リーゼロッテが飛び出していったあと、部屋はしんと静かになった。けれど僕の心は、結婚だの契約だのと話が畳みかけられていた時より、むしろひどく騒がしい。
僕は膝の上で手を握った。白手袋の下の左手が、じっとり汗ばんでいる。
……最低だ。
秘密を抱えているのは僕だ。フォルテに勝てなんて無茶を押しつけられているのも僕だ。なのに、泣いて飛び出したのはリーゼロッテの方だった。
巻き込まれているのは、どう考えても彼女たちなのに。
謝らなきゃ、と思う。でも、もう戻ってこないかもしれない。
そのとき、扉が遠慮がちに開いた。僕は反射みたいに顔を上げた。
先に入ってきたアーデルハイトさんの後ろから、リーゼロッテがそろそろと姿を見せた。
目元は少し赤い。それでも、もう泣いてはいなかった。逃げたままで終わらせない、と決めた顔をしていて、僕の方がうろたえてしまう。
リーゼロッテはそのまま母親の背に寄り添いながら、それでもちゃんと僕を見た。にょへっと、照れくさそうに笑う。
「ジャスパーくん、さっきはごめんね」
「えっ、いや……」
一瞬、返事が遅れた。戻ってきてくれただけでありがたかったのに、先に謝らせてしまった。
「僕の方こそ、ごめん」
今度こそ、ちゃんと言えた。
「ごめん。ほんとに、いろいろ」
秘密のことも。フォルテに勝てと言われたことも。宝石の借金のことも、結婚のことも。助けてもらった人たちを、また僕の事情に巻き込んでしまったことも。
僕が頭を下げると、リーゼロッテがぱちぱちと瞬きをした。
「えへへ。そんなにたくさん謝られたら、私も何から許せばいいかわかんなくなっちゃうよ」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
さっきまであんなに気まずかったのに、少しだけ、リーゼロッテらしい空気が戻ってきた。
リーゼロッテは一度だけ、ちらりとアーデルハイトさんを見た。でも、アーデルハイトさんは何も言わない。ただ、その沈黙が「自分で言いなさい」と背中を押しているみたいだった。
小さく息を吸って、それからリーゼロッテはまっすぐ僕を見た。
「ジャスパーくん。私、決めたの」
その声音に、思わず背筋が伸びた。
「フォルテ様に勝つため、私も協力する」
さっきまでの照れた笑いとは違う。ちゃんと覚悟を決めた声でそう言われて、胸の奥がじゅんと熱くなった。
宝石のあてはついても、勝ち方までは誰も教えてくれない。だから、結局は自分で探すしかないと思い詰めていた。
でも、違った。
「もちろん!」
答えは、考えるより先に口から飛び出していた。
「リーゼロッテが力を貸してくれるなら、本当に助かるよ」
助かる、なんて言葉では足りない。
ひとりで探すしかないと思っていた道に、初めて一緒に歩いてくれる人が現れた気がした。
僕の胸には闇の魔力紋がある。けれど、呪文も使い方も何も知らない。女性しかいない闇の授業には出られない以上、自力で学ぶのはほとんど不可能だった。
だから同じ闇を持つリーゼロッテが力を貸してくれるだけで、できることが一気に増える。
リーゼロッテは、ほっとしたように、それでいて少し誇らしげに笑った。
「闇の魔法だけじゃないよ。金属性の魔法も、ジャスパーくんの役に立てると思うの」
「金属性も?」
思わず身を乗り出した。
「どうしてリーゼロッテが金属性の魔法を知ってるの?」
「お父さんが、金の魔力紋を持ってたの。宝飾工房の親方だったから、金の呪文もいろいろ使えたし、後継ぎの私にも教えてくれてたの」
リーゼロッテはそこで少し声を落とした。
「それに、お父さんの工房は今、閉じたままなの。本も道具もそのまま残ってるし、錠前と封蝋だけは私とお母さんで見てるの。だから――ジャスパーくんが使うのはどうかなって、お母さんと話してたの」
「工房を?」
思わず聞き返す。
工房。 宝飾工房。
その言葉だけで、頭の中に原石と金属と火と光が一気に広がる。
リーゼロッテがうなずいた。
「うん。フォルテ様に隠れて魔法を使うなら、あそこはとっておきの場所だと思うよ」
そこでリーゼロッテの声が、少しだけ弾んだ。
「金の呪文を書いた本も工房に残ってるし、お父さんがどんなふうに使ってたかも、私、覚えてる」
工房があって、呪文書があって、リーゼロッテの知識もある。
どうやって隠れて鍛えるか。
どうやって足りない知識を埋めるか。
その輪郭が、そこでようやく見えてきた。
アーデルハイトさんが、その輪郭を実際の形に変える。
「授業では無難に振る舞って、裏で紋を育てる。そうすれば、フォルテ様に手の内を見せずに済む」
そして、一本ずつ指を折るように整理していく。
「宝石は私が出す。訓練場所は工房。闇はリーゼロッテ。金の呪文は、工房の本と知識で補う」
アーデルハイトさんは指を折る手を止め、これでどうだと言いたげに僕を見た。
「――ここまでで、勝ち方は見えたでしょう?」
僕は何度も頷いた。
見えた、どころじゃない。
これなら戦える。
アーデルハイトさんは、すぐには次の言葉を継がなかった。 僕の顔を見て、ちゃんと飲み込めたと判断してから、静かに口を開く。
「ただし」
その一言で、浮きかけた気持ちがぴたりと止まった。
「本当に高いのは、目に見える宝石より、表に出ない知識よ」
アーデルハイトさんの視線が、今度はリーゼロッテへ向く。
「学院の外にある呪文。家の中だけで受け継がれる使い方。そういうものは、売り物にすればいくらにでもなる」
リーゼロッテが、ぱちぱちと瞬きをした。 自分の価値を母の口から言われるのに慣れていないのだろう。
「リーゼロッテがいるから、あなたは闇を学べる。リーゼロッテがいるから、工房の本も生きる」
そして、僕へ視線が戻る。
「だから、これはリーゼロッテからあなたへの、大きな貸しなの。軽く受け取らないでちょうだい」
「もちろんです」
僕はすぐに頷いた。
「軽く受け取るつもりなんてありません。リーゼロッテ、よろしくね。僕にできることなら、なんでも言って。少しでも恩を返したいから」
***
次話:後継ぎの求婚
「なんでも言って。僕にできることなら」
その約束が、男装の意味を知らない僕を、求婚の渦中に引きずり込む。
僕は膝の上で手を握った。白手袋の下の左手が、じっとり汗ばんでいる。
……最低だ。
秘密を抱えているのは僕だ。フォルテに勝てなんて無茶を押しつけられているのも僕だ。なのに、泣いて飛び出したのはリーゼロッテの方だった。
巻き込まれているのは、どう考えても彼女たちなのに。
謝らなきゃ、と思う。でも、もう戻ってこないかもしれない。
そのとき、扉が遠慮がちに開いた。僕は反射みたいに顔を上げた。
先に入ってきたアーデルハイトさんの後ろから、リーゼロッテがそろそろと姿を見せた。
目元は少し赤い。それでも、もう泣いてはいなかった。逃げたままで終わらせない、と決めた顔をしていて、僕の方がうろたえてしまう。
リーゼロッテはそのまま母親の背に寄り添いながら、それでもちゃんと僕を見た。にょへっと、照れくさそうに笑う。
「ジャスパーくん、さっきはごめんね」
「えっ、いや……」
一瞬、返事が遅れた。戻ってきてくれただけでありがたかったのに、先に謝らせてしまった。
「僕の方こそ、ごめん」
今度こそ、ちゃんと言えた。
「ごめん。ほんとに、いろいろ」
秘密のことも。フォルテに勝てと言われたことも。宝石の借金のことも、結婚のことも。助けてもらった人たちを、また僕の事情に巻き込んでしまったことも。
僕が頭を下げると、リーゼロッテがぱちぱちと瞬きをした。
「えへへ。そんなにたくさん謝られたら、私も何から許せばいいかわかんなくなっちゃうよ」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
さっきまであんなに気まずかったのに、少しだけ、リーゼロッテらしい空気が戻ってきた。
リーゼロッテは一度だけ、ちらりとアーデルハイトさんを見た。でも、アーデルハイトさんは何も言わない。ただ、その沈黙が「自分で言いなさい」と背中を押しているみたいだった。
小さく息を吸って、それからリーゼロッテはまっすぐ僕を見た。
「ジャスパーくん。私、決めたの」
その声音に、思わず背筋が伸びた。
「フォルテ様に勝つため、私も協力する」
さっきまでの照れた笑いとは違う。ちゃんと覚悟を決めた声でそう言われて、胸の奥がじゅんと熱くなった。
宝石のあてはついても、勝ち方までは誰も教えてくれない。だから、結局は自分で探すしかないと思い詰めていた。
でも、違った。
「もちろん!」
答えは、考えるより先に口から飛び出していた。
「リーゼロッテが力を貸してくれるなら、本当に助かるよ」
助かる、なんて言葉では足りない。
ひとりで探すしかないと思っていた道に、初めて一緒に歩いてくれる人が現れた気がした。
僕の胸には闇の魔力紋がある。けれど、呪文も使い方も何も知らない。女性しかいない闇の授業には出られない以上、自力で学ぶのはほとんど不可能だった。
だから同じ闇を持つリーゼロッテが力を貸してくれるだけで、できることが一気に増える。
リーゼロッテは、ほっとしたように、それでいて少し誇らしげに笑った。
「闇の魔法だけじゃないよ。金属性の魔法も、ジャスパーくんの役に立てると思うの」
「金属性も?」
思わず身を乗り出した。
「どうしてリーゼロッテが金属性の魔法を知ってるの?」
「お父さんが、金の魔力紋を持ってたの。宝飾工房の親方だったから、金の呪文もいろいろ使えたし、後継ぎの私にも教えてくれてたの」
リーゼロッテはそこで少し声を落とした。
「それに、お父さんの工房は今、閉じたままなの。本も道具もそのまま残ってるし、錠前と封蝋だけは私とお母さんで見てるの。だから――ジャスパーくんが使うのはどうかなって、お母さんと話してたの」
「工房を?」
思わず聞き返す。
工房。 宝飾工房。
その言葉だけで、頭の中に原石と金属と火と光が一気に広がる。
リーゼロッテがうなずいた。
「うん。フォルテ様に隠れて魔法を使うなら、あそこはとっておきの場所だと思うよ」
そこでリーゼロッテの声が、少しだけ弾んだ。
「金の呪文を書いた本も工房に残ってるし、お父さんがどんなふうに使ってたかも、私、覚えてる」
工房があって、呪文書があって、リーゼロッテの知識もある。
どうやって隠れて鍛えるか。
どうやって足りない知識を埋めるか。
その輪郭が、そこでようやく見えてきた。
アーデルハイトさんが、その輪郭を実際の形に変える。
「授業では無難に振る舞って、裏で紋を育てる。そうすれば、フォルテ様に手の内を見せずに済む」
そして、一本ずつ指を折るように整理していく。
「宝石は私が出す。訓練場所は工房。闇はリーゼロッテ。金の呪文は、工房の本と知識で補う」
アーデルハイトさんは指を折る手を止め、これでどうだと言いたげに僕を見た。
「――ここまでで、勝ち方は見えたでしょう?」
僕は何度も頷いた。
見えた、どころじゃない。
これなら戦える。
アーデルハイトさんは、すぐには次の言葉を継がなかった。 僕の顔を見て、ちゃんと飲み込めたと判断してから、静かに口を開く。
「ただし」
その一言で、浮きかけた気持ちがぴたりと止まった。
「本当に高いのは、目に見える宝石より、表に出ない知識よ」
アーデルハイトさんの視線が、今度はリーゼロッテへ向く。
「学院の外にある呪文。家の中だけで受け継がれる使い方。そういうものは、売り物にすればいくらにでもなる」
リーゼロッテが、ぱちぱちと瞬きをした。 自分の価値を母の口から言われるのに慣れていないのだろう。
「リーゼロッテがいるから、あなたは闇を学べる。リーゼロッテがいるから、工房の本も生きる」
そして、僕へ視線が戻る。
「だから、これはリーゼロッテからあなたへの、大きな貸しなの。軽く受け取らないでちょうだい」
「もちろんです」
僕はすぐに頷いた。
「軽く受け取るつもりなんてありません。リーゼロッテ、よろしくね。僕にできることなら、なんでも言って。少しでも恩を返したいから」
***
次話:後継ぎの求婚
「なんでも言って。僕にできることなら」
その約束が、男装の意味を知らない僕を、求婚の渦中に引きずり込む。
