背面黒板の向こう側に、もう一つ教室があることは、僕と彼しか知らない

 その週の土曜日。
 櫻井と一緒に小田の出身中学に来た。グラウンドではサッカー部の練習試合が行われている。
「公立中学なんだけど、青第二中ってこの辺じゃサッカー強いらしいぞ。加藤が言ってた」
「そうなんだな。加藤はかなり情報持ちじゃないか」
「お役立ち加藤だ」
「よし、次回も加藤の日直代わってやろう」
 中学敷地を囲う金網フェンス越しに運動場を眺めた。元気な掛け声が届いてくる。高校生より幼い体格の少年たちが活発に走り回っている。
 今日の本当の目的は小田の家に行くことだ。小田が通っていた中学校にまで立ち寄る必要は無いのだけれど、少し緊張を和らげるために来ている。
 小田がいないのに小田の家に行くのだ。母親や父親に何か聞かれたらどうしたら良いのだろう。
 櫻井が上手く切り抜けてくれると良いのだけど、クラスの女子に話しかけるのを躊躇していた姿を知っているから頼りになるとは言い切れない。
 やはり気が重い。
 それでも、小田の家庭の事を知るには実際に行ってみるのが一番なのだ。
 ――小田、勝手に家に向かってゴメン。
 心の中で謝った。もし、小田が家庭の事で悩んでいるのなら知られたくないのかもしれない。そこを探る罪悪感がある。
 はぁ、と大きくため息をついた。
「なぁ、藤沢」
 中学のグラウンドを眺めたまま櫻井が声を掛けて来た。
「なに?」
「藤沢と小田の共通点って何だろう。怖い奴があっちの世界に誘ったのは藤沢で、俺は誘われてない。きっと小田もソイツが引き込んだって俺は思ってる。小田と藤沢には何か繋がるものがあるんじゃないのか?」
 運動場からの声が遠くに聞こえる。
「まだ、分からないけど。櫻井と違いは、部活をしていないことだろうな。僕は吹奏楽を辞めたし、小田はもともと入ってないだろ。スランプがあっても一人でも櫻井は美術部を続けている。偉いと思うよ」
 言いながら下を向いた。正面に広がるサッカー部の輝きから目を逸らす。
 僕だって、続けたかった。
 言いたい言葉を飲みこんで唇の内側を噛んだ。
「そっか、じゃ、小田が中学で部活を辞めたのか、そのあたりを聞いてみたいよな」
 落ち着いた櫻井の声に何の反応も示せず、金網を握りしめた。

 小田の家に自転車で向かった。
 あらかじめ担任の先生が「クラスメイトがプリント類を届けに行く」と電話連絡してくれている。けれど、先生からは不在かもしれないぞ、と言われた。不在時は郵便受けに書類を投函するよう指示されている。
 到着した小田の家は、ごく普通の一軒家。車一台が止められる駐車場がある小ぶりな住宅。
「見た感じ、普通の家庭だなぁ」
「うん。貧困とかの悩みでは無さそうか」
 家を見上げて櫻井と頷き合う。インターホンを押すための気合いを溜める。大きく呼吸をしたけれど。
『ピンポーン』
 櫻井がサッサとインターホンを押した。その行動に僕の心臓がドキッと大きく動く。びっくりしすぎて汗が滲む。
「おい! 櫻井、声掛けてくれよ」
 小声で文句を伝えて姿勢を正した。モニターが付いているタイプのインターホンだから顔が映っているだろう。
 しばらく待つが何の返答もない。
「もう一回、押すか」
「だな」
 櫻井がもう一度インターホンを押した。何の返答もなく、櫻井と肩を落とした。
「ちょっとでも小田の事が分かればって思ったのにな」
「あぁ。ま、しゃぁないか」
 残念が半分、安堵が半分で緊張から解放される。
 郵便受けに担任から預かったプリント類を投函して振り返ると、近所の人と目が合った。
 五十代の女性が明らかに僕たちを見ている。視線を外さない女性に背を向けていいのかたじろぐ。
 どうしようかと櫻井を見れば、櫻井も眉を下げて困り顔だ。その内に女性がグングンと近づいてくる。
「ねぇ、満ちゃんと同じ高校の子よね! クラスメイトかしら?」
 勢いのある女性に背をのけ反らせる。パワーのある人だ。
「はい。そうです」
「満ちゃん、帰って来たの? いなくなったって聞いて。ご両親はこんな状況だし、心配しているのよ」
 両親がこんな状況? 何の事だろう。顔を見合わせる僕たちに構わず、女性は喋り続ける。
「今年の夏過ぎから、夜中まで怒鳴り合う声が響いていたのよ。その度に満ちゃんは外に一人座っていて。そんなところは昔から変わらないのよ、満ちゃん。小学生の頃かしら。サッカーをしたかったみたいでね。でもお母さんに反対されて出来なくて。その時もやっぱり外で一人小さく座って、ね。本当に耐えられないことがあると、家の外で一人泣いている子だったのよ」
 胸がツキンと痛んだ。
 小田は何か苦しい事があると、自分の部屋や家の中ではなく、家の外に泣き場所を作っていたのか。
 家から遠く離れるわけではなく、家の玄関のすぐ外。手を伸ばせば家の中に入れる場所であり、母親が気付けばすぐに招き入れてくれる場所。
 そこで一人泣くなんて。
 ――きっと小田なりの心の悲鳴だったんじゃないのか?
 小田の孤独に触れた気がして目の奥が熱くなる。
「小田はサッカーがやりたかったんですね」
 僕の目に涙が滲んだことに気が付いて、櫻井が女性への受け答えをしてくれる。そんなところが櫻井だ。
「そうなのよ。小学生の頃かしらね。ほら、サッカークラブに入ると親の送迎当番とかがあるでしょう。満ちゃんのお母さん、正社員で働いていて無理だったんでしょうね。その頃からかしら。満ちゃんはどんどん内気な子になって」
 女性が首を傾けてわざとらしく肩を下げた。
「おばさんと小田は良く話すんですか?」
「やだ、話さないわよ。こんなオバちゃんよ? でも、満ちゃんのことは小さい頃から見てるからね。可愛いのよ」
「小田がいなくなって、僕たちは驚いています。困っている事や悩みがあったのか、気になるんです」
 ストレートに聞いてみた。
「そう。少し安心だわ。満ちゃんにもお友達ができていたのね。あたしには悩みなんかは分からないけれどね。満ちゃんのお母さんが強いから、昔っから萎縮しちゃっているとこがあった子よ」
「小田の両親って、なんで怒鳴り合ってたんですか?」
 櫻井の声に女性が顔をしかめる。
「あらやだ。そんなの高校生の若い子に言う事じゃないわよね。忘れて頂戴。でもね、ご両親の間で何かあっても、自分の子どもが行方不明ってなったら、普通、最優先は子どもじゃないかしら。満ちゃんちはね、そっちは警察に任せているからいいって言って、自分たちのことにかかりっきりなのよ。そんなの普通じゃないわよ」
 ため息をつく女性と同じ気持ちになる。小田の行方不明より重要な事ってなんだろう。
 肝心な事を濁されてしまいモヤッとする。
 その時、郵便配達のバイクが停まった。配達員が小田の家のポストに封筒を突っ込む。
 そのまま配達員は次の配達先に向かって行く。
「早く満ちゃんが戻ると良いわ。あたしはね、満ちゃんが家の前に座っていないか気になって、時々見ているのよ。満ちゃんが無事なように願うわ。あなたたち、こんなおばちゃんが話しかけちゃってゴメンなさいね」
 女性はにこやかに立ち去って行く。もっと聞きたくて引き留めようとしたけれど。
 櫻井が僕に向けて首を横に振る。
「ありがとうございました」
 櫻井の声に女性は振り返ってニッコリ笑ってくれた。女性は斜め向かいの家に入って行った。

「櫻井。なんで止めるんだよ。もっと色々聞けたかもしれないだろ?」
「ばっか。初対面で小田の家庭事情まで根掘り葉掘り聞くなんて変だろ。怪しまれるぞ」
「そうだけどさ」
 こんなチャンス二度とないかもしれないのに。
「それよか、ちょっと気になる物がある」
「は?」
「藤沢、郵便受け確認したいから、ちょい見張ってて」
「はぁ⁉」
「漁るわけじゃない。さっき届いた封筒が飛び出してんじゃん。その印字がちょっと気になって見るだけ」
「おいおい! 大丈夫かよ⁉」
「開けたりしない。俺らがいれた書類が入りきらなくてラッキーだった」
 言いながら櫻井は郵便受けに向かう。慌てて僕は周囲に人がいないかキョロキョロと見渡した。
 すぐに櫻井が隣に戻ってくる。
「想像通りだ。さっきの、家庭裁判所からの通知だ」
 その言葉にハッとする。
「もしかして、離婚、か」
「だな」
「夏以降に怒鳴り合っていたってことは、長年の不仲じゃないな。どっちかの不倫とか浮気かもな」
 櫻井の言葉に引っ掛かりが生まれる。
 小田が読んでいた本は、不倫モノだ。