今朝もスマホのバイブレーションで目を覚ます。手のひらでスマホの在りかを探し、スマホの目覚ましを止めた。そして、当たり前のように表示されたロック画面にパスコードを入力。メッセージアプリの通知を消していく。
「あ、母さんからだ」
適当に通知を確認していると、母さんから連絡が来ていた。
『おはよう。不安にさせてごめんね。真帆のことばあちゃんから聞いた。一人にさせて本当にごめんね。今日の夜のごはんは作るから朝とお昼はそっちで済ませてね。ごめんね』
何で母さんが謝るんだ。こんな状況になったのは、俺たちにこのような壁を与えた神が悪い。
「今日の夕飯は昨日の夕飯でいいのに」
昨日は夕飯を全くと言っていいほど手に付けていない。温めれば食べられる。
『昨日の夕飯があるから、無理しないでよ』
『ありがとう、浬』
メッセージを送るとすぐに既読が付き返事が来た。あまりの返信の速さに「不安で眠れていないのか」とすら思った。聞こうにも聞きづらいこの疑問に俺は聞かない選択をした。
「おはよう……」
下に降りると誰もいない。俺の挨拶に返事がない。いつもなら俺が起きる頃には朝ごはんを作る母の姿、眠くて泣き始める真帆の姿もない。俺の呼吸すらはっきりと聞こえるダイニングで、俺はポットに水を注ぎスイッチを入れた。お湯を沸かしている間に、棚から出したカップ麺の準備に取り掛かる。あくびの止まらない朝。テレビをつけて、一人の朝を過ごす。
「一人ってこんなに静かなんだな……」
カチっという音が聞こえ、カップ麺に注ぐ。家の雨戸を開けていると三分はあっという間に過ぎていく。
「いただきます」
蓋を開けて麺をすする。久しぶりにカップ麺を食べたので何だか懐かしい。
朝ごはんを食べ終え、ハンガーから制服を取る。まだ高校に入学して日が浅い。だが中学も制服だったので、手順はだいたい慣れてる。ネクタイを結びながら歯磨きをするため洗面所へ。朝の準備諸々を済ませ俺は自宅を出る。いつもは母さんがお弁当を作ってくれていたが、今日は通学途中にあるコンビニでお昼ご飯を購入。桜吹雪が風に乗り流れていく。朝の満員電車に揺られながら、春の景色を見送る。
窓の開いた教室に春の風が流れ込み、新たな扉が開く。
「……結城、だっけ?」
「……え?あ、ごめん……何か言った?」
高校に入学して初めての授業。チャイムが鳴るのを大人しく待ちながら外を眺めていると、前の席に座る一人の生徒が話しかけてきた。
「結城って外眺めるの好きだよね。なんかずっと見てない?」
ニコニコしながら俺に話しかけてくるこの人。「何見てるの?」と彼も外に視線を向ける。しかし、俺の頭には一つの疑問が浮かんだ。
(この人の名前……、なんだっけ……?)
高校という新しい環境に無防備で放り出されたことへの期待と不安、そして見守る家族のこれから。見えない将来を想像しながら過ごしていく。そのことばかり考えていたせいで、クラスメイトの自己紹介をほとんど聞いていなかった。実際、俺に順番が回ってくるまで意識はほとんど俺の悩みに向いていた。
「さっきなんか言った?」
「いや、ちょっと話してみたいなって思って。ほら、俺の席結城の前だからさ」
「……あ、そっか。よろしくね」
もはや礼儀の作り笑顔で何とか俺は彼と話を続けていく。彼がおしゃべりなおかげで、俺は相づちをするだけで済む。そして次第に俺の机の周りに人が集まる。多分、彼の友達だ。そして、その友達との会話から俺の前の席に座る彼の名字が「山本」だということが分かった。
彼らのおかげで俺はクラスにも馴染み、だんだん友達も増えていった。「チャラい」と思われてもいい。とにかく自分の環境を悟られないよう、できるだけ明るく振舞うように意識した。だが基本的に俺の隣にいることが多いのは、やはり山本たちだった。しかし、俺からは近づかない。なぜなら向こうから勝手に俺のところへ来るから。それに俺は知っている。
「いやー、結城がいるとなんか得した感あるよな」
「だよなー、顔も性格もイケメンで勉強もできて。マジで勝ち組だろ」
「このまま一緒にいれば、あいつのオーラ吸い取ってイケメンになれそう」
俺は彼らのいいように使われている。その場に俺がいなければ、みんなこうなるのだ。どいつもこいつも俺がそこにいないからと、好き勝手言いやがって。彼らは「結城浬といる自分たち」が好きなのだろう。だったら好きなだけいればいい。俺は彼らに何も与えるつもりはない。だから、俺にはどうでもいいのだ。花に群がる虫のように、勝手に集まって勝手に離れていく存在となるがいい。ときどき俺の中に現れる悪魔の俺。“俺”という悪魔を召還させながら教室から聞こえる彼らの話に耳を傾ける。
「だってあいつ、あのAQUAにスカウトされたんだろ?」
「そうそう。イケメンだし、ギターもめっちゃ上手いし。それにさ、よく考えれば結城って下の名前が『浬』だから海とか水に関係するじゃん。そりゃ、AQUAも放っておかないよな」
「未だに信じられねーよ。あの『絶対新メンバー入れない』ってフレーズで有名なバンドが」
「『結城争奪戦』ってやつだろ?自分を巡って争いとかされてみてー」
俺が外で聞いてるとも知らないで、可哀想に。彼らのおしゃべりは止まらない。俺はそのバンドの練習に向かう途中で忘れ物に気付き、教室に取りに行こうとしたのにこれでは教室に入ろうにも入れない。
「早く帰れよ……」
このような情報は一体どこから漏れはじめるのだろうか。自分の知らないところで、自分の情報が独り歩きされると、普通に困るし迷惑だ。いつどこで情報が食い違うか分からないのに、面白がっているやつらはそんなのお構いなしに話題で取り上げる。そして、いろいろ話した話題は休日の予定へと移り変わる。
(取るなら今か)
俺は教室に入り、自分の机の中を覗く。突然教室に入ってきた俺に、彼らは雑談を止める。
「やっぱりここにあった……」
楽譜の入っているファイルを回収した俺は、彼らに話しかけること無く教室を出ていく。誰かから「結城」と呼ばれた気がするが聞こえないふり。彼らに時間を割くくらいなら少しでもギターに触れたい。
――未だに信じられねーよ。あの『絶対新メンバー入れない』ってフレーズで有名なバンドが
これは俺も同感だ。俺もまさか、あのAQUAに、憧れのAQUAに声をかけてもらえるとは思っていなかったのだから。
中学。
共学だったために、この顔で俺は苦労してきた。少し動けば常に女子からの痛い視線を感じるし、それが発端で男子たちの嫉妬もこちらに向かう。だが、俺は何もしなかった。なぜなら俺は何もしていないのだから。俺は何も悪くないと思っていた。それが逆効果だったのか、真正面から馬鹿にされることが多かった。どうしたら俺は彼らに勝てるのか。そう考えたときにまず浮かんだのが「勉強」だった。勉強して周りよりもいい点数を取れば、俺は堂々としていられると思った。だから俺は勉強を頑張った。定期テストでもよい結果を残した。勉強は努力が結果に結び付きやすい。努力が実る瞬間に快感を覚えてしまった俺は、勉強の目的がいつの間にか「見返すため」ではなく、「またあの瞬間を味わいたいから」という理由に変わっていた。もちろん、この頃にはもう誰も俺を馬鹿にしてこなくなった。むしろ、「結城様、勉強教えて下さい……!!」とまるで神のような扱いを受けるほどの出世に成功。これにはさすがにどう対応すれば良いか分からなかったが、俺にしては比較的平和で俺の思い描いていたものに近い日々を過ごせていたと思う。中学二年生の秋までは。
中学二年の秋。父さんが病気になった。本人から聞いた。病院で検査し「大腸がん」という診断結果を受けたらしい。しかも、ステージ4。逆にそこまで進行していたのによく今まで気付かなかったなと思ったが、調べてみると父さんのようなケースは珍しくないらしい。意外だと思った。そしてとんとんと話は進み父さんは入院することになった。週に一度、時間ができたら見舞いに行った。時には妹を妊娠していた母さんも連れて、俺は病院に足を運ぶ。会うたびに少しずつ痩せている気がするも、俺は何も言わなかった。俺が来ると「浬!」と嬉しそうに名前を呼んでくれる。それが嬉しかったから。「元気でよかった」と安心する。
「水帆の体調はどうだ?」
「母さんなら大丈夫だよ。予定日も近いから、準備し始めてる」
「そうか……。ならよかった。心配かけてごめんな」
「俺は別に……。てか、これ母さんから」
父さんは以前お見舞いに来た時、妊娠中の母さんに体調や生まれてくる子のことを考え「病院に来なくていい」と言っていた。そこで母さんは俺に手紙を届けるよう頼んできた。それ以降、毎週母さんの手紙を持って病院へ向かう。手紙を受け取る父さんもあるときから受け取るだけではなく、母さんに返事を書くようになった。インターネットが発展したこの時代に手紙のやり取りはなかなか見かけない光景。母さんに届ける言葉を歪な文字に託す父さんの姿になんだか胸を締め付けられる。ゆっくりと時間をかけて完成させた手紙を母さんは嬉しそうに読んでいる。たとえ会えなくてもこの二人は愛し合っていると、繋がっていると、こんなに確信できる場面は今まで見たことがない。それが俺の両親だ。
それから、無事に妹も生まれ退院した母が外出許可をもらった父さんに会いに行く。夏の暑さをじわじわと感じるこの季節。
「真帆ー、この人がお父さんだよー」
数ある名前の候補から母さんが選んだのは、父さんが提案した「真帆」だった。真帆の名前に関するやり取りは母さんとの手紙でしていた。父さんが病室で名前を楽しそうに考えていたのを俺は知ってる。俺の時と同じように、父さんがつけてくれたことに誇りを感じる。
「無事に生まれてきてくれてよかったよ……」
生後まもない娘を車いすに座りながら抱きかかえる父さんの流した涙を俺は忘れない。それから奇跡的に退院できた父さんは俺が見る限りずっと真帆を抱っこしている。それを嬉しいと感じる。きっと父さんの病気が快復の兆しが見えたのは真帆の存在は不可欠だ。真帆が生まれ自分も生きなければと生きる希望を見つけたから。
(この光景がずっと続けばいいのに……)
幸福の度合いが高まっていく。父さんの影響で中学から始めたギター。この弦でできた傷をも愛おしく感じるほどに、俺の感覚も狂っていく。
「再発……?」
「うん、しかも肺に転移したんだって」
気づいた、俺の幸せはピークを越えたと。あの頃が一番幸せだったかもしれない。家の中が騒がしくて、真帆の成長に目が離せなくて。それが、一気に現実へと引き戻される。思えばこの頃から、母さんと会うことが少なくなった。仕事と病院の行き来が俺たちを引き離すようにタイミングが合わない。いつからだろうか。気づけば、遅くに帰宅する母さんの夕飯を作るようになった。徐々に料理の腕も上がる。全く嬉しくない。ただ腹を満たすための夕飯だ。食材を炒めて、調味料を入れて、白米を焚いて。ここに感情は何もない。こんな真っ黒な感情の入り混じった俺の料理は、母さんの舌に合っているのだろうか。真帆も母さんと一緒にいたいだろうに、「抱っこして」というわがままを簡単に叶えてもらえない。父親もいない。家族を最後の最後まで追い込んでいく。
そして、俺は高校に入学した。それから、しばらくして父さんが死んだ。一瞬だった。徐々に弱っていく父の姿を見ていたが、容体が悪化し、そのまま目を覚まさなかった。大好きで憧れの存在だったはずなのに、なぜか涙は出なかった。ギターの弦が切れるみたいに、繋いでいたものはいつか途切れる。それに慣れていたから受け入れるしかないと思っていた。でも、命は取り換えることはできない。それ以上に取り残された母さん、真帆が心配だった。家では常に誰かしらの泣き声が聞こえる。夫を失ったことを受け入れられない母さん、不機嫌で家族に何かを伝えようとしている真帆。こんなの、俺が悲しんでいる場合ではなくなる。俺は支えなければならない。父さんが守っていたものをこれからは俺が守らなければいけない。その責任感が悲しみを奪っていく。
「音が鈍い……」
自分に「いつも通りでいなければ」と呪いをかけるように勉強に打ち込む。その間ギターから離れていた俺は、ふと手にしたギターの音が鈍くなっていることに気付いた。そろそろ弦も替え時だと分かっていた。気分転換に新しい弦に取り換えに行こうと靴を履き紐を結んだ。ギターをお店に預け、弦の交換を待ちながら、その辺をふらふら散歩する。
(ゆっくりするの久しぶりな気がする……)
雲がゆっくりと青空を過ぎていく様子に平穏な日常を思い出す。あの頃は幸せだったなという余韻、消えることのない涙の味、汗ばむ気温。覚えていても、忘れてしまうのだろうか。
「そろそろいいかな……」
新しい弦がついたギターを受け取り、音を確かめる。これが俺の求めていた音だ。優しく、大切な言葉を語り掛けるように俺の心に届く。
「お客様……、どうされましたか……⁉」
「……すいません……」
まさか、こんなとこで溢れるなんて。懐かしい音に涙が止まらなくなった。父さんが教えてくれたこの音。昔の俺を思い出す。父さんの趣味でギターのことを教わっていたあの頃の記憶。小さいときは手が痛くてやめた記憶。嗜むくらいがちょうどいいと中学の部活には入らなかった記憶。魂だけがあの頃に戻れたら。もっとたくさんあの人に俺のギターの音を聞かせてあげられたのだろうか。たくさん練習していれば今よりももっとうまくなっていたのではないか。そんなことばかり考えてしまう。
だから俺は高校で軽音部に入った。軽音部なら一人でやるよりもうまくなれると思ったから。実際俺は自分のギターの腕が上がっていると感じる場面がたまにある。何よりこの高校の軽音部に憧れのバンドがあったから。それがAQUAだ。中学の頃からネットでギターの上達を調べているうちに俺と年齢が近いのにとんでもない実力を持っているバンドとして彼らを知った。そしてある時、動画サイトに上げられていた演奏の動画を見た。眩しくて、楽器を触る彼らはとにかく楽しそうで、こんな演奏をしてみたいと思うようになった。そんな憧れから始まった俺の軽音部員としての生活は一人の先輩との出会いでガラリと変わる。
「きみさ、前から思ってたんだけど、ギターうまいよね」
「え……⁉」
放課後、部活のない日に部室でギターのチューニングをしていると、そう話しかけてくる一人の男性。AQUAのキーボード担当、浅野先輩だ。
「ギター、いつからやってるの?」
「えっと……中学からです」
「へー、そっか。そりゃうまくなるわな」
初めて言葉を交わした。憧れの人と。先輩の質問にいくつか答えていると、部室に次々とAQUAのメンバーがやってくる。俺には神様のような存在、簡単に拝んではならないのに。そんな彼らが、俺の周りに集まる。
「あれ、結城くんじゃん。何してるの?今日休みなのに」
「チューニングしてて。皆さんこそ、何してるんですか……?」
「俺たちは自主練しに」
「そうなんですね」
緊張で何も出てこない。先輩たちの会話に入るのはまずいと彼らの会話にリアクションする。この空間の「帰りたくない」のに「帰りたい」と思うこの矛盾に名前を付けてほしい。
「ねえねえ、俺結城の演奏聴きたい」
「え、今ですか……?」
「おい岬、いきなり何言ってるんだよ」
AQUAのドラムを担当している岬先輩の唐突なお願いに浅野先輩が「ごめんね」と謝る。しかし、よく考えるとこの神のメンツ全員が揃っているこの状況で俺の演奏を聴いてもらえることはこの先一生ないのではないか。失敗したときの恐怖はあるが、やってみようか。
「あの、よかったら聴いてくれませんか」
優しい先輩たちに見守られながら俺はギターを弾く。俺の好きな有名アーティストの曲をカバーした。普段ならもっとうまくできたと思う。この人たちを目の前にしたことで、ギターの音も歌も若干ずれた。満足のできる出来栄えには程遠い。
「結城うまいな。高校一年にしてはうまいわ」
「分かる。俺歌声も好き」
俺の演奏に先輩たちが褒めちぎってくれた。きっと俺がそう言わせているのだろう。社交辞令として当然の言葉でも、俺には嬉しくこれだけでギターを続けていくモチベーションになる。
「やっぱり、浅野の目はすげーな。間違ってないわ」
「でしょ?」
彼らの会話についていけない。よく分からないが、浅野先輩が何か予測して動いていたということは想像できるが、一体何を予測したのだろうか。
「ねえ、結城。お前さ、AQUAに入らない?」
「……え?」
浅野先輩が俺の目を見てそう言ってきた。
「あ、母さんからだ」
適当に通知を確認していると、母さんから連絡が来ていた。
『おはよう。不安にさせてごめんね。真帆のことばあちゃんから聞いた。一人にさせて本当にごめんね。今日の夜のごはんは作るから朝とお昼はそっちで済ませてね。ごめんね』
何で母さんが謝るんだ。こんな状況になったのは、俺たちにこのような壁を与えた神が悪い。
「今日の夕飯は昨日の夕飯でいいのに」
昨日は夕飯を全くと言っていいほど手に付けていない。温めれば食べられる。
『昨日の夕飯があるから、無理しないでよ』
『ありがとう、浬』
メッセージを送るとすぐに既読が付き返事が来た。あまりの返信の速さに「不安で眠れていないのか」とすら思った。聞こうにも聞きづらいこの疑問に俺は聞かない選択をした。
「おはよう……」
下に降りると誰もいない。俺の挨拶に返事がない。いつもなら俺が起きる頃には朝ごはんを作る母の姿、眠くて泣き始める真帆の姿もない。俺の呼吸すらはっきりと聞こえるダイニングで、俺はポットに水を注ぎスイッチを入れた。お湯を沸かしている間に、棚から出したカップ麺の準備に取り掛かる。あくびの止まらない朝。テレビをつけて、一人の朝を過ごす。
「一人ってこんなに静かなんだな……」
カチっという音が聞こえ、カップ麺に注ぐ。家の雨戸を開けていると三分はあっという間に過ぎていく。
「いただきます」
蓋を開けて麺をすする。久しぶりにカップ麺を食べたので何だか懐かしい。
朝ごはんを食べ終え、ハンガーから制服を取る。まだ高校に入学して日が浅い。だが中学も制服だったので、手順はだいたい慣れてる。ネクタイを結びながら歯磨きをするため洗面所へ。朝の準備諸々を済ませ俺は自宅を出る。いつもは母さんがお弁当を作ってくれていたが、今日は通学途中にあるコンビニでお昼ご飯を購入。桜吹雪が風に乗り流れていく。朝の満員電車に揺られながら、春の景色を見送る。
窓の開いた教室に春の風が流れ込み、新たな扉が開く。
「……結城、だっけ?」
「……え?あ、ごめん……何か言った?」
高校に入学して初めての授業。チャイムが鳴るのを大人しく待ちながら外を眺めていると、前の席に座る一人の生徒が話しかけてきた。
「結城って外眺めるの好きだよね。なんかずっと見てない?」
ニコニコしながら俺に話しかけてくるこの人。「何見てるの?」と彼も外に視線を向ける。しかし、俺の頭には一つの疑問が浮かんだ。
(この人の名前……、なんだっけ……?)
高校という新しい環境に無防備で放り出されたことへの期待と不安、そして見守る家族のこれから。見えない将来を想像しながら過ごしていく。そのことばかり考えていたせいで、クラスメイトの自己紹介をほとんど聞いていなかった。実際、俺に順番が回ってくるまで意識はほとんど俺の悩みに向いていた。
「さっきなんか言った?」
「いや、ちょっと話してみたいなって思って。ほら、俺の席結城の前だからさ」
「……あ、そっか。よろしくね」
もはや礼儀の作り笑顔で何とか俺は彼と話を続けていく。彼がおしゃべりなおかげで、俺は相づちをするだけで済む。そして次第に俺の机の周りに人が集まる。多分、彼の友達だ。そして、その友達との会話から俺の前の席に座る彼の名字が「山本」だということが分かった。
彼らのおかげで俺はクラスにも馴染み、だんだん友達も増えていった。「チャラい」と思われてもいい。とにかく自分の環境を悟られないよう、できるだけ明るく振舞うように意識した。だが基本的に俺の隣にいることが多いのは、やはり山本たちだった。しかし、俺からは近づかない。なぜなら向こうから勝手に俺のところへ来るから。それに俺は知っている。
「いやー、結城がいるとなんか得した感あるよな」
「だよなー、顔も性格もイケメンで勉強もできて。マジで勝ち組だろ」
「このまま一緒にいれば、あいつのオーラ吸い取ってイケメンになれそう」
俺は彼らのいいように使われている。その場に俺がいなければ、みんなこうなるのだ。どいつもこいつも俺がそこにいないからと、好き勝手言いやがって。彼らは「結城浬といる自分たち」が好きなのだろう。だったら好きなだけいればいい。俺は彼らに何も与えるつもりはない。だから、俺にはどうでもいいのだ。花に群がる虫のように、勝手に集まって勝手に離れていく存在となるがいい。ときどき俺の中に現れる悪魔の俺。“俺”という悪魔を召還させながら教室から聞こえる彼らの話に耳を傾ける。
「だってあいつ、あのAQUAにスカウトされたんだろ?」
「そうそう。イケメンだし、ギターもめっちゃ上手いし。それにさ、よく考えれば結城って下の名前が『浬』だから海とか水に関係するじゃん。そりゃ、AQUAも放っておかないよな」
「未だに信じられねーよ。あの『絶対新メンバー入れない』ってフレーズで有名なバンドが」
「『結城争奪戦』ってやつだろ?自分を巡って争いとかされてみてー」
俺が外で聞いてるとも知らないで、可哀想に。彼らのおしゃべりは止まらない。俺はそのバンドの練習に向かう途中で忘れ物に気付き、教室に取りに行こうとしたのにこれでは教室に入ろうにも入れない。
「早く帰れよ……」
このような情報は一体どこから漏れはじめるのだろうか。自分の知らないところで、自分の情報が独り歩きされると、普通に困るし迷惑だ。いつどこで情報が食い違うか分からないのに、面白がっているやつらはそんなのお構いなしに話題で取り上げる。そして、いろいろ話した話題は休日の予定へと移り変わる。
(取るなら今か)
俺は教室に入り、自分の机の中を覗く。突然教室に入ってきた俺に、彼らは雑談を止める。
「やっぱりここにあった……」
楽譜の入っているファイルを回収した俺は、彼らに話しかけること無く教室を出ていく。誰かから「結城」と呼ばれた気がするが聞こえないふり。彼らに時間を割くくらいなら少しでもギターに触れたい。
――未だに信じられねーよ。あの『絶対新メンバー入れない』ってフレーズで有名なバンドが
これは俺も同感だ。俺もまさか、あのAQUAに、憧れのAQUAに声をかけてもらえるとは思っていなかったのだから。
中学。
共学だったために、この顔で俺は苦労してきた。少し動けば常に女子からの痛い視線を感じるし、それが発端で男子たちの嫉妬もこちらに向かう。だが、俺は何もしなかった。なぜなら俺は何もしていないのだから。俺は何も悪くないと思っていた。それが逆効果だったのか、真正面から馬鹿にされることが多かった。どうしたら俺は彼らに勝てるのか。そう考えたときにまず浮かんだのが「勉強」だった。勉強して周りよりもいい点数を取れば、俺は堂々としていられると思った。だから俺は勉強を頑張った。定期テストでもよい結果を残した。勉強は努力が結果に結び付きやすい。努力が実る瞬間に快感を覚えてしまった俺は、勉強の目的がいつの間にか「見返すため」ではなく、「またあの瞬間を味わいたいから」という理由に変わっていた。もちろん、この頃にはもう誰も俺を馬鹿にしてこなくなった。むしろ、「結城様、勉強教えて下さい……!!」とまるで神のような扱いを受けるほどの出世に成功。これにはさすがにどう対応すれば良いか分からなかったが、俺にしては比較的平和で俺の思い描いていたものに近い日々を過ごせていたと思う。中学二年生の秋までは。
中学二年の秋。父さんが病気になった。本人から聞いた。病院で検査し「大腸がん」という診断結果を受けたらしい。しかも、ステージ4。逆にそこまで進行していたのによく今まで気付かなかったなと思ったが、調べてみると父さんのようなケースは珍しくないらしい。意外だと思った。そしてとんとんと話は進み父さんは入院することになった。週に一度、時間ができたら見舞いに行った。時には妹を妊娠していた母さんも連れて、俺は病院に足を運ぶ。会うたびに少しずつ痩せている気がするも、俺は何も言わなかった。俺が来ると「浬!」と嬉しそうに名前を呼んでくれる。それが嬉しかったから。「元気でよかった」と安心する。
「水帆の体調はどうだ?」
「母さんなら大丈夫だよ。予定日も近いから、準備し始めてる」
「そうか……。ならよかった。心配かけてごめんな」
「俺は別に……。てか、これ母さんから」
父さんは以前お見舞いに来た時、妊娠中の母さんに体調や生まれてくる子のことを考え「病院に来なくていい」と言っていた。そこで母さんは俺に手紙を届けるよう頼んできた。それ以降、毎週母さんの手紙を持って病院へ向かう。手紙を受け取る父さんもあるときから受け取るだけではなく、母さんに返事を書くようになった。インターネットが発展したこの時代に手紙のやり取りはなかなか見かけない光景。母さんに届ける言葉を歪な文字に託す父さんの姿になんだか胸を締め付けられる。ゆっくりと時間をかけて完成させた手紙を母さんは嬉しそうに読んでいる。たとえ会えなくてもこの二人は愛し合っていると、繋がっていると、こんなに確信できる場面は今まで見たことがない。それが俺の両親だ。
それから、無事に妹も生まれ退院した母が外出許可をもらった父さんに会いに行く。夏の暑さをじわじわと感じるこの季節。
「真帆ー、この人がお父さんだよー」
数ある名前の候補から母さんが選んだのは、父さんが提案した「真帆」だった。真帆の名前に関するやり取りは母さんとの手紙でしていた。父さんが病室で名前を楽しそうに考えていたのを俺は知ってる。俺の時と同じように、父さんがつけてくれたことに誇りを感じる。
「無事に生まれてきてくれてよかったよ……」
生後まもない娘を車いすに座りながら抱きかかえる父さんの流した涙を俺は忘れない。それから奇跡的に退院できた父さんは俺が見る限りずっと真帆を抱っこしている。それを嬉しいと感じる。きっと父さんの病気が快復の兆しが見えたのは真帆の存在は不可欠だ。真帆が生まれ自分も生きなければと生きる希望を見つけたから。
(この光景がずっと続けばいいのに……)
幸福の度合いが高まっていく。父さんの影響で中学から始めたギター。この弦でできた傷をも愛おしく感じるほどに、俺の感覚も狂っていく。
「再発……?」
「うん、しかも肺に転移したんだって」
気づいた、俺の幸せはピークを越えたと。あの頃が一番幸せだったかもしれない。家の中が騒がしくて、真帆の成長に目が離せなくて。それが、一気に現実へと引き戻される。思えばこの頃から、母さんと会うことが少なくなった。仕事と病院の行き来が俺たちを引き離すようにタイミングが合わない。いつからだろうか。気づけば、遅くに帰宅する母さんの夕飯を作るようになった。徐々に料理の腕も上がる。全く嬉しくない。ただ腹を満たすための夕飯だ。食材を炒めて、調味料を入れて、白米を焚いて。ここに感情は何もない。こんな真っ黒な感情の入り混じった俺の料理は、母さんの舌に合っているのだろうか。真帆も母さんと一緒にいたいだろうに、「抱っこして」というわがままを簡単に叶えてもらえない。父親もいない。家族を最後の最後まで追い込んでいく。
そして、俺は高校に入学した。それから、しばらくして父さんが死んだ。一瞬だった。徐々に弱っていく父の姿を見ていたが、容体が悪化し、そのまま目を覚まさなかった。大好きで憧れの存在だったはずなのに、なぜか涙は出なかった。ギターの弦が切れるみたいに、繋いでいたものはいつか途切れる。それに慣れていたから受け入れるしかないと思っていた。でも、命は取り換えることはできない。それ以上に取り残された母さん、真帆が心配だった。家では常に誰かしらの泣き声が聞こえる。夫を失ったことを受け入れられない母さん、不機嫌で家族に何かを伝えようとしている真帆。こんなの、俺が悲しんでいる場合ではなくなる。俺は支えなければならない。父さんが守っていたものをこれからは俺が守らなければいけない。その責任感が悲しみを奪っていく。
「音が鈍い……」
自分に「いつも通りでいなければ」と呪いをかけるように勉強に打ち込む。その間ギターから離れていた俺は、ふと手にしたギターの音が鈍くなっていることに気付いた。そろそろ弦も替え時だと分かっていた。気分転換に新しい弦に取り換えに行こうと靴を履き紐を結んだ。ギターをお店に預け、弦の交換を待ちながら、その辺をふらふら散歩する。
(ゆっくりするの久しぶりな気がする……)
雲がゆっくりと青空を過ぎていく様子に平穏な日常を思い出す。あの頃は幸せだったなという余韻、消えることのない涙の味、汗ばむ気温。覚えていても、忘れてしまうのだろうか。
「そろそろいいかな……」
新しい弦がついたギターを受け取り、音を確かめる。これが俺の求めていた音だ。優しく、大切な言葉を語り掛けるように俺の心に届く。
「お客様……、どうされましたか……⁉」
「……すいません……」
まさか、こんなとこで溢れるなんて。懐かしい音に涙が止まらなくなった。父さんが教えてくれたこの音。昔の俺を思い出す。父さんの趣味でギターのことを教わっていたあの頃の記憶。小さいときは手が痛くてやめた記憶。嗜むくらいがちょうどいいと中学の部活には入らなかった記憶。魂だけがあの頃に戻れたら。もっとたくさんあの人に俺のギターの音を聞かせてあげられたのだろうか。たくさん練習していれば今よりももっとうまくなっていたのではないか。そんなことばかり考えてしまう。
だから俺は高校で軽音部に入った。軽音部なら一人でやるよりもうまくなれると思ったから。実際俺は自分のギターの腕が上がっていると感じる場面がたまにある。何よりこの高校の軽音部に憧れのバンドがあったから。それがAQUAだ。中学の頃からネットでギターの上達を調べているうちに俺と年齢が近いのにとんでもない実力を持っているバンドとして彼らを知った。そしてある時、動画サイトに上げられていた演奏の動画を見た。眩しくて、楽器を触る彼らはとにかく楽しそうで、こんな演奏をしてみたいと思うようになった。そんな憧れから始まった俺の軽音部員としての生活は一人の先輩との出会いでガラリと変わる。
「きみさ、前から思ってたんだけど、ギターうまいよね」
「え……⁉」
放課後、部活のない日に部室でギターのチューニングをしていると、そう話しかけてくる一人の男性。AQUAのキーボード担当、浅野先輩だ。
「ギター、いつからやってるの?」
「えっと……中学からです」
「へー、そっか。そりゃうまくなるわな」
初めて言葉を交わした。憧れの人と。先輩の質問にいくつか答えていると、部室に次々とAQUAのメンバーがやってくる。俺には神様のような存在、簡単に拝んではならないのに。そんな彼らが、俺の周りに集まる。
「あれ、結城くんじゃん。何してるの?今日休みなのに」
「チューニングしてて。皆さんこそ、何してるんですか……?」
「俺たちは自主練しに」
「そうなんですね」
緊張で何も出てこない。先輩たちの会話に入るのはまずいと彼らの会話にリアクションする。この空間の「帰りたくない」のに「帰りたい」と思うこの矛盾に名前を付けてほしい。
「ねえねえ、俺結城の演奏聴きたい」
「え、今ですか……?」
「おい岬、いきなり何言ってるんだよ」
AQUAのドラムを担当している岬先輩の唐突なお願いに浅野先輩が「ごめんね」と謝る。しかし、よく考えるとこの神のメンツ全員が揃っているこの状況で俺の演奏を聴いてもらえることはこの先一生ないのではないか。失敗したときの恐怖はあるが、やってみようか。
「あの、よかったら聴いてくれませんか」
優しい先輩たちに見守られながら俺はギターを弾く。俺の好きな有名アーティストの曲をカバーした。普段ならもっとうまくできたと思う。この人たちを目の前にしたことで、ギターの音も歌も若干ずれた。満足のできる出来栄えには程遠い。
「結城うまいな。高校一年にしてはうまいわ」
「分かる。俺歌声も好き」
俺の演奏に先輩たちが褒めちぎってくれた。きっと俺がそう言わせているのだろう。社交辞令として当然の言葉でも、俺には嬉しくこれだけでギターを続けていくモチベーションになる。
「やっぱり、浅野の目はすげーな。間違ってないわ」
「でしょ?」
彼らの会話についていけない。よく分からないが、浅野先輩が何か予測して動いていたということは想像できるが、一体何を予測したのだろうか。
「ねえ、結城。お前さ、AQUAに入らない?」
「……え?」
浅野先輩が俺の目を見てそう言ってきた。
