背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 放課後の美術室。
 スッキリした表情で絵に向かう櫻井を眺めた。鼻歌でも歌い出しそうだ。
「小田、ちょっとカッコよく見えたな」
 楽しそうな声。
「確かに。小田、無理しないといいけど」
「な、明日の昼休みに不倫じゃない本を図書室で借りようぜ。小田には明るい本を読んで欲しい」
「だな。全てを理解して受け入れる良い子じゃなくていいと思うけどな。ま、小田の生き方と考え方には意見できないけど」
 僕はパラパラとキャンパスノートを広げた。『あっちの教室』と『現実の教室』と書かれたページ。加藤の位置を向こうの教室の四角に矢印で移す。加藤の近くに『部活内での衝突・足の怪我の悩み?』と書き足す。
 書いていて、ハッと気が付く。
「櫻井、集中してるとこゴメン。なぁ、去年亡くなった先輩のこと、何か知ってる?」
 櫻井がピタリと筆を止めた。
 窓の外から吹奏楽部の音楽が流れ入る。
「藤沢、いいとこ気が付くよな。それ、忘れてたわ」
「僕はあの怖い声の主は、その亡くなった先輩な気がするんだ。あっちの教室にいるお化けとは質が違う気がするから」
「うん。モナリザたちとは違うと思う。去年亡くなった生徒について噂にはなったけど、詳しく知らないし、正直覚えてない。でも、そうだな。コミュ障の小田がお化け相手に頑張ってんだ。俺らも動くか」
 櫻井が絵筆やパレットを片付け始めるから、慌ててそれを止めた。
「続けて良いって。せっかく描き始めたのに。向こうの教室に夢中になって、現実で櫻井がやりたいことがやれないなんてダメだ」
「いや、絵は急ぎじゃないし。でも、そっか。じゃ、キリのいいとこまで描く」
「ん」
 また絵に向き合う櫻井を眺めた。

 亡くなった先輩を調べるにはどうしたらいいのだろう。
 加藤がこっちにいれば、サッカー部繋がりの先輩に聞いてもらうのに。
 僕は部活を辞めている。先輩との繋がりはない。櫻井の美術部の先輩のツテを頼るしかないだろう。
 そう考えてため息をつく。櫻井に頼ってばかりだ。僕だって良いところを見せたいのに。僕に出来る事は無いのだろうか。
 ノートに描かれた関係図を指でなぞって机に突っ伏した。

「藤沢、起きろ。帰るぞ」
 櫻井の声にガバっと上体を起こす。しまった。つい寝てしまった。
「櫻井、ゴメン」
 慌てて時計を見たが、まだ十七時。暗くなる前で安堵する。
「いいって。三十分も寝てないし。帰ろうぜ」
「おお」
 身体をグッと伸ばして、櫻井と美術室を出た。階段に向かった時。

「藤沢君、美術部に入ったの?」
 聞き覚えのある声がして眉間にしわを寄せた。
「あ、本当に藤沢君だ。久しぶり」
 振り返れば階段上に吹奏楽部で一緒だった先輩がいる。途端に嫌な気持ちがぶり返して目線を床に向けた。
「……久しぶり、です」
 そう声を掛けるのが精一杯だった。
「背が伸びたんだね。成長期だね」
 こちらの空気を読まずに話しかけてくる。そんな一つ上の先輩に嫌気がさす。僕はもう返事が出来なかった。
「今年の秋のコンクールで三年生は引退なの。藤沢君、もし気が向けば聞きに来てよ。練習でも、いいし。皆、喜ぶよ」
 今更、何だ。怒りに似たどす黒い気持ちが渦巻く。
「藤沢、大丈夫か?」
 櫻井の声にも反応できない。唇の内側をキュッと噛んだ。
「じゃ、いつでも、待ってるね」
 先輩たちは何か言いたそうにしながら音楽室に戻っていく。僕は床を見たまま、手が震えるほど拳を握りしめた。
 階段に取り残されて身動きができない。
 挫折して逃げ出した僕の事は、櫻井に知られたくなかった。
 描くことを追い求めている櫻井と自分との格差を実感する。
 廊下に吹奏楽部の演奏が響く。
 ――聞きたくない!
 悲鳴を上げて暴れたくなり、階段を駆けおりた。
 悔しくて悲しくて。
「藤沢! 待てよ!」
 そう言われても、こんな自分を櫻井には見せたくない。そう思ったけれど、靴箱で櫻井に腕を掴まれる。
「藤沢、落ち着け。分かった。吹奏楽部の楽器、全部蹴とばしてきてやるから、ちょっと落ち着け」
「はぁ⁉」
 ギョッとした。楽器を蹴るなど有り得ないことを言わないで欲しい。
 そんなことは犯罪行為になってしまう。
「お、良かった。こっち見た」
 櫻井がニカっと笑うから肩の力が抜けた。
「ゴメン。ちょっと、ヤな事思い出して」
 深呼吸をして下駄箱に視線を移す。何となく櫻井を見たくない。
「藤沢、一緒に帰ろ」
 いつもそんな当然の事を口にしない癖に。わざわざ言葉にされると断ることが出来ない。僕はコクリと頷きを返した。

 いつもより、ゆっくりと歩く。櫻井の隣にいることが申し訳なくて意図的に速度を違える。
「藤沢、やっぱ、吹奏楽部に乗り込んでくるか?」
 マイペースな櫻井にフフっと笑った。
「ばぁか。櫻井が停学くらうっての。あ~あ、僕はダメな人間だ」
「ネガティブか。吹奏楽、けっこう引きずってるよな」
「まぁな。小田に頑張れって言っておきながら僕は全然だ。なんか、情けないなって」
「そっか」
 それ以上は触れてこなかった。ずけずけ言うはずの櫻井に黙られると辛い。悔しいような複雑な気持ちになる。

 ドラックストアに立ち寄って菓子を物色する。これは櫻井との恒例行事だ。
 僕が新商品のチョコを手にして眺めていると、櫻井も同じ物を見つめる。
 少し距離を置きたくて店に入ってから自然と離れて歩いたのに、いつの間にか櫻井は隣にいた。
「藤沢、亡くなった先輩の事調べるのか?」
 いつもの調子で聞いてくる。
「ああ、うん。すっかり忘れていたけど大切な事だと思うんだ。でも、ちょっと難しいかもな」
 手にしているチョコの包装がカサカサ鳴る。結局僕は人に頼るばかりで何も行動していない。こんな状況で櫻井の美術部先輩のツテを頼ってくれと言えない。気が重い。
「先輩に聞けば知ってそうじゃね? 俺らが一年時の三年だよな。その学年は卒業してるか。今の三年に聞いてみる?」
「あぁ、そうだよ、な」
 そうなのだけど。それは分かっているのだけど。
「俺、美術部の先輩とトラブったから、先輩とは関われん」
「は? 櫻井が?」
「そ。女子の先輩に告られて、断ったら泣かれた。で、他の先輩からサイテーとか言われて、気まずいまま」
「あ、そりゃ気まずいな。女子は集まると怖いからな」
「藤沢も、先輩苦手だろ?」
 ズバリと言われて一瞬言葉に詰まる。
「櫻井とは違うけど、僕の場合は、ちょと、責められて。頑張ってもうまく行かない時って、責められても、できませんって言えないんだよ。出来ないって自分の口で言えなくて。黙るのが精一杯で。それが先輩の怒りに触れたみたいで、さ」
 僕なりに努力したのだけど。出来るようになりたかったのだけど。出来ない事が辛くて悔しくて、認めたくなくて。
 一人で練習をして涙が流れた日々を思い出す。すぐに逃げ出すのは嫌で、何とか必死に頑張った日々。
 ――でも、出来なかったんだ。
 もう、無理だ、と音楽室に背を向けたあの日。しばらく歌謡曲でさえ聴きたくなかった日々。
 耳に残るのは苛立ちを含む先輩の叱責。耳を塞いでも蘇る言葉に、吐き気がするほど苦しんだ。
 出来ない自分が、逃げたことが、許せなくて。
 誰に向けて良いのか分からない怒りが消化できずに今でも胃の奥に巣くっている。
 いつも蓋をして心の奥に押し込んでいるのに。
「藤沢は、本当に出来なかったのか?」
 櫻井の言葉にカッとなる。知らない奴が僕の努力を『出来ない』と決めつけるな!
「櫻井は、ズケズケと、失礼なんだよ!」
 頭に血が上っていた。やってしまった。怒鳴ってしまった後の沈黙。
「……ごめん」
 櫻井の言葉が悲しく聞こえた。
 どうにかフォローをしたいのに。僕の気持ちが沈んだままで声が掛けられない。会話が出来ない。
 そのまま静かに櫻井と別れた。

 久しぶりに胃がキリキリと痛む。
 ――僕は、また失敗するのか。
 涙が出る寸前の目の奥の痛みが懐かしい。喉が焼けるような苦しさ。
 自分の部屋に入ってドサッとベッドに沈み込む。
 ――もう、明日が来なければ良いのに。
 急に脳裏に例の声が蘇る。
『君も、こっちに来れば、楽なんだよ』
 優しくて冷たい声。
 そうなれば楽なのだろうか。
 よく分からなくて、涙が頬を伝った。