その首飾り、僕にください――のはずが求婚になった伯爵庶子は、魔法学院で秘密を隠す

 ぐぅ、とお腹が鳴った。
 夕日が窓を赤く染めるても、本館は朝からの熱気を引きずったまま、落ち着く気配がない。

 魔法学院の入学、その前日。
 ウルムのフライブルク伯爵邸では、日の出前から人の足が途切れなかった。白い布が風にひるがえり、銀の盆がきらりと光って、使用人が小走りに行き来する。

(……また、フォルテのためか)

 理由は聞くまでもない。昼過ぎから夜まで、本館でパーティーが開かれる。貴族籍に登録されたフォルテのお披露目で、客が呼ばれているらしい。

 ——僕は、主催側でもなければ、客の数にも入っていない。

 そのうえ、離れの料理人まで本館へ駆り出された。僕の食事を作る人がいない。

 朝と昼は、本館からパンを運んでもらった。それも、女中に頼んでようやく、だ。皿を受け取ったとき、口惜しさで指先が震えた。

 頼めば夕食として、宴の料理の残りを回してもらえるだろう。

(でも……それを、フォルテに?)

 口の中が苦くなる。頭を下げた瞬間、負けが確定する気がした。
 嫡子と庶子の差だとしても、あいつに頼るのは飲み込めない。

 そのとき、ぐぅ、とお腹がまたつぶやいた。

 ——離れの僕には空っぽの皿がお似合いさ。

 そんなふうに(あざけ)られた気がして、ずしんと心が沈んでしまう。

 本館のほうから、笑い声が聞こえてくる。豪華な料理が並び、楽しげな音楽が流れているのだろう。

 悔しくて、僕は窓の外の本館を睨んだ。拳を握っても、何も変わらないのに。

 ……仕方がない。今夜は、街へ出よう。

 僕は外套を手に取り、喉元までしっかり留めた。
 ――胸元は、絶対に見せない。
 そう自分に言い聞かせて、離れの門を出た。

 ***

 ウルムの街の中心には大聖堂がある。夜空に黒く突き立つ尖塔を目印に、僕は中央広場へ急いだ。

 松明の火が揺れ、人が行き交う。屋台の呼び声に酒場の笑い声が混ざり、肉の焼ける香りにじゅるりと(よだれ)が出そうになる。

 ぱちっ、と肉の脂が弾ける音がした。ひときわ濃い匂いに足が止まる。
 視線の先、木の看板に太い文字が突き刺さった。

 ――ハンバーグ。

 顕紋(けんもん)の儀の前日、フライブルク伯爵家で初めて口にした。噛んだ瞬間に溢れた肉汁と、舌の上でとろける柔らかさ。村では聞いたことすらない味だった。

 貴族の料理だと思い込んでいたのに。それが、こんな街角にあるなんて。

(ここしかないよね)

 迷う暇もなく、僕は戸を押した。

 店の中は熱気と声でむせ返っていた。丸テーブルが十ほどと、立ち飲みのカウンター。酒の匂いが濃いのに、焼けた肉と香草の香りも負けていない。笑い声が天井にぶつかって跳ね返り、静かに食べる場所じゃないと一瞬でわかった。

 空いていた端の卓に腰を下ろすと、給仕の女性がすぐ飛んできた。頬が赤く、目が忙しなく動いている。お店の雰囲気をそのまま身にまとったみたいな人だ。

「いらっしゃいませ! お食事はお決まりですか? うちの自慢料理はこれ、ハンバーグ。聖女グロリア様直伝の味なんですよ!」

「……聖女?」

 漏れた声に、自分でも驚いた。

 聖女グロリア。
 父の後妻で、フォルテと僕の義母。結婚前は、そう呼ばれていた人。

「はい! 大聖堂でご奉仕されていた頃、ここの料理人に教えてくださったんです」

 勢いよく語り続ける声を聞きながら、僕は顕紋の儀のときに伯爵邸で食べたハンバーグを思い出していた。

 ――あの味も、グロリア様が持ち込んだものだったのかな。

 そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
 本当にすごい方なんだな。

 でも、すぐに別の記憶がよみがえった。

『ジャスパーさん、あなたは――わたくしの味方ですわよね』

 あの人は、そういう言い方をする。きっぱり命じるのではなく、断れない形で。

(……逃げ道を塞ぐのが、うまいんだ)

 感心と不安が、胸の中で隣り合う。けれど、今は食べることに集中しよう。考えるのはあとでいい。

「じゃあ、そのハンバーグを一皿」

「はいっ。お飲み物は? 隣が教会の醸造所で、香草入りの出来立てビールが評判なんです。旅の商人も『飲まなきゃ損』って」

『教会の』——その言葉に、胸の奥がひやりとする。
 でも、喉はカラカラで、グロリア様はここにいない。

「……それを、一杯」

 木杯が置かれた。琥珀色に火が揺れ、甘い香りが鼻をくすぐる。一口だけで、喉の渇きが癒やされた。

(生き返る……)

 そしてハンバーグ。ナイフを入れると、湯気と香りがたった。柔らかい。熱い。口に入れた瞬間、思わず目を閉じた。

(……うまい)

 こんな味を街角で食べられるなら、ウルムでの二年間も悪くない――そう感じてしまう。

「な? 当たりだろ」

 声が飛んできて、僕は顔を上げた。隣の卓の二人組がこちらを見て笑っている。どうやら、僕がハンバーグに目を丸くしたのが見えていたらしい。

「いい食いっぷりだな」
「初めて食ったやつの顔してる」

 言われて、少し恥ずかしくなる。けれど、その笑い方は意地悪というより、気安いものに見えた。

「……はい。すごく、おいしくて」
「だろうな。見ない顔だけど、学院の新入生か?」

 問いかけ方は自然だった。なのに、視線が一度だけ僕の外套をかすめた瞬間、なぜか少し身構えてしまう。

 それでも、同じ学院の先輩だと思うと、少しだけ肩の力が抜けた。今日ずっと一人だった僕には、それだけで少し救いだった。

「明日、入学です」

「やっぱりな。俺らは二年」

 二人は右手を差し出した。小指の根元に浮かぶ水の輪が、灯りに薄く透ける。
 
それを見て、僕も右手を出した。握った手は温かい。

「土属性だな。中指か。いいじゃん」

 先に言ったほうが笑い、もう一人は僕の手元から外套、卓の上へと視線を滑らせた。

「新入りって、顔で分かるよな」
「……ひとりで飯食ってるあたりもな」

 言い当てられて、胸がちくりとした。けれど、さっき笑ったほうがすぐ肩をすくめる。

「悪い悪い。俺も去年はお前と同じだったからな。早く友達作れよ」

「実習、ひとりだと面倒なんだよ。特に水は課題が細けぇし」

「土はまだましだろ」

「面倒見いいって聞くしな」

 そのうち僕も、つられて笑っていた。

 しばらくして、一人が懐から布包みを取り出した。

「見ろよ、取っておきだ」

 得意げに広げられた布の上に、小瓶が三本並ぶ。どれも口を封蝋で固められている。

「隣の醸造所の特別製。香草が違うんだよ」
「そいつ、うまいんだよな」

 二人は手慣れた様子で一本ずつ取り、残った一本を僕に向けた。

「入学祝い。せっかく会ったんだし、これくらい奢らせろ」
「学院入る前に、先輩のありがたみ覚えとけって」

 冗談っぽく笑われて、僕も曖昧に笑ってしまう。

「……いいんですか」
「いいに決まってるだろ」

 さっきまで楽しく会話をしていた手前、今さら断るのも角が立つ。

 僕は小瓶を受け取った。

「じゃ、新しい出会いに」
「乾杯」

 特別製のビールは、さっきのより香りが甘かった。
 ごくんごくん、と飲み込むと、胸の奥がほんのり熱くなった。舌に残る苦味が少し遅れて迫ってくる。

(……こういう味なのかな?)

 ビールを飲み慣れていない僕には、よく分からない。
 そう思った、次の瞬間、灯りが(にじ)んだ。

「……あれ?」

 瞬きしても輪郭が戻らない。皿の触れ合う音も、笑い声も、急に遠くなる。
 頭の芯がぐらりと揺れて、僕は慌ててテーブルに手をついた。

「おい、大丈夫か」

 肩に手が置かれる。さっきの男だ。気づかわしげな声なのに、目だけが妙に冷たく感じる。

 立ちあがろうとしたら、膝が笑った。ふらつき、そのまま椅子に尻餅をついた。

「あちゃぁ、飲みすぎたか。外の空気、吸いに行くか」
「ほら、立てるか?」

 腕を取られる。振りほどこうとしたのに、力が入らない。

「……放して」

「ここで吐かれたら店に迷惑だろ」
「大丈夫、すぐ楽になるって」

「ちがう、僕は——」

 言い切る前に、もう一人が笑った。

「酔ったやつって、みんなそう言うんだよな」

 その軽口に、周りの客がどっと笑う。
 笑い声が、僕の足元をすくっていく。

 両腕を支えられる形のまま、僕は扉へと押し流された。

「代金は置いとくぜ!」

 朗らかな声が飛ぶ。給仕の娘がちらりとこちらを見たが、酔った客を外にだすだけだと思ったのか、すぐ仕事に戻った。

 ――助けを呼ぶなら、今なのに。

 口を開いても、舌がもつれて声にならない。

 扉を抜けた瞬間、夜気が顔を打った。冷たい。
「ほら、こっちに来い」
 もう誘う口調ですらない。二人は僕をそのまま店の横へ押した。醸造所へ続く荷捌きの細道。ほんの数歩なのに、広場の笑い声も松明の明かりも、背後へ遠のいていく。

 背後の男が肩を押さえ、もう一人の手が僕の外套の留め具にかかる。

(やめ――)

 胸元だけは駄目だ。そう思った瞬間、口を塞がれた。

「暴れるな。痛い目を見たいか」

 身をよじる。けれど、その動きが余計だった。ぐいと布が引かれ、ぶちり、とボタンが弾ける。喉元から胸の上まで、冷気に(さら)された。

 ――見られる!

 僕は夢中で胸元を押さえた。けれど男は目を細めただけで、そこに本当の意味を見なかった。

「……胸に女紋を描いてんのか」
「詐欺師の真似かよ」

 鼻で笑われる。理解されなかった安堵と、そう扱われた屈辱が、いっぺんに押し寄せた。

「まあどうでもいい。()ぐぞ」

 外套が肩から剥がされる。続けざまに、腰の布袋も乱暴に引きちぎられた。僕は何も守れない。

「護衛もなしに、そんな恰好で出歩くなよ」
「半端な貴族ほど、狙いやすいんだぜ」

 男が右手をこする。小指根元の紋が、月明かりでにじんだ。

「描き紋で釣るのは、お互いさまだろ」

 返す言葉がない。悔しさだけが歯の奥でぎり、と鳴った。

 二人は僕をその場に放り捨てた。壁際の木箱に肩が当たり、息が詰まる。視界がぐらりと傾き、暗転しかけた。

「追い剥ぎにでもやられたって思っとけ」

 男が言い捨てる。もう一人が短く笑った。

「朝までに誰かに見つかりゃ、運がよかったってこったな」

 二つの足音が、広場の喧騒へと溶けていく。
 残ったのは、石畳の冷たさと、甘い香草の残り香だけだった。

(やばい……)

 ここにいたら、夜を越せない。

 ――這ってでも表通りに戻らないと

 歯を食いしばり、肘で身体を引きずろうとする。けれど腕に力が入らない。視界がぐらりと傾き、頬が石畳に打ちつけられた。

 痛みより先に、痺れがきた。骨の奥まで冷たさが染みていく。裂けた胸元から夜気が流れ込む。

 その一瞬だけ、夜色の線がすっと濃くなった。月明かりを吸い込むみたいに、ただ一度。

 ――闇の紋。

 確かめる間もなく、まぶたが落ちる。

 遠くで火の光が揺れた。近づいてくる靴音が二つ。重なる声。

「クラウス、見て! 店裏の路地に、女の子が落ちてる!」

 ***

 次話:第十話「男の印」

 路地に倒れていたのは、女の子。
 ……のはずだった。