背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 小田の家族に会えなかったから時間が空いてしまい、櫻井と近くのファミレスに入った。
「何気に友達とファミレスとか、実は初めて」
「藤沢もか。実は、俺も」
 メニューで顔を半分隠しながら櫻井と目を合わせた。櫻井の瞳が優しく細くなるから僕の気分がフワリと上がる。
「ドリンクバーは頼むだろ?」
「もちろん。ちょっと作戦会議しようぜ。このノート持ってきているし」
 カバンからチラリとキャンパスノートを見せる。これは先日、放課後に関係図を書き込んだノートだ。
「ナイスだ、藤沢」
 櫻井がニカっと歯を見せる。
 僕は櫻井のこの顔が結構好きだ。教室では大人ぶっている櫻井が急に子供っぽく見えて微笑ましくなる。
 そしてこの表情を知っているのは、多分クラスで僕だけ。そんな優越感に心がキュンとなる。
「櫻井は友達出来そうなのに一人でいることが多いよな。昔っから?」
「まぁな。俺はすぐに思ったことが口に出るから嫌われるんだ。別に一人で楽だし、絵を描くのは一人で出来るし、友達作ろうとか、グループでいようとか、無縁だな」
「モッタイな。お前、いい奴なのにな。あ、でも思い出した。僕もちょい前は櫻井の事が苦手だった」
「だろ。藤沢、それ顔に出てたわ」
 ははは、と笑いながら注文をした。
 櫻井は和風ハンバーグランチの大盛りを大きな口で食べた。昼の弁当も大きいし、櫻井はよく食べるほうだと思う。
 そんな姿にクスッと笑いが生じて、慌てて目線を外す。食べている姿を見て笑うなど失礼だ。けれど櫻井は食事に夢中になっていて僕に気が付かない。
 櫻井は絵を描いているときも僕の存在が無いかのように集中する。何事にも一点集中なのだろう。
 僕も普通サイズのナポリタンパスタを口に運んで咀嚼する。
 そう言えば櫻井はカロリーメイトを持ち歩いている。本当に腹が減るのだろうと思い当たる。僕たちはまだ成長期だし。
 明日から櫻井用のお菓子でも持ち歩くか、と考えてまた僕の頬が緩む。
 小田への菓子と櫻井へのお菓子。何だか餌付けでもしている気分だ。
 食事を食べている間は静かだった。
 ファミレスのパスタが凄く美味しく感じた。

「結構うまかった! 満足だぁ。よし、ドリンクとってきて情報を整理しようぜ」
 櫻井がグイっと伸びをする。
「だな。パスタも美味しかった。次食べてみろよ」
 ドリンクバーで何を飲もうか迷う。日中は暑いから炭酸も良いけれど、ウーロン茶でサッパリしたい気持ちもある。
「パスタなぁ。好きなんだけど、米より腹減るんだよ」
「マジか。知らんかった。じゃ、次は僕が大盛り頼むから、ちょっと食べてみる?」
 櫻井はジンジャエールを選んだ。コップに注がれる炭酸がシュワシュワと心地いい音を出す。
「ラッキー、そしたらパスタも食べれるじゃん」
 次はシェアしよう、と笑いながらウーロン茶の入ったコップを手にテーブルに戻った。
 テーブルにノートを広げる。前回関係図を書き込みしたページだ。
 見開きのページには四角が二つ。それぞれに『現実の教室』『あっちの教室』と書いてある。
「はい、では藤沢くん」
「あはは。でた、櫻井先生!」
 すまし顔の櫻井の瞳がいたずらっぽく細くなる。
「今日、得た情報をここに書き込みましょう」
「はぁい」
 笑いを噛みしめてペンを手にした。小田のマークから線を引っ張る。そこに今日の日付を入れて、近所のおばさんからの情報、と書き込む。
・小田の母親は気が強い
・親が離婚しそう
・父親が浮気
・サッカーをしたかったが、やれなかった
・母親に逆らえない
・母親は小田の失踪が二の次
 そこまで書き込んで、一度筆を止めた。
「なぁ、櫻井。小田って、ちょっと可哀そうな感じじゃね?」
「俺もそう思った。こんなん、心穏やかでなんて居られんだろう」
 顔を上げてウーロン茶を一口飲む。
「小田が読んでた、華の咲く元でって本、不倫の内容だよな」
「小田には似合わんって思ったけど、小田なりに不倫って何か知ろうとしたのかな」
 背面黒板の向こうの教室が見えてからしか小田との会話は覚えがない。誰かと会話している姿も知らない。
 あっちの世界にいる小田は、「助けて」とも「辛い」とも言ってこない。
 向こうが自分にとって「最適」と表現していた。
 だけど、化け物に囲まれて最適なんて。
 そんなの、おかしいだろう。
 その小田の心境を今更ながらに考える。
 もしかしたら、小田なりに不倫をした父親の事や、怒り狂う母のことを理解して受け止めようと必死だったのではないか。だけど、そんなの高校生男子には難しい。誰にも言えず苦しい気持ちを抱えていたのではないか。
 そして、小田の心はパンクしてしまったのでは、ないか。
 ――小田、こんなの、しんどいよな。
 考えると鼻の奥がツンとした。
「小田さぁ、ファミレスに連れて来ようぜ」
 櫻井の一言にコクリと頷く。
「だな。小田を向こうの世界から連れ戻す。で、加藤も含めてファミレスだ!」
 僕の言葉に櫻井が大きく頷きを返した。
「おう! ちなみに、他にも分かったこと」
 加藤のところに櫻井が書き込む。
・小田の夢を知っている
・小田を良い奴だと思っている
「うんそうだ。じゃ、小田のとこにも書くことがあるな」
 僕は小田の丸に、将来の夢はスポーツドクターと書き入れた。
「小田、サッカーやれなくて、自分なりにスポーツに関わる事を考えたのかな」
「ま、小田は運動に向いているとは言えないんだけど」
 体育の授業で小田はいつも遅れをとっている。
「ばっか、藤沢。やりたい事や好きな事と得意不得意は別じゃんか。お前が言ってたんだろ」
 ハッとする。そうだ。僕だって同じだ。
「そうだな。なんんか、櫻井といると色々気付かされる」
 櫻井はニカっと笑みを浮かべる。
「だろ? 藤沢くん、わかったかね? 今日の授業をよく復習するように」
 急に教師風に戻るから腹を抱えて笑った。
 櫻井といると前向きになれるから不思議だ。

 けれど、僕たちには大きな問題が残されている。
 どうしたら背面黒板の向こうの教室に繋がるのだろう。その方法が分からない。小田と話がしたいのに。
 小田と向き合えなければ、こちら側で何を考えても全て無駄だ。

 翌週の水曜日。
 加藤が学校を休んだ。
 先生が体調不良だと言っていた。
 嫌な予感がした。
 小田と同じじゃないよな。あの陽気な加藤があっちの教室に引き込まれることなんて、ないよな。きっと、ただの体調不良だ。
 そう思って、授業中にそっと後ろに目を向けた。
 その瞬間、驚愕に手が震えた。
 そこに見えたのは……。
 後ろの席の三倉に睨まれても、すぐに前に向き直せなかった。