背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 美術室で櫻井とノートを広げて向き合う。
 女子トイレに入る作戦は慎重に考えないと、僕たちの今後の高校生活に影響する。それに覗きの性犯罪者になってしまう可能性もある。
「朝ならって思ってもさ、それでも見つかったらヤバすぎる」
「うん。絶対に見られないトイレとか無いのかな。使われてない女子トイレとか」
「無いな。ちょっとでも人目に付けば噂になる。それに一階の職員室付近や昇降口、体育館とか防犯カメラがあるとこもマズイ」
「ああ~、難しい!」
 頭をガシガシ掻いてモナリザの絵を見上げた。
「花子さんさ、寂しいから呼んで欲しいのかな? それとも、助けに来たよって迎えが欲しいのかな」
「助けに来たってのは嘘があるだろ。もう、助からなかったわけだし」
 櫻井は「そうか」と言い、しばらく黙ってしまった。
 櫻井の事だ。きっと嘘でも助けに来た、と言ってあげたいのだろう。
 小田の事も加藤の事も、必死になって助けようとしているし。理論的に考えるし冷静に見えるけれど櫻井は情が厚い。
 良い奴だよな、としみじみ思う。
 ふと花子さんがした返事がかくれんぼの返事に聞こえたのを思い出す。
「見つけた、で良いんじゃね? 迎えに来たってのも変だし。もし上級生の助けを待って隠れていたとしたら、見つけたよ、が一番救われるかも、な。言ってあげようぜ」
 櫻井が僕をじっと見つめる。櫻井の瞳は射るように強いからドキッとする。
「藤沢って時々、すごいよな。標本の奴らに水をあげたのもナイスだったし。じゃ、この特別教室棟の二階トイレで決行だ」
「何で二階?」
「考えたけど、特別教室に早朝来る奴はいない。実際、俺ら誰にも会わずに色々出来てるし。慣れてる場所が一番だ」
 美術室は特別教室棟の二階。ここのトイレは行き慣れている。もちろん男子トイレの方だが。
「ま、そうだな。ちなみに、万が一の場合は女性の悲鳴が聞こえたことにするか? 助けに入った僕たち、悪くない!」
 櫻井があきれ顔になる。
「ブハハ! 藤沢は悪知恵働くよな。悲鳴じゃ嘘くさいし、物音がしたってことにする?」
「おお! 良いじゃん。そしたら仕方なく女子トイレ覗いたってことに出来るな」
「言い方! 覗いたってオカシイって」
 そりゃそうだ、と笑い飛ばした。
 ついでにノートに花子さんと谷先輩を書き入れた。
 谷先輩はいつ起きるのだろう。加藤がこっちに戻ったことは把握しているのだろうか。
 考えることが多くて気が重くなる。
「藤沢、明日決行でいい?」
「おう! 時間置いたらやるの嫌になりそう。やるなら、明日だ!」
「おし! 俺、見張りやるわ。藤沢、頑張れ」
「バッカ! 聖域に足を踏み入れる権利は櫻井に譲る。櫻井、勇者になれ」
「ふざけんな! って、あ……」
 櫻井がふと真顔になる。
「なんだ?」
「いや、花子さんはジュースとかお菓子は好きかなって」
「子どもなんだ。好きだろうな。昭和の頃だと飴とか?」
「よし! 買いだな」
「あはは。櫻井、リッチマンじゃね?」
「いやいや、最近出費が多いんです」
 櫻井が泣き真似をする。お財布事情は僕も一緒だ。
「じゃ、そんな櫻井に、僕から差し入れ」
 ガサゴソとリュックの中を探って目当ての物を取り出す。渡せていなかったカロリーメイトだ。
 それをドサリと櫻井の手に乗せた。
「おお⁉ なんで?」
 櫻井は目を丸くしてカロリーメイトと僕を交互に見る。僕は急に恥ずかしくなり、唇の内側を軽く噛んだ。
 懐かしい痛みが走る。フイっと櫻井から目線を外した。
「黙って、受け取れ」
 本当は吹奏楽部に一緒に行ってくれたお礼だし、僕のために怒ってくれた感謝でもある。でも、それを素直に言えない自分がいる。結果としてカロリーメイトを押し付けるような形になってしまっている。
 櫻井がどんな顔して受け取るのか楽しみにしていたのに。渡すのもワクワクしていたのに。
 ――僕は全然、カッコよくない。
 上手くできない自分が嫌になる。
「ブッハ! ヤバ! コレ、俺用だよな! 全部チーズだし! 嬉しすぎて倒れそう! 藤沢、サンキュ」
 想像以上の歓喜の声に僕の心がぱっと明るくなる。嬉しくて櫻井を見ようとしたけれど。
 僕は身動きが取れなかった。
「藤沢、ありがとう。お前、マジ最高だ」
 耳元に低い声が響く。僕は後ろから櫻井に包み込まれている。
 ギュッと抱擁が強くなり、僕の心臓がキュンと反応した。ドクドクと血流がたぎる。
 体温が一度は高くなった気がする。すぐに僕の身体は解放された。
 ――ただ、じゃれただけだ! こんなの、スキンシップだって!
 そう思いながら顔の熱が引いてくれない。
「あ~、もったいないから食えない!」
 隣にいる櫻井は高揚した笑みを浮かべている。ニシシっと照れくさそうな櫻井に胸がキュンキュンする。
 それなのに。
「……デブになってしまえ」
 僕の口から出たのは思ってもいない言葉だった。
 そうじゃない! こんなこと思っていない! 喜んでくれた櫻井を怒らせたかもしれない。
 焦ってフォローをしようとしたら。
「デブでも構わん。どんな俺だって藤沢は一緒にいてくれるだろ?」
 想定外に優しい声に涙がこみあげる。櫻井は頬を染めて目を細くしている。
 まるで『全部お見通しだ』と言われている気がした。
「ん」
 この溢れる気持ちを口にしたら涙が落ちてしまいそうで上を向いた。
 ――櫻井で良かった。一緒にいるのが、櫻井で良かった。
 すっかり暗くなった空が僕の顔を隠してくれる。日が短くなったことに小さな感謝をした。

 翌朝の七時半。モナリザや標本お化けの時と同じ時間。
 僕と櫻井は女子トイレ前の廊下で心臓をバクバク鳴らしている。
「いいか、行くぞ」
「おう。行け、藤沢」
「ざけんな! 一緒に行くんだよ」
 あまりここで騒いでもいられない。ここに来る間、誰にも会わなかった。学校内は静かだ。今の内しかない。
 櫻井の腕をグイっと掴んだ。逃げられないようにするためだ。一気に女子トイレに侵入する。
 ――世界中の女性の皆さん、すみません!
 心の中で大絶叫の謝罪をして、並んでいる個室の奥から二個目に到達する。
 とにかく早くしなくては!
「藤沢、腕離せ。ここまで来たら逃げないから。それよか、誰もいないか確認するぞ」
 櫻井は肝の据わった顔つきになっている。これなら大丈夫だ。
「オケ。じゃ、僕は奥から。櫻井は入り口側」
 鍵は全て青マークになっているけれど、念のため全てドアを開けて確認した。全室空きであることを確認し、櫻井と頷き合う。
 奥から二個目のドアの前で一呼吸して、トントンとノックをした。櫻井と息を合わせて声にする。
「はーなこさん」
 トイレの中に僕たちの声が行き渡る。
『……はぁ~アァ、いィィ……』
 地の奥から聞こえて来たかのような少女の声。高く幼い声なのに、腹の底に重りを付けられたように恐怖を感じる。花子さんの存在をこちらの世界に感じて歯がガチガチ鳴る。
「やべ、これは、こえぇ」
 櫻井の声が震える。僕はとても声に出せず、コクコクと頷いた。櫻井は深呼吸をして、キュッと前を向いた。
「はーなこさん、見ぃつけた」
 櫻井は震える声で語り掛けた。眉間にしわを寄せている。
 その顔を見たら、僕も踏ん張ろうと思えた。腹に力を入れる。
「花子さん、もう空襲は終わったんだ。安全なんだ。出てきて、大丈夫だよ」
 少しの沈黙。
『……出テモ、だイジョうブ?』
 今度の声は幼い子供そのものだ。不安気に揺れている。
「うん。大丈夫だ。ほら、飴もあるよ」
『飴、ダイスキ。食べタイ……』
 ギギギィと扉が薄く開いた。
 僕も櫻井も触れていないのに。でも、不思議と怖くはない。
 中から白い小さな手が伸びて来た。外を探るようにしている。
 櫻井はポケットから苺ミルク飴とミルク飴を出して、小さな手に乗せた。
『……ずっと、我慢シテタ、飴ダ。嬉しィ。ありガとウ……』
 手がスッと消えていく。ドアがパタンと閉まった。
 急にトイレ内の空気が軽くなる。
「終わった、か?」
「おお。じゃ、急げ! すぐに退散だ! 僕たちの名誉のために」
 櫻井と共に細心の注意を払って周囲の確認をして外に出た。幸い誰も周囲には居なかった。
 ほっと胸を撫でおろした時。
 タタタっと軽い足音が僕の隣を駆け抜けた。
 ふわりと苺ミルクの香りが漂う。
「藤沢、これって」
「おう。トイレから解放されたかも、な」
 苦しい思いをした場所に留まるのは可哀そうだ。
 それに、呼んでもらえない、と寂しい思いをするよりも、花子さん自らが学校内を動いたら楽しめるだろう。
「今日の放課後、小田に報告だな。俺らの武勇伝」
「あはは! それな! 僕らも勇者に昇格だ」
 緊張から解放されて美術室前に二人でへたり込んだ。肩を寄せ合い、しばらく静かな廊下を眺めた。
「学校って、僕らだけの場所じゃないんだな」
 本校舎から聞こえてくる朝の騒めきと、静まり返っている廊下が正反対だ。夢の中のような非現実感に陥る。
 触れ合う肩から櫻井の呼吸が伝わる。

 世界に櫻井と二人きりのような錯覚が生まれる。
 今が、とても貴重な一瞬に感じた。