背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 ただの黒板に戻った背面黒板を指で撫でる。トン、と肩を叩かれて振り返った。
「藤沢、美術室行く?」
「ああ。それに、僕も覚悟決めた。薄々分かってたけど。今、先輩に繋がれるのは、僕しかいない。怖い奴の事は、僕が吹奏楽の先輩に聞く」
「でも、許せないやつらに力借りるのか?」
「うん。許せないけど、吹奏楽の先輩の方から近づいてきてるし。小田のためでもある。怖い奴が寝てるって言ってたから、今がチャンスだろ。あとは僕の気持ち次第だ」
「そっか。無理するなよ。吹奏楽の人と会うときは俺が付いてく。何かの時には、俺が間に入る」
 まるで櫻井に「俺が守る」と言われている様で照れくさい。身体の底がポカポカする。頑張る気力が湧く。うん、きっと大丈夫だ。
「櫻井に僕の黒歴史を話してみたら、そんなに気持ちが落ちなかったんだ。きっと僕だって成長してる。大丈夫だと思う。櫻井がいれば」
「そっか。藤沢、カッコいいじゃん」
 そんな訳がないだろう。去年辞めた部活のトラブルをまだ引きずっているのだ。その何処がカッコいいのだ。櫻井の思考は時々理解できない。首を傾げて眉をひそめた。
「櫻井は、ちょい変わってる」
「は? 失礼な。ちょっと褒めたらこの態度か、コノヤロ」
 ヘッドロックをかけようとする櫻井から逃げながら美術室に向かった。まるで競争しているようで途中から笑いが止まらなかった。

 今日は一時間ほどしか絵が描けないだろう。櫻井にとって楽しみである描く時間が十分とれなくて悔しい。
 美術室でいつものように姿勢正しく座る櫻井を眺めた。絵に向かうときの櫻井は自分の世界に没頭している。
 僕は邪魔しないように、今日分かった事をノートに書き込む。『あっちの教室』に標本お化けたちを追記する。それから、加藤のとこに、戻ってくる、と赤字で書いた。
 しかし、加藤はどうやって戻ってくるのだろう。以前に櫻井が自動販売機のように小田が出てこないかな、と言っていた。さすがにソレは無いと思うが。ガコンと加藤が登場する様を思い浮かべて口元が緩んだ。
「スケベなことでも考えてんのか。むっつり笑いして」
 絵に集中していると思ったのに櫻井は僕に視線を飛ばしていた。思わず頬が熱くなる。
「バッカ、絵を描けよ。部活サボんな」
「ブッハ! 藤沢は監視役か。つか、そろそろ片付けて終わる時間だっての」
 スマホの時間を見れば十七時半。今日はノートに書くことが多すぎて僕の方が集中していたようだ。

「よし、帰ろう」
 片づけをして美術室を出たら、やはり階段に先輩たちがいた。吹奏楽部の部長と副部長が並んでいる。
 この人たちに向き合うことに心の何かがブレーキをかける。やはり苦手意識は変わらない。
「藤沢君、嫌、かもしれないけど、定期公演のチケット。友達の分もあるから、良ければ来てもらえないかな」
 僕の事を強い口調で叱責ばかりしていた先輩とは思えないほど弱気な口調。一体この人に何があったのだろう。
 差し出されたチケットを受け取れずにいると、櫻井がスッとそれを受け取った。
「アリガトウゴザイマス」
 櫻井の全く感情のこもらない言葉に僕の頬が緩んだ。
 ――そうだ。僕には櫻井がいる。
 一呼吸して腹に力を入れた。
「先輩、聞きたいことがあって。去年、卒業手前で亡くなった先輩の事って知ってますか?」
「はい?」
「え?」
 先輩たちが唖然とした顔になる。そりゃそうだろう。急すぎた。焦ってしまい、自分の言いたい事だけが口から出てしまった。
「あ、藤沢が言いたいのは、俺らの知り合いで亡くなった先輩に関わってた人がいて。俺ら亡くなった先輩の事全く知らないから、先輩たちなら知ってるかなって」
 櫻井のフォローに胸を撫でおろす。唐突過ぎた自分のアホさが恥ずかしい。
「フルートの、真由の彼氏だったよ。去年、真由はしばらく休んだし、かなりショックだったみたい。今は普通に戻ってるけどね」
 亡くなった先輩に彼女がいた。しかも吹奏楽部の人。新たな情報に櫻井と顔を見合わせる。
「真由に聞いてみる? 音楽室に来る?」
 先輩たちの提案に迷いが生まれる。行きたくないけど、今しか聞くチャンスはない。それに僕は背を向けた時のままじゃない。
吹奏楽部は十八時半まで部活をしている。今行けば間に合う。
「櫻井、今日は予定ある?」
「菓子買うくらい」
 いつものドラックストアの事だ。クスッと笑いを返した。
「じゃ、ちょっと吹奏楽部寄って行かね?」
「いいよ。けど、真由って先輩はいいのか?」
 その通りだ。急に亡くなった彼氏の事を聞きたいと言われても嫌かもしれない。
「真由なら、いいって言ってくれるよ。練習終わるまで演奏聴いてかない?」
 優しい顔をする先輩に腹の底がシクシクする。
「……なんで、ですか? 今更……」
 我慢できずに心の声が出ていた。先輩は直ぐに返事をせず、大きく呼吸をした。その手が震えている。
「藤沢君が辞めてから、ずっと後悔ばかりで。あの頃、部長を引き継いだばかりで、どうにか演奏を良くしようって躍起になっていたの。気が付いたら、藤沢君に当たってしまっていて、だから……」
 ドンっと大きな音がした。
 僕の心臓が飛び出るかと思った。
 櫻井が壁を殴った音だ。
「都合よすぎだろ。あんたらが後悔した以上に、藤沢はずっと苦しい思いをしたんだ! 今更、和解しようとすんな! それなら、もっと早くに藤沢んとこ誠意もって謝りに来いよ! 藤沢の夢も希望も奪って、イイ子面すんじゃねぇ!」
 廊下に櫻井の声が響いた。櫻井はいつも冷静で声を荒げることが無い。その櫻井の怒りに皮膚がビリビリした。
「ごめ、ごめんなさい。そんな、イイ子面なんて、そんなじゃ、無くて……」
 先輩たちは二人とも泣いた。そりゃ、僕でさえ心臓が縮み上がったのだ。後ろめたさのある先輩たちは涙も出てしまうだろう。廊下にはすすり泣く声。
 しばらく沈黙が流れたが、それを破ったのは僕だ。
「えっと、音楽室に行ってもいいですか?」
「はぁ⁉ 藤沢、俺の言った事、聞いてた?」
 櫻井が全身で驚きを示す。そんな彼に微笑みを向ける。
 僕が冷静になれるのは櫻井が怒ってくれたおかげだ。僕の心の奥にある悲鳴を櫻井がぶつけてくれた。それだけで心が満たされている。まるで自分で怒りを発散したかのようにスッキリしている。
「櫻井、お前、カッコよすぎ。櫻井がいてくれてマジ良かった。先輩、僕が言いたいことは櫻井が言ってくれました。先輩が抱いている後悔は、自分で解決した方が良いです。僕が許しますって言ったら一番楽な解決ですけど。それ以外の解決を見つけてください。でも、先輩たちが作った音楽は素敵だと思います。定期公演もコンクールも、応援しています」
 先輩たちは泣きながら、僕たちを音楽室に誘導した。僕らが入ると部員の皆が注目して、拍手が起きた。すごく恥ずかしい。隣を見れば、櫻井はバツが悪そうにしていた。
「櫻井、巻き込んでゴメン」
 小さく耳打ちすると、櫻井は顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。
 櫻井は女子が苦手だ。吹奏楽は九割が女子だから居心地が悪いのだろう。
 吹奏楽の演奏が始まる。G線上のアリアだ。
 ゆったりとした曲調が深い感銘を引き起こす曲。定期演奏会前で演奏の完成度が高い。
 櫻井も聴き入っている。
 櫻井には助けられた。いや、いつも助けてもらってばかりいる。それに冷静な櫻井が怒鳴るなんて。しかも相手は女子で先輩なのに。僕のために。思い出すとジワジワ心が熱くなる。
 G線上のアリアが感動を増強する。
 気を抜くと目から熱いものが零れそうで、腹に力を入れた。
 櫻井に山ほどのカロリーメイトをあげようと思った。

 部活終わりまで音楽室にいると、同級生や先輩が「元気?」「演奏、どうだった?」と声を掛けてくる。それらに相槌程度の返事をして待っていると、部長と真由先輩が傍に来た。
「藤沢君、さっきの真由に言ってあるから、話してきたらいいよ。真由、片付けいいから」
「うん、じゃ、廊下にいるよ。藤沢君、廊下でいいかな?」
 真由先輩がボブの髪を揺らす。
「はい。櫻井も一緒でいいですか?」
「うん。いいよ」
 真由先輩は大人びている。部長や副部長とは違うタイプだ。
 音楽室から少し離れた廊下で立ち止まる。
「藤沢君、ありがとう。こないだね、もう卒部だねって話になって。皆、心残りが藤沢君だったんだ。で、あたしは人と死に別れることを知ってるから、それなら後悔残さずにって言ってみたの。今日は来てくれて嬉しい」
 なぜ部活の皆が心残りなのだろう。僕は部長と副部長から責められていたのに。あの勢いを止められなかったのは誰のせいでもない。
「藤沢、深く考えるな。今は真由先輩の恋人について聞くんだろ」
「ああ、そうだ。真由先輩。急にこんな話ですみません。去年亡くなった先輩ってどんな人でしたか?」
 亡くなった人の事を無関係の僕が聞くなんて変なのは分かっている。真由先輩に、どんな知り合いなの? と聞かれたら返答に詰まってしまう。ドキドキして真由先輩の顔色をうかがった。
 けれど真由先輩は僕たちを問い詰めず、優しく微笑んだ。
「谷先輩は前向きな人だったよ。陸上部で勉強が出来て。何事も頑張れば良いことあるって努力を惜しまない人でね。白い歯を見せて笑うところが、素敵だったの。目標にしていた私大の心理学部に合格して。全てが輝いていたのに。急にこの世から居なくなっちゃった。居眠り運転の車に命を奪われて。今でも谷先輩を思うと涙が出るの」
 真由先輩の瞳に涙が滲んでいる。
「谷先輩は悔しかっただろうな。何か思い残したことは無いんでしょうか?」
 櫻井の言葉に真由先輩は頷いた。
「思い残す事だらけでしょうね。心理学は大学院までいって公認心理士とるんだって意気込んでいたしね。これからの自分のことを楽しく話していたわ。それなのに、ね」
「いや、真由先輩が谷先輩に思い残したことは無いですか?」
「あたし? あたしは、無いかなぁ。きっと谷先輩なら次の人生に向けて天国の門に全力ダッシュしそうだし。ただ、あたしが悲しいだけ。大切な人を失う悲しさが消えてくれないだけ」
 真由先輩の瞳は窓の外を映している。運動場では陸上部が片付けを行っている。
 真由先輩は愛おしそうに運動場を眺めている。
 もし、谷先輩が生きていたら。そう思い描いているのだろう。
 僕の胸がキュッと締まる。鼻の奥がツンとする。
「真由先輩は、強い人です。悲しさを大切に抱えている。忘れることも思いを捨てることもしないで、逃げずにいます。すごい、です」
 自分で何を言っているのか分からなかった。櫻井のように理路整然と話すことができなくてもどかしい。
「そうかな。今日、音楽室に来てくれた藤沢君のが、すごいよ。皆、嬉しかったはずだよ」
「……コンクール、応援しています。定期演奏会も、頑張ってください」
 心からのエールを送った。
 真由先輩が前を向けますように。
 真由先輩は「ありがとう」と言い残して音楽室に戻った。