「伏せろ!」
怒鳴り声に、私はその場にかがみ込んだ。 頭上で、ギギ、と木が軋む。
エメラルド鉱山の坑道見学。 狭い通路、頭上の支柱、足元の砂利。
「口をふさげ! 息、止めろ!」
え、なに? と思った瞬間、サラサラと砂が降ってきた。頬に当たる。口に入る。にがい。
鈍い音がして、足元がぐらりと沈んだ。ゴロゴロッと硬い音が迫る。
〈危ないっ!〉
自分の声じゃない。左手の薬指だけが、返事みたいに熱く脈を打つ。
潰されるはずの瞬間が、来ない。坑道を照らす灯りが、ぱちん、と消えた。
真っ暗。重い。息が――
……ゴホッ!
「大丈夫か?」「意識が戻ったぞ!」
声が聞こえる。誰のこと? 私、だよね?
頬の内側がじゃりじゃりする。
さっきの「ギギ」という音が、まだ頭の奥で鳴っている。
そうか。落盤に巻き込まれたのね。
冷たい外気が肺に刺さって、私は咳き込んだ。
怖かった。今さら、手が震えている。
それで自分がまだ「生きてる」ことを知った。
数時間後。
白い天井。消毒液の匂い。蛍光灯が、じ、と低く鳴っている。 右足は、ギプスになっていた。
「骨は折れてる。でも命に別状はない。瓦礫の隙間にうまく入り込んだんだろうが、運がよかったな」
医者の声だ。 よかった、って言われても痛い。でも、足一本で済んだのは幸いだった。
コロンビアの鉱山で死ぬなんて、洒落にならない。
扉のところで、浅黒の男が大きく息を吐いた。
一日中一緒に市場を回っていた宝石ディーラーのカルロスだ。
「セニョリータ・瑠璃、無事で何よりだった」
「幸い足一本で済んだわ。手も頭も無事」
そう言った瞬間、痛みで顔がゆがみそうになる。私は歯を噛んで、表情だけは崩さないように押し戻した。
カルロスが眉をひそめ、私の足元をちらりと見た。
「今日はやめておくかい? 取引も、調達も」
「やめない」
即答した。
「締切があるのよ。止まったら終わり。それはそれとして、宝石は?」
カルロスは呆れたように笑った。
「君は本当に強い女性だな、瑠璃。なら、場所を変えよう。ここは消毒薬の匂いがきつすぎて、商談に向かない」
* * *
会社が借りてくれたホテルのレンタルオフィスは、病院のすぐ近くだった。ほんの数分の距離なのに、松葉杖だとやけに長く感じる。
「よっこいしょっと」
おもわず出た言葉に、自分で自分にムッとする。まだ三十にもなっていないのに、もうおばあちゃんみたいだ。
オフィスに入ると、机には白い布が敷かれ、書類とペンが整えられていた。
ギプスの足を机の脚にぶつけないように気をつけて椅子に座り、向かいのカルロスと視線を合わせる。
「おいおい、あまり無理はしてくれるなよ」
「私の怪我の分だけ割引してくれるなら、ありがたく休むわ」
「ははっ。命が助かっただけ、良かったじゃないか」
カルロスと軽口を叩き合うのはいつものことだ。
うん、調子は落ちてない。
足はずきずき痛むのに、設計図の空白だけは頭から消えてくれない。
そのことに、むしろ少し安心した。
カルロスが机の中央に置かれた紙を覗き込む。
「これが瑠璃のコンペ作品かい?」
「そう。ブライダルの一点勝負。そのための主石を探しに、ここまで来たの」
鉛筆で書かれたネックレスの設計図。
つる草みたいなエメラルドの列が首元を巡り、中心だけが、大きな石のために空いている。
私はその空白を指で軽く叩いた。
「小さい石はそろったわ。でも、肝心の石がない。日本でも市場でも見つからなかった」
カルロスは肩をすくめる。
「だが、ないものはない」
「だから坑道に入ったのよ」
石に会わずに帰る気はなかった。
私の答えに、カルロスはため息をついた。
「そして落盤にあい、足を折った」
「待ってても出会えない。だったら、現場に行くしかないじゃない!」
自分でも分かるくらい声が強くなって、私はカルロスと睨み合った。
意固地になっている自覚はある。
それにカルロスが心配してくれているのも分かっている。
その時だった。スマホが無情に光った。
《提出まで:残り10日》
うるさい。分かってる。時間が足りない。
私は深く息を吐き、声の温度を下げた。
「ごめん。正直、焦ってる。でも、締切だけが理由じゃないの」
カルロスが黙って待っている。だから私は、言葉を選んで続けた。
「コンペって、宝石の質とデザインだけじゃなくて、作品の物語が問われるでしょう?
私のナラティブは『鉱山と街とを結ぶ線』。机の上だけで語りたくなかったのよ。始まりの場所を、自分の目で見ておきたかった」
カルロスは小さく頷き、しかしすぐに困った顔になった。
「瑠璃の意気込みはわかる。言いにくいが、主石クラスは……やはり、ない」
胸の奥がひゅっと冷えた。
一瞬だけ「終わった」の言葉が喉まで来た。
でも、飲み込む。
せっかくここまで来たのだ。終われない。終わらせない。
「無傷は諦める」
私は言い切った。
「傷があってもいい。インクルージョンがあってもいい。むしろ欲しい」
カルロスが疑い深そうに目を細める。
「主石に傷があってもいいのか?」
「傷じゃなくて……線ならね」
私のコンセプトは『鉱山と街を結ぶ線』
線が入ったエメラルドなら、それを物語にすればいい。
カルロスはしばし考え込んだ後、アタッシュケースから小さな包みを取り出した。 布にくるまれた小袋。新品の宝石袋じゃない。土の匂いがする。
カルロスの指が、一瞬とまる。
「瑠璃。これは、普通の取引じゃない。さっきの事故現場。瓦礫の中から出た」
「いいから、早く見せて」
私の声は、我ながらせっかちだった。
包みがほどかれる。出てきたのは、荒い石だった。カットもない。ただの塊。
けれど、ライトを当てた瞬間——
緑が、深く沈んだ。
一拍遅れて、手のひらに汗がにじむ。
なぜか左手の薬指が、じわりと熱い。
カルロスが言い訳みたいに言った。
「筋が多い。澄みも弱い。インクルージョンだらけだ。もっと綺麗な石ならいくらでも……」
「違う」
私の口が割り込んだ。
緑の奥に細い筋が走っている。葉脈みたいに、一本、また一本と重なっていく。
その筋は、まるで光の通り道みたいだった。私は思わず、設計図の線を思い出した。
(支柱の軋み) (砂の苦さ) (闇の重さ) (生きてる、って知った瞬間)
崩落の恐怖と解放。その全部が、その筋に繋がっていく。
「これだ、これしかない」
声が震える。
出会えた。これが私のエメラルドだ。体の芯が燃えるように熱い。
私は一度だけ、言葉にした。
「鉱山と街を結ぶ道筋を、この石の葉脈に、託す」
カルロスが苦い顔をした。
「審査員は傷を嫌うぞ」
「嫌わせない」
即答した。 設計図の空白が、今、埋まった。
私は包みをそっと握る。荒い原石なのに、なぜか重く感じられた。
「売って。私が引き受ける」
カルロスはしばらく黙って、やがてペンを取った。
「……その線、背負う気か。曰く付きだぞ」
「背負う」
答えた瞬間、薬指の熱がもう一段だけ強くなった。
それでも私は、手を離せなかった。
***
次話:左薬指の銀白
