「櫻井! 大変だ!」
「藤沢も見たか! これはヤバい!」
休憩時間に椅子を倒しそうな勢いで櫻井の元に駆け寄った。櫻井は青い顔で何度もコクコクと頷く。そんな息を荒げる僕たちに視線が集まった。
周囲を見れば数名が何事かと怪訝な顔をしている。騒いだことを猛烈に反省した。櫻井も頬を赤くしている。
「えっと、昼、美術室で食おう」
「オケ。話は、そん時に」
これ以上に注目を浴びるのが苦痛で、僕は冷静を装って席に戻った。
けれど、僕の心の中は大パニックだ。
加藤が向こうの教室にいた。小田とは少し離れた席。あれは、絶対に加藤だ。
そして、小田は泣きそうな顔をしていた。
昼休みに美術室に向かう途中、担任の先生とサッカー部顧問が壁を向いて話しているのを見かけた。特別教室の階段踊り場は人が寄り付かない。
「加藤は連絡ありましたか? ご家庭からは?」
「無いようです。小田に続いて、加藤まで……。うちの学年はどうなっているのでしょう」
「サッカー部では、加藤はキャプテンとして頑張ってくれています。ですが、先週、部員内で意見の衝突があって。足の怪我もあって加藤は悩んでいました。変な事になっていなければ良いのですが……」
つい聞き耳を立ててしまった。
部活内での衝突? 足の怪我で悩んでいた?
「ただの家出で笑い話になってくれれば、と願うばかりです」
「何か分かったら直ぐに知らせます」
「はい。連携を取っていきましょう。まずは生徒の安全第一です」
先生たちはパタパタと忙しそうに本校舎の方に去って行った。階下にいた僕たちは見つからずに済んでホッとした。
櫻井と顔を見合わせて頷きを交わした。
美術室は午前中の使用が無かったのだろう。締め切っていて熱い空気が籠っていた。
ガラガラと窓を開けて空気を通す。外の風は室内より涼やかだ。
「少しずつ、秋っぽいか」
櫻井の悠長な言葉にガクリと肩を落とす。
「呑気だな。櫻井、さっきの聞いてただろ?」
「ああ、加藤が悩んでいたことが分かった。もしかしたら、怖い奴の付け込む隙が出来たのかもしれないな」
櫻井の黒いストレートの髪が風に揺れる。櫻井の目線を追えばモナリザの絵に向いている。
「モナリザとベートーベンの願い、俺らで叶えたよな。だからさ、俺らの願いも聞いてくれないかな。加藤と小田を返してくれよ」
櫻井の声が寂しそうに聞こえる。
「櫻井は優しいよな。小田にも加藤にも、一生懸命だ」
「おお。こんな形で二人とお別れとか、絶対嫌だからな」
櫻井の言葉にゾッとする。そうだ。最悪の事態を考えると、このまま向こうの世界に小田と加藤が閉じ込められたら。
――永遠の、お別れ。
そんな言葉が浮かんで身体をブルリと震わせた。
「櫻井、そしたら二人は現実では、死んじゃうのかな」
言葉にしてみて、その恐怖にゴクリと唾を飲んだ。
「分からん。けどさ、そうなるのは嫌だ。何とかしないと。向こうの教室が見えているのは、俺と藤沢だけだから」
櫻井の言葉にふと思いつく。
「小田は、加藤が向こうの世界に行ったことをどう思っているのかな? 小田は加藤を励ましているし、サッカーで活躍するのを応援したいんじゃないか?」
「そりゃ、そうだろうな」
櫻井は意味が分からないという顔をしている。
「だからさ、小田に頑張ってもらうんだ。小田に加藤を返すように言うんだよ。小田は人を巻き込むタイプじゃない。加藤が来ることを望むタイプじゃないだろう」
「けど、どうやって?」
「放課後、背面黒板に向かって延々呼びかけだ。それでダメなら、手紙だ。とにかく小田の良心に訴える!」
櫻井は瞳を少し細めて満足気な顔になった。
「最終手段が手紙か。できれば、そりゃ勘弁だけど。文通とか昭和だし、しかも男と。でも、藤沢の心意気は分かった。盛り塩とか用意して脅してみる?」
そんなことして、小田たちまで成仏しちゃったらどうするんだ、と少し笑った。
だけど、以前のように大声では笑えない。陽キャの加藤でさえ向こうに引き込まれている。
僕たちも安全じゃない。これは小田と加藤の命に関わるかもしれない。もしかしたら、僕たちの命にも。
その怖さに、事の重大さに、足がガクガク震える。
「藤沢、俺らは全責任を負うことはない。俺たち自身が危険になるなら、手を引こう。その時は、どうにもならない事だったと諦めよう」
櫻井の声は凛としていた。僕は深く呼吸をして彼を見た。
「櫻井、約束だ。僕たちは、絶対に向こうに行かない。どんな誘いがあろうと、絶対に、だ」
「ああ、約束する。俺と藤沢は離れない」
黒い瞳が真っすぐに僕を射貫く。
――櫻井は失いたくない。櫻井を守りたい。
そう強く願った。
そして、この思いを小田も加藤に抱いているはずだ。
――小田、加藤を守りたいだろ?
モナリザの絵を見上げて心の中で問いかけた。
放課後。
櫻井と共に仁王立ちして背面黒板に向かっている。
今日は絶対に向こうの教室と繋いでもらわなくては。そんな意気込みで黒板を睨む。
「櫻井、やるぞ」
「オッケ。気持ちは整った」
これまでのように柔らかな気持じゃない。気合いを入れて拳を握る。
「おい! 小田! 聞こえてんだろう。姿を見せろ! それに加藤も、出てこい!」
「おお、道場破りだ」
間抜けな声にガクっとなる。
「アホか櫻井。お前もなんか言え」
櫻井はコクリと首を動かす。
「モナリザ、ベートーベン、教室を繋いでよ。俺らの声を無視すんな。それは礼儀を欠くだろう、なぁ」
低いドスの効いた声を出すからびっくりした。この雰囲気をぶつけられたら小田は怖いんじゃないだろうか。大丈夫かハラハラしたけれど。
背面黒板がユラリと歪んだ。
「あ! 見ろ、櫻井!」
思わず声を掛けた。久しぶりに透き通っていく黒板に駆け寄った。胸が高鳴る。
――小田、元気か?
そんな単純な質問が頭に浮かぶ。小田に会える感激で視界が潤む。そして見えて来た、向こうの教室、だが。
「わぁぁ!」
僕は驚きすぎて見事に後ろにすっ転んだ。ドシンと打った尻が痛む。先程とは違った意味で涙が滲んだ。
「ブハハ‼ やってくれるよ。藤沢、大丈夫か?」
笑いを堪える櫻井を睨んで、背面黒板の向こうに半目を向ける。
「これは、無いだろうが!」
怒鳴りつけると、黒板いっぱいに引っ付いていたモナリザとベートーベンが急にシュ~っと縮む。左右にカタカタ揺れる様が懐かしいが。
そうじゃない。可愛さで誤魔化そうとするな!
怒りでもう一度怒鳴ろうとしたが。
『あ、あの、櫻井君、ゴメン。モナリザさんとベートーベンさんが、櫻井君と藤沢君をすっごく心配していて、それで……』
焦ったように前に来る小田を見て、全ての苛立ちが流れ去っていく。
元気そうだ。小田は変わりない。それだけの事に嬉しくて目の奥が熱い。
「もう、いいよ。僕らも心配していたんだ、小田を」
涙目で笑いかければ小田は顔をクシャっと歪める。
『うん。こっちから、見ていたよ。なかなか許しが得られなくて。でも、今回はモナリザさんたちが頑張って力を貸してくれたんだ』
モナリザとベートーベンはミニサイズになって机の上に乗っている。二人は相変わらず仲良しだ。
「そっか。お二人さん、ありがとう」
声を掛けるとモナリザとベートーベンは嬉しそうにピコピコ揺れた。
「俺からも、助けてくれてありがとう」
僕を支えてくれながら櫻井も声を掛ける。櫻井も同じ気持ちだ。
そんな小さなことに腹の底が温かくなる。互いに視線を交わした。黒い瞳に大きな安堵感を得る。
僕は立ち上がり、背面黒板にそっと手を添えた。窓ガラスのようにヒヤリと冷たい感触。
「小田、何で呼んでも出てこないんだよ……。不安になるだろうが」
僕の口からため息のように言葉が出ていた。
『あの、ごめ、ん』
困ったような声音が心をズキッと突き刺す。分かっている。きっと小田のせいじゃない。
「なぁ、小田。菓子食べた?」
櫻井の陽気な声に肩の力が抜ける。
『うん。ありがとう。僕は焼き芋味クッキーが好きだったよ』
「お、いいね。俺もあれは好き。モナリザとベートーベンは?」
『チーズ味嬉しかったって』
櫻井がニカっと笑う。
「そっか。な、加藤どうしてる?」
櫻井が自然と加藤を話題に出すからギョッとする。本当に櫻井は突拍子がない。
『それが、加藤君とは話せないんだ。近くに行けなくて。その、目に見えない距離があるんだ。きっと、現実世界の距離がそのままこっちに反映されている気がするよ』
小田は明らかに加藤がいる方をチラチラ気にしている。けれど少し後ろに見える加藤は魂が抜けたように微動だにしない。
「なんか、加藤おかしくね? 大丈夫なのか?」
『ああ、うん。加藤君は、意識が朦朧としているみたい、で……。これ、きっと、僕のせい、なんだ』
小田は話しながらポロポロと涙を流した。
『僕が、友達と会わせてって言ったから。そしたら、加藤君がこっちに来ちゃったんだ。加藤君は悩んでいたから、引っ張られちゃって……。でも、こんなつもりじゃ、無かったんだ』
するとモナリザがフワリと大きくなり、小田に寄り添う。まるで母親が子供を守るかのようだ。
ベートーベンは小田の後ろに支えるように立つ。化け物なのに、こいつらは温かい。
「小田、加藤を助けたいと思わないか? 加藤を守りたいって、さ」
僕は自分が櫻井に抱く気持ちを小田にぶつけてみた。小田にはこの気持ちが届くはず。
『守りたいよ。僕が出来る事なら何でもしたい。加藤君だけでも助けたい。僕と違って加藤君は現実世界に居場所があるんだ。必要とされている人なんだよ』
小田が涙を袖で拭う。
「分かるよ。大切な人だから、守りたいんだよな」
強いとか弱いとか、自分より大きい小さいとかではない。人を大切に守りたいと思うことは、そんなことじゃない。
僕は急に櫻井を見たくなった。目を向けると、彼は真っすぐに僕を見ていた。
小田は肩をふるわせて下を向いている。
「俺も、その気持ちは分かる。だからこそ、小田に頑張って欲しい。そっちのお化けの力を借りないと小田と加藤はコッチに帰れない気がする。モナリザとベートーベンは教室を繋ぐ力はあるんだな。他に、協力してくれそうなお化けはいるのか? こっちから見ると黒い影がちらほら見えているんだけど」
確かにモナリザやベートーベンほどハッキリしないが黒い影は存在している。
小田が顔を上げた。
『櫻井君、こっちのクラスにはいろんなお化けがいるよ。僕を邪魔者だって思っている化け物もいるし、どこまで協力を得られるのか分からないよ』
なんだか現実のクラスのようだと感じる。
「じゃ、小田の頑張りはそこだ。苦手かも知れないけど、加藤のためだと思って、協力してもらえるか説得してみて。これは、そっちにいる小田にしか出来ない。モナリザ、ベートーベン、お願いだ。小田を助けてくれ」
モナリザとベートーベンはカクカクと左右に揺れた。任せて、と声が聞こえそうな動きだ。
「うん。小田、そっちのクラスメイトと仲良くなるんだ! できたら加藤をコッチに戻す方法を、そっちのクラスメイトに聞いてくれ! 協力を得るために現実世界で必要なことがあれば、僕らがやる!」
『ぼ、僕が、話しかけるの? そんな! 無理だよ!』
慌てたように小田が両手を振る。
「無理でもやるんだ。小田だけが頼みの綱なんだ。櫻井とも話したんだけどさ、僕は小田に現実世界に戻って来て欲しい。もちろん加藤にも。そのために一緒に頑張ろうぜ」
櫻井がニヤッと笑ってコクリと頷く。その笑顔が心強い。
『加藤君は、戻った方が良いけれど。僕は、そんな価値も居場所も、無い、から』
小田が自信無げに肩を落とす。小田がヤル気にならないといけないのに。
「小田の居場所は、俺らの間!」
櫻井が明るく声を掛けた。
「お、櫻井、それいいね! 小田、ここが居場所だ」
櫻井と僕との間に椅子をガタンと置く。小田に向けて、いつでも座れるように。
小田は目を見開きながら椅子を凝視して、また泣いた。
少しして、小田がしっかり僕らに向いた。顔がキリッと締まっている。
『僕、やってみるよ。こっちの皆に話してみるから。櫻井君、藤沢君、また放課後に会ってくれる?』
初めて小田から会いたいと言ってくれた。
櫻井がニカッと歯を見せて笑う。僕もきっと同じような顔をしているだろう。
「おう! じゃ、小田、また明日な!」
「モナリザ、ベートーベン! 小田を頼むぞ」
小田に手を振り、背面黒板が黒板に戻るのを見守った。
「藤沢も見たか! これはヤバい!」
休憩時間に椅子を倒しそうな勢いで櫻井の元に駆け寄った。櫻井は青い顔で何度もコクコクと頷く。そんな息を荒げる僕たちに視線が集まった。
周囲を見れば数名が何事かと怪訝な顔をしている。騒いだことを猛烈に反省した。櫻井も頬を赤くしている。
「えっと、昼、美術室で食おう」
「オケ。話は、そん時に」
これ以上に注目を浴びるのが苦痛で、僕は冷静を装って席に戻った。
けれど、僕の心の中は大パニックだ。
加藤が向こうの教室にいた。小田とは少し離れた席。あれは、絶対に加藤だ。
そして、小田は泣きそうな顔をしていた。
昼休みに美術室に向かう途中、担任の先生とサッカー部顧問が壁を向いて話しているのを見かけた。特別教室の階段踊り場は人が寄り付かない。
「加藤は連絡ありましたか? ご家庭からは?」
「無いようです。小田に続いて、加藤まで……。うちの学年はどうなっているのでしょう」
「サッカー部では、加藤はキャプテンとして頑張ってくれています。ですが、先週、部員内で意見の衝突があって。足の怪我もあって加藤は悩んでいました。変な事になっていなければ良いのですが……」
つい聞き耳を立ててしまった。
部活内での衝突? 足の怪我で悩んでいた?
「ただの家出で笑い話になってくれれば、と願うばかりです」
「何か分かったら直ぐに知らせます」
「はい。連携を取っていきましょう。まずは生徒の安全第一です」
先生たちはパタパタと忙しそうに本校舎の方に去って行った。階下にいた僕たちは見つからずに済んでホッとした。
櫻井と顔を見合わせて頷きを交わした。
美術室は午前中の使用が無かったのだろう。締め切っていて熱い空気が籠っていた。
ガラガラと窓を開けて空気を通す。外の風は室内より涼やかだ。
「少しずつ、秋っぽいか」
櫻井の悠長な言葉にガクリと肩を落とす。
「呑気だな。櫻井、さっきの聞いてただろ?」
「ああ、加藤が悩んでいたことが分かった。もしかしたら、怖い奴の付け込む隙が出来たのかもしれないな」
櫻井の黒いストレートの髪が風に揺れる。櫻井の目線を追えばモナリザの絵に向いている。
「モナリザとベートーベンの願い、俺らで叶えたよな。だからさ、俺らの願いも聞いてくれないかな。加藤と小田を返してくれよ」
櫻井の声が寂しそうに聞こえる。
「櫻井は優しいよな。小田にも加藤にも、一生懸命だ」
「おお。こんな形で二人とお別れとか、絶対嫌だからな」
櫻井の言葉にゾッとする。そうだ。最悪の事態を考えると、このまま向こうの世界に小田と加藤が閉じ込められたら。
――永遠の、お別れ。
そんな言葉が浮かんで身体をブルリと震わせた。
「櫻井、そしたら二人は現実では、死んじゃうのかな」
言葉にしてみて、その恐怖にゴクリと唾を飲んだ。
「分からん。けどさ、そうなるのは嫌だ。何とかしないと。向こうの教室が見えているのは、俺と藤沢だけだから」
櫻井の言葉にふと思いつく。
「小田は、加藤が向こうの世界に行ったことをどう思っているのかな? 小田は加藤を励ましているし、サッカーで活躍するのを応援したいんじゃないか?」
「そりゃ、そうだろうな」
櫻井は意味が分からないという顔をしている。
「だからさ、小田に頑張ってもらうんだ。小田に加藤を返すように言うんだよ。小田は人を巻き込むタイプじゃない。加藤が来ることを望むタイプじゃないだろう」
「けど、どうやって?」
「放課後、背面黒板に向かって延々呼びかけだ。それでダメなら、手紙だ。とにかく小田の良心に訴える!」
櫻井は瞳を少し細めて満足気な顔になった。
「最終手段が手紙か。できれば、そりゃ勘弁だけど。文通とか昭和だし、しかも男と。でも、藤沢の心意気は分かった。盛り塩とか用意して脅してみる?」
そんなことして、小田たちまで成仏しちゃったらどうするんだ、と少し笑った。
だけど、以前のように大声では笑えない。陽キャの加藤でさえ向こうに引き込まれている。
僕たちも安全じゃない。これは小田と加藤の命に関わるかもしれない。もしかしたら、僕たちの命にも。
その怖さに、事の重大さに、足がガクガク震える。
「藤沢、俺らは全責任を負うことはない。俺たち自身が危険になるなら、手を引こう。その時は、どうにもならない事だったと諦めよう」
櫻井の声は凛としていた。僕は深く呼吸をして彼を見た。
「櫻井、約束だ。僕たちは、絶対に向こうに行かない。どんな誘いがあろうと、絶対に、だ」
「ああ、約束する。俺と藤沢は離れない」
黒い瞳が真っすぐに僕を射貫く。
――櫻井は失いたくない。櫻井を守りたい。
そう強く願った。
そして、この思いを小田も加藤に抱いているはずだ。
――小田、加藤を守りたいだろ?
モナリザの絵を見上げて心の中で問いかけた。
放課後。
櫻井と共に仁王立ちして背面黒板に向かっている。
今日は絶対に向こうの教室と繋いでもらわなくては。そんな意気込みで黒板を睨む。
「櫻井、やるぞ」
「オッケ。気持ちは整った」
これまでのように柔らかな気持じゃない。気合いを入れて拳を握る。
「おい! 小田! 聞こえてんだろう。姿を見せろ! それに加藤も、出てこい!」
「おお、道場破りだ」
間抜けな声にガクっとなる。
「アホか櫻井。お前もなんか言え」
櫻井はコクリと首を動かす。
「モナリザ、ベートーベン、教室を繋いでよ。俺らの声を無視すんな。それは礼儀を欠くだろう、なぁ」
低いドスの効いた声を出すからびっくりした。この雰囲気をぶつけられたら小田は怖いんじゃないだろうか。大丈夫かハラハラしたけれど。
背面黒板がユラリと歪んだ。
「あ! 見ろ、櫻井!」
思わず声を掛けた。久しぶりに透き通っていく黒板に駆け寄った。胸が高鳴る。
――小田、元気か?
そんな単純な質問が頭に浮かぶ。小田に会える感激で視界が潤む。そして見えて来た、向こうの教室、だが。
「わぁぁ!」
僕は驚きすぎて見事に後ろにすっ転んだ。ドシンと打った尻が痛む。先程とは違った意味で涙が滲んだ。
「ブハハ‼ やってくれるよ。藤沢、大丈夫か?」
笑いを堪える櫻井を睨んで、背面黒板の向こうに半目を向ける。
「これは、無いだろうが!」
怒鳴りつけると、黒板いっぱいに引っ付いていたモナリザとベートーベンが急にシュ~っと縮む。左右にカタカタ揺れる様が懐かしいが。
そうじゃない。可愛さで誤魔化そうとするな!
怒りでもう一度怒鳴ろうとしたが。
『あ、あの、櫻井君、ゴメン。モナリザさんとベートーベンさんが、櫻井君と藤沢君をすっごく心配していて、それで……』
焦ったように前に来る小田を見て、全ての苛立ちが流れ去っていく。
元気そうだ。小田は変わりない。それだけの事に嬉しくて目の奥が熱い。
「もう、いいよ。僕らも心配していたんだ、小田を」
涙目で笑いかければ小田は顔をクシャっと歪める。
『うん。こっちから、見ていたよ。なかなか許しが得られなくて。でも、今回はモナリザさんたちが頑張って力を貸してくれたんだ』
モナリザとベートーベンはミニサイズになって机の上に乗っている。二人は相変わらず仲良しだ。
「そっか。お二人さん、ありがとう」
声を掛けるとモナリザとベートーベンは嬉しそうにピコピコ揺れた。
「俺からも、助けてくれてありがとう」
僕を支えてくれながら櫻井も声を掛ける。櫻井も同じ気持ちだ。
そんな小さなことに腹の底が温かくなる。互いに視線を交わした。黒い瞳に大きな安堵感を得る。
僕は立ち上がり、背面黒板にそっと手を添えた。窓ガラスのようにヒヤリと冷たい感触。
「小田、何で呼んでも出てこないんだよ……。不安になるだろうが」
僕の口からため息のように言葉が出ていた。
『あの、ごめ、ん』
困ったような声音が心をズキッと突き刺す。分かっている。きっと小田のせいじゃない。
「なぁ、小田。菓子食べた?」
櫻井の陽気な声に肩の力が抜ける。
『うん。ありがとう。僕は焼き芋味クッキーが好きだったよ』
「お、いいね。俺もあれは好き。モナリザとベートーベンは?」
『チーズ味嬉しかったって』
櫻井がニカっと笑う。
「そっか。な、加藤どうしてる?」
櫻井が自然と加藤を話題に出すからギョッとする。本当に櫻井は突拍子がない。
『それが、加藤君とは話せないんだ。近くに行けなくて。その、目に見えない距離があるんだ。きっと、現実世界の距離がそのままこっちに反映されている気がするよ』
小田は明らかに加藤がいる方をチラチラ気にしている。けれど少し後ろに見える加藤は魂が抜けたように微動だにしない。
「なんか、加藤おかしくね? 大丈夫なのか?」
『ああ、うん。加藤君は、意識が朦朧としているみたい、で……。これ、きっと、僕のせい、なんだ』
小田は話しながらポロポロと涙を流した。
『僕が、友達と会わせてって言ったから。そしたら、加藤君がこっちに来ちゃったんだ。加藤君は悩んでいたから、引っ張られちゃって……。でも、こんなつもりじゃ、無かったんだ』
するとモナリザがフワリと大きくなり、小田に寄り添う。まるで母親が子供を守るかのようだ。
ベートーベンは小田の後ろに支えるように立つ。化け物なのに、こいつらは温かい。
「小田、加藤を助けたいと思わないか? 加藤を守りたいって、さ」
僕は自分が櫻井に抱く気持ちを小田にぶつけてみた。小田にはこの気持ちが届くはず。
『守りたいよ。僕が出来る事なら何でもしたい。加藤君だけでも助けたい。僕と違って加藤君は現実世界に居場所があるんだ。必要とされている人なんだよ』
小田が涙を袖で拭う。
「分かるよ。大切な人だから、守りたいんだよな」
強いとか弱いとか、自分より大きい小さいとかではない。人を大切に守りたいと思うことは、そんなことじゃない。
僕は急に櫻井を見たくなった。目を向けると、彼は真っすぐに僕を見ていた。
小田は肩をふるわせて下を向いている。
「俺も、その気持ちは分かる。だからこそ、小田に頑張って欲しい。そっちのお化けの力を借りないと小田と加藤はコッチに帰れない気がする。モナリザとベートーベンは教室を繋ぐ力はあるんだな。他に、協力してくれそうなお化けはいるのか? こっちから見ると黒い影がちらほら見えているんだけど」
確かにモナリザやベートーベンほどハッキリしないが黒い影は存在している。
小田が顔を上げた。
『櫻井君、こっちのクラスにはいろんなお化けがいるよ。僕を邪魔者だって思っている化け物もいるし、どこまで協力を得られるのか分からないよ』
なんだか現実のクラスのようだと感じる。
「じゃ、小田の頑張りはそこだ。苦手かも知れないけど、加藤のためだと思って、協力してもらえるか説得してみて。これは、そっちにいる小田にしか出来ない。モナリザ、ベートーベン、お願いだ。小田を助けてくれ」
モナリザとベートーベンはカクカクと左右に揺れた。任せて、と声が聞こえそうな動きだ。
「うん。小田、そっちのクラスメイトと仲良くなるんだ! できたら加藤をコッチに戻す方法を、そっちのクラスメイトに聞いてくれ! 協力を得るために現実世界で必要なことがあれば、僕らがやる!」
『ぼ、僕が、話しかけるの? そんな! 無理だよ!』
慌てたように小田が両手を振る。
「無理でもやるんだ。小田だけが頼みの綱なんだ。櫻井とも話したんだけどさ、僕は小田に現実世界に戻って来て欲しい。もちろん加藤にも。そのために一緒に頑張ろうぜ」
櫻井がニヤッと笑ってコクリと頷く。その笑顔が心強い。
『加藤君は、戻った方が良いけれど。僕は、そんな価値も居場所も、無い、から』
小田が自信無げに肩を落とす。小田がヤル気にならないといけないのに。
「小田の居場所は、俺らの間!」
櫻井が明るく声を掛けた。
「お、櫻井、それいいね! 小田、ここが居場所だ」
櫻井と僕との間に椅子をガタンと置く。小田に向けて、いつでも座れるように。
小田は目を見開きながら椅子を凝視して、また泣いた。
少しして、小田がしっかり僕らに向いた。顔がキリッと締まっている。
『僕、やってみるよ。こっちの皆に話してみるから。櫻井君、藤沢君、また放課後に会ってくれる?』
初めて小田から会いたいと言ってくれた。
櫻井がニカッと歯を見せて笑う。僕もきっと同じような顔をしているだろう。
「おう! じゃ、小田、また明日な!」
「モナリザ、ベートーベン! 小田を頼むぞ」
小田に手を振り、背面黒板が黒板に戻るのを見守った。


