背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 翌朝。
 良い天気で良かった。朝は十月後半らしく涼しい。
 窓を開けて室内の空気を入れ替えると、流れる風に鳥肌が立つ。
「藤沢。逃げんなよ」
 半目で睨む櫻井を同じく半目で睨み返す。
「逃げてない。空気の入れ替えは大切だろう」
 僕たちは標本お化けの願いを叶えるために、モナリザの時と同じように早朝登校をしている。
 そして、今いる場所は化学準備室。準備室の鍵付き棚には標本お化けである奴らの本体がいる。
 ホルマリンに漬けられた密閉されたガラス瓶たち。
 朝から見るにはグロすぎて距離を置いていたのに、櫻井には僕の行動がお見通しだった。
「せっかくスケッチ目的にここの鍵を借りたんだ。覚悟決めろ」
「分かってるよ」
 外の空気を目いっぱい肺に取り入れて、標本棚に向き合う。
「じゃ、開けるぞ」
「おう」
 櫻井が棚を開けるとホルマリン独特の匂いが鼻に付く。その匂いに顔をしかめる。
 けれど、小田だって頑張ったのだ。小田が作ってくれた縁を逃してはいけない。
 こいつらの『もう一度外の景色が見たい。外を感じたい』その願いを叶えてあげなくては。
「考えてみれば、ホルマリンに漬けられて、何十年も光を避けられてきたのかも。野生で生きて来たこいつらにとっては、今や憧れの外かもな」
 ホルマリンのガラス瓶を丁寧に持ち、窓の外を見せる。本体が揺れて損傷しないように細心の注意を払った。
 カエルと魚を数匹、蛇が一匹。
 キラキラと朝日は綺麗だし、秋の空気は気持ちがいい。ガラス瓶の中だけど、それを感じてもらえたらいい。
 ついでに、水道の水を流して、ガラスケースに水をかけてみた。もともと水辺の生き物だ。水の流れを感じたら嬉しいかもしれない。
 浅はかだけど、少しでも自然を感じて欲しいから。
「ああ、凝視するにはグロすぎる。ごめんなさい」
「藤沢、口にするなよ。俺だって直視しないようにしてんだ」
「小田があっちの世界に行ってから、有り得ない体験だらけだ。まさかのホルマリンの瓶を日光浴させるとは」
「俺も。けどさ、小田が引っかかる事を言ってたよな」
「ん? 何?」
 櫻井の言葉に首を傾げる。
「あれ? 気になったの俺だけ? ま、いいや。こいつらはもともと生物で、幽霊とお化けの両方の性質を持つって言ってた。で、幽霊の方が、力があるっぽい言いぶりだった。怖い奴は単純な幽霊ってことじゃね?」
「おお。種類が違うって事か。違いについて小田に聞いてみたいよな」
「だな。俺が心配なのは加藤。あいつの精神、やばいんじゃね? 小田よりも加藤は早くこっちに戻さないとダメな気がする」
「櫻井の直感か。そうだな。加藤を戻すのが最優先。並行して亡くなった先輩の事を調べる。最終ゴールは小田をこっちに戻すこと。これが僕らの目標だ」
「目標って言われるとウケる。学校行事みたいじゃね?」
「まぁな。でも、いつまでもこのままじゃ、ダメだ。それは分かる」
 今は何故か怖い奴が静かにしている。
 けれど、あいつは向こうの教室を繋がらなくしてしまう力がある。もし向こうの教室が閉じられたら、僕たちにはどうにも出来ない。
 そうなったら小田と加藤は戻って来られないだろう。これは僕の直感だ。考えると背筋に寒気が走る。
 僕は嫌な考えを振り払うようにホルマリンの瓶に集中した。
「よし! この白蛇様で終了だ」
「あはは。白蛇様って言われると神々しいな」
 櫻井がクスッといたずらっぽく笑う。
「藤沢、棚を閉める前に、こちらの神様たちに祈りを捧げるぞ」
「おう!」
 二人で棚の前で姿勢を正した。櫻井の動きに会わせ拍手を二回。パンパンと小気味いい音がする。
「どうか、俺らに力を貸してください。クラスメイトを返してください」
 先ほどまで冗談じみていたのに、櫻井の真剣な声音を聞くと本気で願掛けをしたくなる。僕はそっと瞳を閉じた。
「僕たちを、助けてください」
 化け物相手だけど神社に祈るような気持ちになる。
 一瞬の静寂。きっと櫻井も願いに夢中なのだろう。
 瞳を開けてホルマリン漬けを見れば、不思議と少し輝いていた。
「綺麗、だな」
「ああ。なんだ、これ」
 グロくて気持ち悪いはずなのに不思議な高揚感が満ちてくる。櫻井と一緒に一礼をして、棚の扉を閉めた。
「じゃ、小さな神様たち、また放課後に」
 扉の外から声を掛けて化学室を後にする。朝から良い事をした気分だ。

 放課後。
 背面黒板の向こうに広がる光景に苦笑いが漏れた。
「これは、また、すごいな」
 櫻井も手で口元を隠している。きっと僕と同じ気持ちだろう。
 向こうの教室では、カエルと魚たちが水族館の水槽にいるかのように、空中を泳ぎまくっている。
 小田は彼らにぶつからないように低い位置に頭を隠して座っている。
 僕たちと目が合うと、小田は困ったような嬉しそうな笑いを浮かべた。
『藤沢くんと櫻井くんは、すごいね。この子たちが大喜びだよ。水に触れて、こっちでも泳げるようになったって。最高だって叫んでるんだ。ほら、蛇さんも高いところを泳いでるよ』
 そう言えば昨日見た時には、彼らはぴちぴち跳ねているだけだった。
「成功したみたいで良かった。ただ、ぶつかると怖いから、もちょっと落ち着けって言ってやってよ」
 会話中もこっちを気にせず自由に泳ぎ回るお化けに少し呆れる。
『あはは。えっと、何度か言ってるんだけどね』
「ま、いんじゃね? それより、小田。こいつらから何か協力は得られそうか?」
『うん。モナリザさんとベートーベンさん、あと、この子たちから、一人ならそっちの世界に返せるって。今は、その、先輩が力の使いすぎで眠ってるから、今がチャンスかも』
 小田の言葉に一気にシリアスな雰囲気になる。それに怖い奴の事を『先輩』と言った。やはり予想は当たっているのだ。
「一人だけ、か」
 小田が困ったように微笑む。
『加藤君を、戻してもらおうと思うんだ』
 確かにそれが良いと思うけれど、すぐに頷けない。残った小田が無事でいられるか分からないから。
「小田だって戻りたいんじゃないのか?」
 小田の気持ちを知りたい。そんな僕の目の前をスイ~っとグロテスクな魚が泳いで通る。続いてカエルも。
「ブッハ!」
 やっぱり櫻井が笑った。少しは堪えろ! 
「あああ! もう! 今、真剣な話してんだ! チョロチョロするな」
 つい声を荒げてしまった。すると、スイスイと白蛇が皆を回収していく。
「おお、白蛇様。さすが」
 櫻井が手を合わせて拝む格好をした。回収された魚や蛙はショボンとしている。さすがに胸が痛くなる。
「いや、ごめん。嬉しいのは分かるんだけど、ちょっと、目の前は、控えて欲しくて」
 小さなお化けたちはその場でピョコピョコ跳ねてから、奥の方に泳いで行った。
 白蛇はその場に残り、トグロを巻いて鎮座する。まるで本物の神様みたいだ。
『藤沢君、こっちの子たちが、ごめんなさいって』
 威圧するつもりはなかったのだけど。こんな時に言葉が直ぐに出てしまう自分が嫌になる。
「あ、いや、そんな本気で怒ったんじゃなくて……」
「藤沢、小さな生き物は可愛がらなくちゃダメだぞぉ」
 櫻井がガッチリ肩を組んでくる。からかうような口調をしているが、肩にまわる手から優しくトントンと刺激が伝わってくる。
 こんくらい大丈夫、と声を掛けられているようだ。その櫻井らしいフォローに心が落ち着く。
『あの、藤沢君たちがこの子たちを神様って言ってくれたのも嬉しかったみたいだよ。普段声を掛けられることも無い自分たちが拝んでもらったって』
 白蛇がゆっくりと頭を下げた。朝のは半分冗談だったのだけど。櫻井と顔を見合わせてから、僕たちも白蛇にお辞儀をした。
「なぁ、小田。先に加藤から戻ってもらっていいのか? お前が一人残って大丈夫か?」
 櫻井の言葉にゴクリと唾を飲む。
『うん。もともとは、僕が、この世界から消えたいって願ったからいけないんだ。加藤君は巻き込まれただけ。だから、とにかく早く戻してあげたいんだ』
「小田……」
 伝えるべき言葉が浮かばない。
「じゃ、加藤を先に戻してくれ。その後で、小田が戻る。これは絶対だ。小田、こっちに戻る意思はあるんだよな?」
 こんな状況でも頭が回っている櫻井を尊敬する。僕は心が揺れてしまってダメだ。
『これまでは、戻りたくなかったんだ。もう、こっちで過ごしたいって思ってた。でも、今は違う。戻りたい。僕も、そっちで、櫻井くんと藤沢くんと一緒に、笑ってみたい。もう一度、そっちで……』
 小田が下を向いて肩を震わす。
「戻って来い。小田、諦めるな」
「僕らは小田に戻って欲しいんだ! 一緒に楽しくやろう! 小田の話しを聞きたいよ! こっちに、来い!」
 やっと出た僕の言葉は悲鳴のようだった。
 小田は涙をポロポロこぼして、コクコクと頷く。
「うん、うん」と呟くような声が何度も聞こえていた。