻井は机と椅子にぶつかりながら後ずさった。
「は、花子さん⁉ 心臓に悪いから、リアルに出てこないで!」
そんな僕らに構わずに白い手は飴玉を掴んで向こうに持っていく。
『いチごあジィ……、ミルクゥあジィ……』
嬉しいのであろう内容と声の怖さがミスマッチだ。
「花子さん、他にもミカンやレモンとか果物味とかがあるよ。欲しいのある?」
『ゼンぶ、ちょウだィィ~』
白い手がグワッと伸びてくる。ちょっとそれは止めてくれ!
「わわ、これは怖いって。いつもみたいにそっちを見えるようにしてよ」
何かを求めるように伸びていた手がピタリと止まり、黒板に吸い込まれていく。
「これは、ちょっと花子さんと話が必要だな。どこからでも手を伸ばしたら学校中がパニックになる」
「おお。僕らはとんでもないモノを解放してしまったかもしれん」
「ブハハ! 確かにとんでもない!」
そんな会話をしているうちに背面黒板が透明になっていく。向こうに広がる教室の真ん前にはヌイグルミ姿の花子さんがいる。
『もっト……チョうだイ』
その両腕には先ほどゲットした飴が収まっている。ヌイグルミ姿でもその瞳は黒い空洞。しっかり見ると恐怖人形だ。
「花子さん、今日買ってくるから、明日ね」
じっと見つめられると怒らせてしまったのかと不安になる。マズかっただろうか。
ゴクリと唾を飲みこんだ時、スイ~っと泳いで来た標本お化けの蛙が花子さんの飴を一つ掴んだ。そのまま持ち去ってしまう。
『あタシのォォ!』
花子さんが蛙に飛びかかろうとしたが。
黒い大きな影が花子さんと蛙お化けを抱き上げた。
『飴をもらったのか。良かったな』
低く落ち着いた声。小田の声じゃない。
そこにいたのは、僕たちと同じ制服を着た男子生徒。
外見はごく普通で幽霊には思えない。
――これ、谷先輩だ!
初めて見るけれど、きっと谷先輩に違いない。そう思った。
櫻井とコクリと頷き合う。
あっちの教室の谷先輩は『喧嘩はダメだよ』と花子さんに飴を返してあげている。その場面だけ見ると、優しい兄貴的な感じだ。
「藤沢、あっちに小田がいない」
櫻井の小声にハッとする。いつも前面にいる小田の姿が無い。
注意深く見ると、後ろの席に机に突っ伏している小田がいた。今までの谷先輩と逆だ。
「谷先輩、ですか?」
櫻井が声を掛けた。急すぎるから僕の心臓がドキッと飛び出そうになった。
谷先輩は櫻井にチラリと目を向けて、両腕から花子さんと標本お化けを降ろした。
花子さんたちは僕たちを気にしながらもトコトコと奥の方に行ってしまう。
僕たちの目の前には谷先輩だけになる。
まっすぐにこちらに向くスラリとした長身。
僕よりも背は高そう。少し明るめの茶髪に重めの前髪。細い一重の瞳が冷たく光って見えるのは気のせいだろうか。
谷先輩は無表情のまま声を発する。
『オレは谷だけど。加藤君はきみたちがそちらに戻したのかな? せっかく小田君のために呼んだのに』
心臓がビクビクと恐怖を訴える声音だ。先ほどまで花子さんに向けていた優しさは欠片も感じられない。
――これ、ヤバくないか?
冷汗が垂れる。手が冷えてカタカタと震えた。
けれど、すぐに僕の震えが止まる。僕の手が温かい手に包み込まれたから。
――櫻井の手と、繋がってる!
僕の冷えた血流が手から温まる。身体の芯に熱が生まれる。
――僕は一人じゃない。櫻井がいる。
櫻井が大きく呼吸をした。
「谷先輩、小田は大丈夫ですか? 体調が悪いのですか?」
谷先輩がギロリと櫻井を見た。その視線に全身がガクブルと震える。
僕はついギュッと手に力を込めた。櫻井は自分も怖いだろうに僕の手を優しく握り返してくれる。
それが大きな安心になる。
『小田君は少し休んでもらっているよ。調子が悪いワケじゃない』
谷先輩の言い方に引っ掛かりが生まれる。僕の頭にカッと血が上る。
「休んでもらってるって、どういうことだよ! 小田の意志で寝てるんじゃないのか⁉ あんたが強制的に寝かせてるってことかよ!」
櫻井と繋がった手が汗ばむ。
やってしまった。
つい、縋るように櫻井の手を強く握った。櫻井は変わらずに優しく僕を包んでいる。
恐怖なのか緊張なのか心臓がドクドクと走っている。
そんな僕を冷たい一重が睨む。途端に息が苦しくなる。
――僕は、櫻井は、大丈夫だろうか。
そんな疑問が僕の頭と心を占拠した。
櫻井と何を話すわけでもなく、美術室前でただ座り込んでいた。その時間が自分たちにしっくりきて、なかなかその場から動くことが出来なかった。
――櫻井は、不思議な奴だ。
僕の席からは三つ斜め前の櫻井の後姿が目に入る。黒髪が綺麗だ。ストレートの髪が艶めいている。それに首が長い。
「はい、ショートホームルーム始めます。おはようございます」
担任の先生が話し始めて前を向いた。目線を変えてみて気が付く。櫻井ばかりを見ていた。
「加藤君ですが、もう数日休んでから学校に登校します。元気になっています。本当に安心しました」
「おお」「良かった」そんな声が湧き上がった。加藤がいないと教室の活気が足りない。皆、加藤を心待ちにしているのが伝わってくる。
小田は安堵しているだろうか。後ろを振り返りたくてウズウズした。
だけど、ふと思い出す。加藤は悩みがありそうだった。教室で僕らに見せる顔とは違う面を持っている。それを知っているのは小田だけかもしれない。
――僕は何か加藤にしたほうが良いのかな?
考えるとやっぱり黒い艶髪の後姿に目が行ってしまう。
――櫻井に相談してみるか。
そんな風に考える自分に口元が緩む。もともと僕は人に相談などしないのに。
いつの間にか僕の中で櫻井の存在が大きくなっている。
最近の昼休みは美術室で過ごすのが定番になった。今日も櫻井と弁当を広げている。
「なぁ、加藤はいつ学校来るかな?」
「多分、病院での検査とかすんじゃね? 現実では数日間行方不明だからな。身体の異変とか調べるだろ。俺はその結果が気になって仕方ない」
「うわ、櫻井らしい。宇宙飛行士が地球に戻って全身検査する、みたいな感じか」
「それそれ。ワクワクするだろ?」
櫻井の口にご飯と卵焼きが吸い込まれる。櫻井の綺麗な顔からは想像できない豪快な食べっぷりだ。
「加藤は悩みがありそうって小田も先生たちも言ってただろ? 聞いたりした方がいいと思うか?」
モグモグと咀嚼していた櫻井が飲み下してから口を開いた。
「バカだな、藤沢。加藤の問題は加藤がどうにかする。見守れば良いんだよ。あいつはまだ自分で踏ん張りたいだろ」
「ふうん。そんなもんか」
「ああ。それに加藤を支えるのは俺らじゃない」
櫻井が言いたいことが分かった。
「小田だな。あいつは唯一、加藤の弱いとこを知ってる。加藤も、皆の知らない小田を知ってる」
「だな。あいつら、現実世界でちゃんと向き合うべきなんだ」
だから早く小田が戻ると良い。互いに分かり切っているその言葉は口に出さず、弁当に意識を集中した。
「谷先輩が起きないと小田は戻れないのかな?」
「つか、谷先輩って何者だよ。どうも分からん。そもそも小田を引き込んだのは何でだ?」
それは僕も疑問に思っている。何故、小田だったのだろう。真由先輩ではなく、小田だ。
「小田が抱える問題がそれだけ闇深かったとか」
「どれだけ現実に執着があるか、とか?」
加藤があっちの教室にいた時は人形のようだった。小田とは存在の形が違っていた。
「思うんだけどさ。学校で悩んでも家で休めたり、親とかが嫌でも学校で友達がいたり、どっかしら守られてる場所ってあるだろ。加藤には心配する親がいる。その違い、とか」
小田の家庭を思うと胸が痛いが、そこをどうにかするのは僕らには無理がある。
「最近さ、小田がこっちに戻りたいって思ってくれてんじゃん。これを谷先輩に伝えて分かってもらうのが良いのかも」
「和解の方向だな。それから、俺は谷先輩が学校に留まってる理由を聞きたい、かも。ほら、花子さんはトイレで上級生の助けを待っていた、とか。何かあるかもだろ?」
櫻井は谷先輩であろう怖い奴の声を聞いていないからそんな風に思えるのだろう。あの声を思い出すと不安が生じる。大丈夫だろうか。
「なぁ、櫻井。もし谷先輩が逆上したり、話が通じなかったら?」
櫻井はモナリザの絵を見上げた。
「それでも、何もしないよりいい」
櫻井らしい答えだ。
「オッケ。それでこそ櫻井だな」
僕は逃げる方向を考えがちだけど、櫻井は前向きからブレない。そんなところが……。
ハッとする。僕は何を考えていたのだろう。
そんなところが何なのだ。そんなところが良いところだ! うん、それでいい。
「藤沢? 何考えてんだ?」
いつのまにか櫻井はモナリザから僕に視線を移していた。怪訝な顔で僕を見ている。
「いや、ええ?」
櫻井の事を考えていたとは絶対に言えない!キョロキョロと目を泳がせてしまった。挙動不審な自分が恥ずかしい。顔が火照る。
「エロいことでも考えてたか? つか、どの流れでそうなるんだ?」
エロい? もしかして僕の様子がそう見えたのだろうか。だとしたら、ものすごい勘違いだ!
「バッカ! 違うって! 何で急にエロなんだ! 僕の事を何だと思ってるんだ!」
「はいはい、青少年ですからねぇ」
あきれ顔になる櫻井と「アホが!」「エロが!」と言い合って昼休みを終えた。
櫻井といると時間が過ぎるのが早くて困る。他にも話をしたい事は沢山なのに。
あっという間に放課後だ。
「さすがに午後は眠かった。ここんとこ朝活が多いからなぁ」
「あはは! 朝活だな。お化け幽霊関係なのに朝活! 笑うしかない」
櫻井と背面黒板前にお菓子と飲み物を並べる。
「あ、忘れてた。飴の残りを花子さんにあげよう」
櫻井が飴の袋を斜めにしてガサっと中身を出した時。
まだ透明になっていない背面黒板から、白い子供の手がニュッと出て来た。
「ぎゃぁぁ!」
「うおおおお!」
さすがに驚いて僕と櫻井は机と椅子にぶつかりながら後ずさった。
「は、花子さん⁉ 心臓に悪いから、リアルに出てこないで!」
そんな僕らに構わずに白い手は飴玉を掴んで向こうに持っていく。
『いチごあジィ……、ミルクゥあジィ……』
嬉しいのであろう内容と声の怖さがミスマッチだ。
「花子さん、他にもミカンやレモンとか果物味とかがあるよ。欲しいのある?」
『ゼンぶ、ちょウだィィ~』
白い手がグワッと伸びてくる。ちょっとそれは止めてくれ!
「わわ、これは怖いって。いつもみたいにそっちを見えるようにしてよ」
何かを求めるように伸びていた手がピタリと止まり、黒板に吸い込まれていく。
「これは、ちょっと花子さんと話が必要だな。どこからでも手を伸ばしたら学校中がパニックになる」
「おお。僕らはとんでもないモノを解放してしまったかもしれん」
「ブハハ! 確かにとんでもない!」
そんな会話をしているうちに背面黒板が透明になっていく。向こうに広がる教室の真ん前にはヌイグルミ姿の花子さんがいる。
『もっト……チョうだイ』
その両腕には先ほどゲットした飴が収まっている。ヌイグルミ姿でもその瞳は黒い空洞。しっかり見ると恐怖人形だ。
「花子さん、今日買ってくるから、明日ね」
じっと見つめられると怒らせてしまったのかと不安になる。マズかっただろうか。
ゴクリと唾を飲みこんだ時、スイ~っと泳いで来た標本お化けの蛙が花子さんの飴を一つ掴んだ。そのまま持ち去ってしまう。
『あタシのォォ!』
花子さんが蛙に飛びかかろうとしたが。
黒い大きな影が花子さんと蛙お化けを抱き上げた。
『飴をもらったのか。良かったな』
低く落ち着いた声。小田の声じゃない。
そこにいたのは、僕たちと同じ制服を着た男子生徒。
外見はごく普通で幽霊には思えない。
――これ、谷先輩だ!
初めて見るけれど、きっと谷先輩に違いない。そう思った。
櫻井とコクリと頷き合う。
あっちの教室の谷先輩は『喧嘩はダメだよ』と花子さんに飴を返してあげている。その場面だけ見ると、優しい兄貴的な感じだ。
「藤沢、あっちに小田がいない」
櫻井の小声にハッとする。いつも前面にいる小田の姿が無い。
注意深く見ると、後ろの席に机に突っ伏している小田がいた。今までの谷先輩と逆だ。
「谷先輩、ですか?」
櫻井が声を掛けた。急すぎるから僕の心臓がドキッと飛び出そうになった。
谷先輩は櫻井にチラリと目を向けて、両腕から花子さんと標本お化けを降ろした。
花子さんたちは僕たちを気にしながらもトコトコと奥の方に行ってしまう。
僕たちの目の前には谷先輩だけになる。
まっすぐにこちらに向くスラリとした長身。
僕よりも背は高そう。少し明るめの茶髪に重めの前髪。細い一重の瞳が冷たく光って見えるのは気のせいだろうか。
谷先輩は無表情のまま声を発する。
『オレは谷だけど。加藤君はきみたちがそちらに戻したのかな? せっかく小田君のために呼んだのに』
心臓がビクビクと恐怖を訴える声音だ。先ほどまで花子さんに向けていた優しさは欠片も感じられない。
――これ、ヤバくないか?
冷汗が垂れる。手が冷えてカタカタと震えた。
けれど、すぐに僕の震えが止まる。僕の手が温かい手に包み込まれたから。
――櫻井の手と、繋がってる!
僕の冷えた血流が手から温まる。身体の芯に熱が生まれる。
――僕は一人じゃない。櫻井がいる。
櫻井が大きく呼吸をした。
「谷先輩、小田は大丈夫ですか? 体調が悪いのですか?」
谷先輩がギロリと櫻井を見た。その視線に全身がガクブルと震える。
僕はついギュッと手に力を込めた。櫻井は自分も怖いだろうに僕の手を優しく握り返してくれる。
それが大きな安心になる。
『小田君は少し休んでもらっているよ。調子が悪いワケじゃない』
谷先輩の言い方に引っ掛かりが生まれる。僕の頭にカッと血が上る。
「休んでもらってるって、どういうことだよ! 小田の意志で寝てるんじゃないのか⁉ あんたが強制的に寝かせてるってことかよ!」
櫻井と繋がった手が汗ばむ。
やってしまった。
つい、縋るように櫻井の手を強く握った。櫻井は変わらずに優しく僕を包んでいる。
恐怖なのか緊張なのか心臓がドクドクと走っている。
そんな僕を冷たい一重が睨む。途端に息が苦しくなる。
――僕は、櫻井は、大丈夫だろうか。
そんな疑問が僕の頭と心を占拠した。


