翌朝七時半。櫻井と教室に待ち合わせをしている。
こんなに早くに来ている生徒はいない。職員室に教頭先生がいるくらいだ。この静かな教室に独りは怖い。早く櫻井が来ないかとソワソワした。
少しすると、ガタッと教室の扉の音がして櫻井が入って来た。途端に気持ちがホッと落ち着く。
「藤沢、おはよ」
「おう、おはよ。まずは音楽室の鍵だ。行こう」
「オケ。焦らずだ。物を壊すとか、怪我をするとか絶対だめだからな」
逸る気持ちを抑えて特別教室棟に向かい、音楽室の鍵を開けた。去年と変わらない部活用の鍵保管で助かった。
次に美術室に向かう。うまく行きますように。誰にも見られませんように。そう願った。
心臓がバクバクと全力疾走している。悪い事をしているような汗の出る緊張感。手がブルブルする。
「おい、藤沢。落ち着け。ビビッてんな。モナリザの絵を運ぶのに落としたら困る」
「分かってる」
以前ならイラついていた櫻井の言葉を自然に流せる。この言葉が意地悪じゃない事を、僕はもう知っているから。
脚立を使ってモナリザの絵を壁から外した。外すのは櫻井がしてくれた。
絵は一人で抱えられる程度の大きさだ。ホコリが多いと文句を言いながらも、音楽室まで交代で持ちながら絵を運んだ。
「はい。少しの時間だけど」
ベートーベンの絵が見上げられる位置にモナリザを置く。時間は七時五十分。あと十分で戻さなければ登校してくる生徒に見られてしまう。
時計とにらめっこをしてしばらく待った。こちらの世界では、ただ絵を置いただけで変化は無い。あちらの世界では何かが起きているのだろうか。
「うん。お似合いじゃんか。平面の恋だ」
パシャリと櫻井が写メを撮る音がした。
「どうせなら二つの絵を並べてあげたいな。それをスマホで撮るとか。で、むこうに見せる」
「向こうの世界にケータイ画面見せるのか! 藤沢、いいな、それ。お化けに現代の電子機器を見せる奴なんて俺らくらいだ」
「それ最高に面白いって! お化けとスマホ! 絵を戻すときにさ、僕がちょっと近くに掲げるから櫻井撮ってよ」
「おう。落とすなよ」
そんなことを言っているうちに八時になる。急げと言い合いながら写メを撮り、見られないようにモナリザの絵を戻した。
朝から一仕事終えた達成感で気分が良かった。
早く小田のいる教室を見たい。モナリザの反応はどうだったのだろう。ベートーベンとうまく行ったのだろうか。
人の恋路を楽しんではいけないけれど、ちょっとソワソワした。放課後が楽しみだった。
放課後。
「藤沢、ちょいドキドキする。何だこのトキメキは!」
「あはは! 櫻井、女子か。と言う僕も気になって仕方ない」
あちらの世界の恋事情などに興奮するなんておかしいけれど。なんというか、ソワソワ感が止まらない。早く教室が見えると良い。そんな期待をして二人で後ろを見ている。
背面黒板が徐々に薄くなって、向こうに教室が見える。
「小田! 待ってたぞ。そっちはどう?」
まだ向こうがハッキリ見えていないのに我慢できず声を掛けた。
黒板のすぐ側に小田がいる。
『こっちはスゴいよ。ね、何したの⁉』
小田が興奮気味に黒板に引っ付いている。
「すごいって、何が?」
『ほら!』
小田が教室の後ろを指さすと、モナリザとベートーベンが並んでいる。隣で寄り添って話をしているようだ。
「これは、上手くいったんじゃないか?」
櫻井が口元をニヤつかせる。その表情が露骨すぎてこちらまでニヤけてしまいそうになる。僕の口元が緩んでいないか心配になり、慌てて手で口を隠した。
『どうしてか、横に並べるようになったんだ。モナリザさんは大喜びしていたよ。ベートーベンさんの渋さが素敵なんだって』
最後の方は声を小さくしてこちらに話す小田は嬉しそうだ。それが生き生きして見えて複雑になる。こちらの世界で小田がこれほど楽しそうにしていた事は無いから。
「もしかして、絵を並べた写真とったから、そっちで並べるのかな」
そうか、と納得する。二次元の彼らは、写真の中で横並びしたことで、あっちの世界で隣に行けたのかもしれない。そのルールは良く分からないけれど。
『良く思いついたね。ね、写真見せて』
向こうの教室に向かって「ほら」と櫻井がスマホ画面を見せた。
すると、後ろにいたはずのモナリザとベートーベンが一瞬で背面黒板いっぱいに出現した。
あまりの迫力に「うわぁ!」と声を上げて櫻井が転んだ。
「おい! 櫻井、大丈夫か⁉」
櫻井を起こしながら、背面黒板から目が離せない。これは、正直怖い。こいつらはお化けなのだと実感する。
『ちょっと! モナリザさん、ベートーベンさん、櫻井君と藤沢君が困っているよ。怪我でもしたら大変だよ』
小田の声がするとモナリザとベートーベンが小さくなった。サイズダウンしてフルフル震えるモナリザとベートーベンが滑稽だ。
「ああ、大丈夫。藤沢、こりゃビビるよな」
ははは、と笑う櫻井の顔が引きつっている。その気持ちは痛いほどわかる。あの大迫力お化けを間近で見たら僕も腰を抜かす。僕は少し離れた距離で良かった、と心から思う。
『あの、ゴメンなさいって二人が言ってるから。驚かすつもりは無くて、って』
カクカク不安気に震える二人を見ると、お化けなのに可愛くも見えてくる。隣同士で仲良さげなのがちょっと嬉しい。
「よいしょ。ほら、ゆっくり見て」
僕の手を取り起き上った櫻井が、パンパンとズボンを叩く。そしてスマホの写メ画面を向こうに見せた。
今後は二人が巨大化せずに画面に近づいている。いつも微笑んでいるモナリザがさらにフワッと笑った気がした。その優しい表情に一瞬ドキリとする。
櫻井は見ただろうか。彼に目を向けると、愛おしそうな表情を浮かべていた。
「綺麗な、青が見える……」
呟くような櫻井の言葉が耳に届いた。僕の脳裏に描きかけの櫻井の絵がフラッシュバックした。
櫻井に声が掛けられず、静かな時間が流れた。
「モナリザの絵はラピスラズリの顔料が使われていて、もともとは今より青が強かったらしいんだ」
美術室で筆を使う櫻井は饒舌だ。
「ふうん」
櫻井の意識は目の前の筆に集中している。真剣な横顔が凛々しい。
「さっき、これ以上ない美しい青色が差したんだ。これが、俺が描きたい色だってピンときた。今なら、描ける。大丈夫だ」
「そっか」
強い光が櫻井の瞳に宿っている。櫻井は絵が好きなのだと伝わってくる。キャンバスの青は相変わらず美しい。
「俺にしか描けない青が欲しかったんだ。さっき見えた青は、人生で最高の青だ」
滑らかに滑る筆。櫻井の強い表情。夢中に絵に向かう姿が輝いているようだ。
――櫻井、描けて良かったな。
邪魔をしたくないから言葉にしないけれど、櫻井の気持ちが動いて嬉しい。壁を見上げて、モナリザの絵に微笑みを向けた。
ありがとう。
そう心で伝えると、やはりモナリザは微笑みを返してくれたように見えた。
ま、モナリザの微笑は見る角度で変わると言われているし、本当に僕に微笑んだわけじゃないだろうけど。そう思いながら、頬が緩んで仕方がなかった。
だけど――。
一瞬、背筋がぞわりとした。
身体の奥底に氷を投げ入れられたような心臓がキュッと冷える感覚。
僕は後ろを向けなかった。そこに何かがいるのが分かるから。それを今、見てはいけない。僕の脳内に警鐘が響く。身体が動かなくて手がカタカタ震える。
『邪魔を、するな』
低い男性の声が耳元に聞こえた。たらり、と汗が頬を伝う。恐怖に唇の内側を噛んだ。悲鳴が上げられない。すぐそばの櫻井は絵に夢中だ。気が付いてくれ!
必死に櫻井に視線を送った。絵に向かう櫻井がとても遠くに感じた。
「藤沢?」
櫻井の声に全身がビクリと跳ねた。僕の周りから恐怖の塊が離れていくのが分かった。急に心臓がバクバクと速くなる。
「あ……」
大きく呼吸をすると、怪訝な顔をした櫻井が席を立った。
「どうした? 何かあった?」
櫻井は何も感じなかったのだろうか。
「今の、聞こえた?」
「え? 俺には何も聞こえなかったけど」
「邪魔するなって。すっげ、怖いやつがいる。あれは、ヤバいぞ」
櫻井が美術室をぐるりと見渡す。
「今日はもう帰ろう」
櫻井が急に僕の肩に接触してきた。何するんだ、と言いたかったが、肩に腕をまわされて気がついた。
僕の全身がカタカタと震えていた。
こんなに早くに来ている生徒はいない。職員室に教頭先生がいるくらいだ。この静かな教室に独りは怖い。早く櫻井が来ないかとソワソワした。
少しすると、ガタッと教室の扉の音がして櫻井が入って来た。途端に気持ちがホッと落ち着く。
「藤沢、おはよ」
「おう、おはよ。まずは音楽室の鍵だ。行こう」
「オケ。焦らずだ。物を壊すとか、怪我をするとか絶対だめだからな」
逸る気持ちを抑えて特別教室棟に向かい、音楽室の鍵を開けた。去年と変わらない部活用の鍵保管で助かった。
次に美術室に向かう。うまく行きますように。誰にも見られませんように。そう願った。
心臓がバクバクと全力疾走している。悪い事をしているような汗の出る緊張感。手がブルブルする。
「おい、藤沢。落ち着け。ビビッてんな。モナリザの絵を運ぶのに落としたら困る」
「分かってる」
以前ならイラついていた櫻井の言葉を自然に流せる。この言葉が意地悪じゃない事を、僕はもう知っているから。
脚立を使ってモナリザの絵を壁から外した。外すのは櫻井がしてくれた。
絵は一人で抱えられる程度の大きさだ。ホコリが多いと文句を言いながらも、音楽室まで交代で持ちながら絵を運んだ。
「はい。少しの時間だけど」
ベートーベンの絵が見上げられる位置にモナリザを置く。時間は七時五十分。あと十分で戻さなければ登校してくる生徒に見られてしまう。
時計とにらめっこをしてしばらく待った。こちらの世界では、ただ絵を置いただけで変化は無い。あちらの世界では何かが起きているのだろうか。
「うん。お似合いじゃんか。平面の恋だ」
パシャリと櫻井が写メを撮る音がした。
「どうせなら二つの絵を並べてあげたいな。それをスマホで撮るとか。で、むこうに見せる」
「向こうの世界にケータイ画面見せるのか! 藤沢、いいな、それ。お化けに現代の電子機器を見せる奴なんて俺らくらいだ」
「それ最高に面白いって! お化けとスマホ! 絵を戻すときにさ、僕がちょっと近くに掲げるから櫻井撮ってよ」
「おう。落とすなよ」
そんなことを言っているうちに八時になる。急げと言い合いながら写メを撮り、見られないようにモナリザの絵を戻した。
朝から一仕事終えた達成感で気分が良かった。
早く小田のいる教室を見たい。モナリザの反応はどうだったのだろう。ベートーベンとうまく行ったのだろうか。
人の恋路を楽しんではいけないけれど、ちょっとソワソワした。放課後が楽しみだった。
放課後。
「藤沢、ちょいドキドキする。何だこのトキメキは!」
「あはは! 櫻井、女子か。と言う僕も気になって仕方ない」
あちらの世界の恋事情などに興奮するなんておかしいけれど。なんというか、ソワソワ感が止まらない。早く教室が見えると良い。そんな期待をして二人で後ろを見ている。
背面黒板が徐々に薄くなって、向こうに教室が見える。
「小田! 待ってたぞ。そっちはどう?」
まだ向こうがハッキリ見えていないのに我慢できず声を掛けた。
黒板のすぐ側に小田がいる。
『こっちはスゴいよ。ね、何したの⁉』
小田が興奮気味に黒板に引っ付いている。
「すごいって、何が?」
『ほら!』
小田が教室の後ろを指さすと、モナリザとベートーベンが並んでいる。隣で寄り添って話をしているようだ。
「これは、上手くいったんじゃないか?」
櫻井が口元をニヤつかせる。その表情が露骨すぎてこちらまでニヤけてしまいそうになる。僕の口元が緩んでいないか心配になり、慌てて手で口を隠した。
『どうしてか、横に並べるようになったんだ。モナリザさんは大喜びしていたよ。ベートーベンさんの渋さが素敵なんだって』
最後の方は声を小さくしてこちらに話す小田は嬉しそうだ。それが生き生きして見えて複雑になる。こちらの世界で小田がこれほど楽しそうにしていた事は無いから。
「もしかして、絵を並べた写真とったから、そっちで並べるのかな」
そうか、と納得する。二次元の彼らは、写真の中で横並びしたことで、あっちの世界で隣に行けたのかもしれない。そのルールは良く分からないけれど。
『良く思いついたね。ね、写真見せて』
向こうの教室に向かって「ほら」と櫻井がスマホ画面を見せた。
すると、後ろにいたはずのモナリザとベートーベンが一瞬で背面黒板いっぱいに出現した。
あまりの迫力に「うわぁ!」と声を上げて櫻井が転んだ。
「おい! 櫻井、大丈夫か⁉」
櫻井を起こしながら、背面黒板から目が離せない。これは、正直怖い。こいつらはお化けなのだと実感する。
『ちょっと! モナリザさん、ベートーベンさん、櫻井君と藤沢君が困っているよ。怪我でもしたら大変だよ』
小田の声がするとモナリザとベートーベンが小さくなった。サイズダウンしてフルフル震えるモナリザとベートーベンが滑稽だ。
「ああ、大丈夫。藤沢、こりゃビビるよな」
ははは、と笑う櫻井の顔が引きつっている。その気持ちは痛いほどわかる。あの大迫力お化けを間近で見たら僕も腰を抜かす。僕は少し離れた距離で良かった、と心から思う。
『あの、ゴメンなさいって二人が言ってるから。驚かすつもりは無くて、って』
カクカク不安気に震える二人を見ると、お化けなのに可愛くも見えてくる。隣同士で仲良さげなのがちょっと嬉しい。
「よいしょ。ほら、ゆっくり見て」
僕の手を取り起き上った櫻井が、パンパンとズボンを叩く。そしてスマホの写メ画面を向こうに見せた。
今後は二人が巨大化せずに画面に近づいている。いつも微笑んでいるモナリザがさらにフワッと笑った気がした。その優しい表情に一瞬ドキリとする。
櫻井は見ただろうか。彼に目を向けると、愛おしそうな表情を浮かべていた。
「綺麗な、青が見える……」
呟くような櫻井の言葉が耳に届いた。僕の脳裏に描きかけの櫻井の絵がフラッシュバックした。
櫻井に声が掛けられず、静かな時間が流れた。
「モナリザの絵はラピスラズリの顔料が使われていて、もともとは今より青が強かったらしいんだ」
美術室で筆を使う櫻井は饒舌だ。
「ふうん」
櫻井の意識は目の前の筆に集中している。真剣な横顔が凛々しい。
「さっき、これ以上ない美しい青色が差したんだ。これが、俺が描きたい色だってピンときた。今なら、描ける。大丈夫だ」
「そっか」
強い光が櫻井の瞳に宿っている。櫻井は絵が好きなのだと伝わってくる。キャンバスの青は相変わらず美しい。
「俺にしか描けない青が欲しかったんだ。さっき見えた青は、人生で最高の青だ」
滑らかに滑る筆。櫻井の強い表情。夢中に絵に向かう姿が輝いているようだ。
――櫻井、描けて良かったな。
邪魔をしたくないから言葉にしないけれど、櫻井の気持ちが動いて嬉しい。壁を見上げて、モナリザの絵に微笑みを向けた。
ありがとう。
そう心で伝えると、やはりモナリザは微笑みを返してくれたように見えた。
ま、モナリザの微笑は見る角度で変わると言われているし、本当に僕に微笑んだわけじゃないだろうけど。そう思いながら、頬が緩んで仕方がなかった。
だけど――。
一瞬、背筋がぞわりとした。
身体の奥底に氷を投げ入れられたような心臓がキュッと冷える感覚。
僕は後ろを向けなかった。そこに何かがいるのが分かるから。それを今、見てはいけない。僕の脳内に警鐘が響く。身体が動かなくて手がカタカタ震える。
『邪魔を、するな』
低い男性の声が耳元に聞こえた。たらり、と汗が頬を伝う。恐怖に唇の内側を噛んだ。悲鳴が上げられない。すぐそばの櫻井は絵に夢中だ。気が付いてくれ!
必死に櫻井に視線を送った。絵に向かう櫻井がとても遠くに感じた。
「藤沢?」
櫻井の声に全身がビクリと跳ねた。僕の周りから恐怖の塊が離れていくのが分かった。急に心臓がバクバクと速くなる。
「あ……」
大きく呼吸をすると、怪訝な顔をした櫻井が席を立った。
「どうした? 何かあった?」
櫻井は何も感じなかったのだろうか。
「今の、聞こえた?」
「え? 俺には何も聞こえなかったけど」
「邪魔するなって。すっげ、怖いやつがいる。あれは、ヤバいぞ」
櫻井が美術室をぐるりと見渡す。
「今日はもう帰ろう」
櫻井が急に僕の肩に接触してきた。何するんだ、と言いたかったが、肩に腕をまわされて気がついた。
僕の全身がカタカタと震えていた。


