背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 一週間前。
 この頃、まだ小田は普通に通学していた。

 いつも小田は自分の席で静かに本を読んでいる。小田と言えば読書と言えるほど、その姿は自然なものになっていた。
 「藤沢、藤沢祐樹(ふじさわ ゆうき)! おいってば」
 クラスメイトに名を呼ばれて僕は振り返った。
 「あ、加藤? なに?」
 「明日の日直代わってくれ。明日は部活の朝練があるんだ。明後日の藤沢の当番は俺がやるからさ。茶色の髪がチャーミングな藤沢君! 頼む~」
 サッカー部に入っている加藤が僕の前でお願いポーズをキメている。
 加藤はお願い事があるときは「猫のような瞳の藤沢君」「茶髪が綺麗な藤沢君」などとご機嫌を取るような冗談を言う。本当は色素が薄い外見の事は言われたくないけれど、加藤ならば仕方がないと思えてしまう。
 夏の地区戦で負けた後、加藤はグラウンドで泣いていた。その試合が三年生最後の試合となったから。加藤は泣きながら先輩に謝っていた。負けたことは加藤のせいではないだろうに。だけど、そんな姿が輝いて見えた。
 そんな加藤を知っているから、教室でのふざけた姿を受け入れてしまう自分がいる。
 「うん。いいけど。この前みたいに明後日もやって、とか無しだぞ」
 「分かってるって~! ほんと助かる! 藤沢と友人で良かったぁ!」
 「おう。部活頑張れよ。応援してる」
 「サンキュ!」
 加藤は急ぎ足で教室を出て行く。きっと部室に一直線だ。青春だな、と笑いが込み上げる。

 加藤を目で追うと、いつも本に目を向けている小田も加藤の背を見つめていた。
 小田が誰かを見ていることが珍しくて声を掛けたくなった。
 「小田、加藤って賑やかだよな」
 声を掛けると黒髪の頭が大きく揺れる。
 「あ、えっと、違うんだ。あの、見てたんじゃなくて」
 慌てたように頬を赤くする小田が可愛く思えてからかいたくなった。
 「あはは。そんな動揺するなって。もしかして憧れとか?」
 僕の言葉に小田の顔面が真っ赤に染まる。それを見て愕然とする。これは、ただの憧れなのか? それとも、もしかして。
 「は? 好き、とか?」
 思わず聞いてしまった。小田は泣きそうな顔になり、教室から走って出て行った。
 「え? ええ?」
 意味が分からず首を傾げると、ガタンと椅子の音がして櫻井が近づいてきた。
 教室内を見ると、もう櫻井しか残っていない。
 僕より身長が高い櫻井の不機嫌な態度に、心臓がドキドキと音をたてる。切れ長の垂れ目が僕を睨んだ。
 「藤沢、今のはサイテーだろ」
 は? 何なのだ! と思ったけれど、小田の泣きそうな顔を思い出すと「サイテー」の言葉がズキリと胸に突き刺さる。責めるような態度の櫻井がムカつくけど、そう言われても仕方がないとも思う。
 「……お前に、言われる筋合いねーよ」
 自分の口から突いて出たのは悔し紛れの一言だった。
 「あっそ。けどな、小田の為にも言いふらすなよ」
 そんなの、言われなくても分かっている。冷たい口調の櫻井からは軽蔑の雰囲気が漂っている。僕は右手をギュッと握りしめた。
 櫻井は無言で教室から立ち去った。

 その翌日、小田は学校を休んだ。
 櫻井が僕を睨んでいるような気がして嫌だった。櫻井のほうを見たくなかった。
 僕のせいだろうか。
 そんな不安が生まれた。
 
 小田が学校を休んで二日目。
 それは偶然の瞬間だった。
 授業中、皆が前を向いている時。うっかりシャープペンを落としてしまった。僕は拾うために後ろを見た。その瞬間、僕の身体が固まった。僕はペンを拾うのを忘れて、背面黒板の向こうに広がる光景にポカンと口を開けた。
 「はい」
 動かない僕を不思議に思ったのか、後ろの席の三倉がシャーペンを拾ってくれた。「あり、がと」と礼を言えたのは自分でも驚きだった。僕の意識は背面黒板に釘付けだったから。
 「藤沢? どうしたか?」
 教壇から先生の声が飛んだ。僕は慌てて前を向いた。
 「す、すみません」
 「調子悪いなら保健室行くか?」
 そう言われて、慌てて首を横に振った。僕の額には玉のような汗が滲んでいる。大きく息を吐くと、胸の鼓動が速くなっていた事に気がつく。今見たことが非現実すぎて受け止めきれない。

 ――背面黒板の奥には、教室が続いていた。

 まるで背面黒板がガラス窓のようだった。
 そこには席について授業を受けている小田がいた。先生の話を聞いていた。ちゃんとノートもとって。普通に高校生活を送っているかのようだった。見間違いでは無い。
 もう一度振り返って確かめたい気持ちになる。だけど授業中にそうしたら目立つだろう。何かきっかけがあればいいが。しかしそのチャンスはなく授業終了のチャイムが鳴った。その瞬間に僕は後ろを見た。しかし。
 そこにはいつもの背面黒板があるだけだった。

 休憩時間。背面黒板に触れてみた。特に変わりない、いつもの黒板。チョークで字を書いてみても、特別な変化は感じない。夢でも見たのだろうか。コンコンと叩いて見たけれど、もちろん何の返事も無い。いや、叩いておいてだが、これで向こうから返事が来たら腰を抜かしてしまう。
 これは、ただの黒板のはず。そう、今朝まではそうだった。だが、今では得体のしれない存在になっている。
 急に背筋がゾワリとした。背面黒板から少し離れる。
 僕はクラス内を見渡した。いつもの雑談にいつもの笑顔。
 普通だ。普通なのだが。

 いつもの教室が、急に怖くなった。
 この向こうには、もう一つ教室があったはず。小田がいたはず。

 何度もあの光景を思い返して、バクバク鳴る心臓を抱えて僕は席についた。もう後ろを見てはいけない。そんな気がしていた。
 耳鳴りがするほどの混乱を初めて体験した。
 とにかく気持ちを落ち着けようと、前だけを見てその日が終わった。