その首飾り、僕にください――のはずが求婚になった伯爵庶子は、魔法学院で秘密を隠す

 
 扉が開くより早く、香ばしい匂いがした。

 焼いたパンの匂いに、薄く混じる果実の甘さ。さっきまでいた貴族棟の会議室にはなかった、人の暮らしの匂いだった。

「お母さん、おかえりなさい。お昼ごはんのサンドイッチ出来てるよ〜」

 オニキス商会二階の扉が開いた途端、そんな明るい声が降ってきた。

 振り向いたリーゼロッテは、紫の上着の裾を揺らし、琥珀色の目をぱちりと丸くした。赤みのある髪が肩で跳ねる。

「あれ? ジャスパーくんも一緒なの? いらっしゃ〜い。お昼、一緒に食べる?」

 僕がいる理由を尋ねることもなく、リーゼロッテはそう言って笑っていた。

「いいの? じゃあ……いただこうかな」

「もちろん。立ったままじゃ食べにくいでしょ。二人とも早く座って」

 その気安さに、胸の奥で張りつめていたものが少しだけ緩む。

 エカチェリーナの前では、一言ごとに緊張の連続だった。
 でも、ここでは違う。

 そう思えただけで、僕はようやく息を吐けた。

 リーゼロッテが机の上の皿をてきぱきと並べ直していく。学院では明るい同級生という印象が強いけれど、商会では手慣れた様子で動きに迷いがない。

 (かご)に盛られたサンドイッチは形がきちんと(そろ)い、白い布の上には果実汁の瓶と三つの杯が置かれている。焼いたパンの香り、薄く塩気の立つ肉、果実の甘い匂い。さっきまで頭の中を占めていた契約書の文字が、ようやく少し遠のいた。

 アーデルハイトさんが上着を椅子の背に掛け、静かに腰を下ろす。

「話は食べながらにしましょう。空腹だと、ろくな判断ができないもの」

「それはそうよね」とリーゼロッテが笑った。

 僕も勧められるまま席につく。木の椅子の感触が妙に現実的で、そこでようやく、自分が昼を食べていなかったことを思い出した。

 果実汁の杯を手に取る。ひんやりした感触が指先に心地よくて、身体の力が少しだけ抜けた。

 ひと口目のサンドイッチを飲み込んだところで、リーゼロッテが僕とアーデルハイトさんを交互に見た。

「……それで、どうして二人で帰ってきたの?」

 問いかけは軽い。でも、気にならないはずがないのだろう。

 アーデルハイトさんは口元を(ぬぐ)い、静かに言った。

「良い知らせから話すわ。エカチェリーナ様から、オニキス商会への庇護(ひご)をいただけることになったの」

 リーゼロッテの目が、ぱっと輝いた。

「ほんとに!?」

「ええ。本当に」

 その返事は短いのに、重みがあった。

「これで、仕入れ先に妙な圧をかけられることも、貴族向けの販路が不自然に閉ざされることも、今までよりは減るでしょう」

「よかったぁ……!」

 リーゼロッテが胸に手を当てて、ほっと息をつく。

 僕はその横で、棚にぽつぽつと空いた隙間を見た。商会の中身までわかるわけじゃない。けれど、経営が決して楽ではなかったのだろうことは伝わった。

 リーゼロッテはへにゃっと頬をゆるめ、それから安心したみたいにサンドイッチへ手を伸ばした。

 けれど、アーデルハイトさんはまだ杯を持ち上げなかった。

 机の上に置かれた指先が、わずかに止まっている。

 その小さな違和感に気づいた瞬間、僕はまた息を詰めた。

 庇護という言葉のあとに、何が続くのかを知っているのは、この場では僕とアーデルハイトさんだけだ。

 リーゼロッテも遅れて母の顔を見た。笑みが、少しだけ揺らぐ。

「……お母さん?」

 アーデルハイトさんは短く息をついた。

「ええ。まだ話は終わっていないの。エカチェリーナ様の庇護は、決して善意だけのものじゃないわ」

 リーゼロッテの眉がきゅっと寄る。

「……どういうこと?」

「商会への後ろ盾と引き換えに、わたくし自身にも条件をつけられたの」

 そこで、リーゼロッテの表情から明るさが消える。

「条件って……商会の話じゃないの?」

「ええ。わたくし個人の話よ」

 アーデルハイトさんは一度だけ言葉を切った。

「再婚を前提にした条件があるの」

「……え?」

 リーゼロッテは、すぐにはその先を言葉にできなかった。

「再婚? お母さんが?」

 リーゼロッテは唇をきゅっと結んだ。

「私がいるのに」

 それでも、リーゼロッテは次の質問を絞り出した。

「それで……相手は、誰なの?」

 アーデルハイトさんの視線が、ちらりと僕に触れた。

 その一瞬で、相手の名だけは僕が言わなければならないのだとわかった。

「……僕、です」

 自分の声は、思っていたよりずっと小さかった。

 そして、リーゼロッテは言葉を失っていた。

 このまま黙っていたら、いちばん悪い形で伝わる気がした。乾いた喉で、僕はやっと言葉を継いだ。

「でも、すぐじゃない。フォルテが上級神の加護を得た時だけ、っていう条件つきで――」

 そこで、僕の言葉が止まった。何を足しても、弁解にしかならない気がした。

「それだけじゃないわ」

 アーデルハイトさんが静かに言葉を継ぐ。

「ジャスパーくんがフォルテ様に勝てるよう、必要な宝石を用意する話まで含まれているの」

 リーゼロッテは、母と僕を見比べたまま動かなかった。その顔からさっと血の気が引いていく。

 何か言いたそうなのに、言葉だけが出てこないみたいだった。

「……そんなの、おかしいよ」

 小さな声だった。けれど、部屋の空気を切るには十分だった。

「お母さん、ずっと嫌がってたじゃない。再婚なんてしないって、私がいるから十分だって、そう言ってたじゃない」

 アーデルハイトさんは黙っている。

 その沈黙が、リーゼロッテにはいっそう残酷だったのだろう。

「商会のためだからって、お母さんがそんな条件を受けなきゃいけないなんて、ひどいよ」

 そこで、リーゼロッテの視線が僕を逃がさなかった。

「しかも、ジャスパーくんって……そんなの、ずるい」

 こらえきれなくなったように、リーゼロッテは立ち上がった。

「だって、私、ジャスパーくんのこと……好き、だったのに」

 リーゼロッテは、立ち上がったまましばらく動けなかった。

 それから、はっとしたように顔を背ける。自分が何を言ったのか、遅れて呑み込んだのだろう。

「……もう、やだ」

 強がるように言ったくせに、声は震えていた。

「こんなの、私、知らない」

 次の瞬間、リーゼロッテはほとんど逃げるように扉へ向かった。

「リーゼロッテ」

 アーデルハイトさんが呼ぶ。

 けれど、彼女は振り返らなかった。

「お母さんの、ばか」

 吐き捨てるように言い残して、リーゼロッテは部屋を飛び出した。

 最初に動いたのは、アーデルハイトさんだった。

 深く息をつき、立ち上がる。

「……ジャスパーくん、ごめんなさい」

 僕は何か言おうとしたけれど、その前にアーデルハイトさんが小さく首を振った。

「今は、あの子を放っておけないわ」

 扉へ向かいかけて、ほんの少しだけ振り返る。

「悪いけれど、ここで待っていて」

 僕は頷くしかなかった。

 そして、アーデルハイトさんも扉の向こうへ消えていった。

 扉が閉まったあともしばらく、部屋の空気は沈んだままだった。

 僕はじっと、卓の上の果実汁とサンドイッチを見ていた。ついさっきまで昼食の匂いがしていたのに、今はその記憶さえ遠く感じる。

 ――だって、私、ジャスパーくんのこと……好き、だったのに。

 リーゼロッテの声が、頭の中で何度もよみがえる。

 驚いた。困った。何も言えなかった。

 少しだけ嬉しいと思ってしまったことまで、なかったことにはできない。

 それでも、今はその言葉を喜んで受け取れる立場じゃない。

 僕の秘密と契約は、リーゼロッテまで巻き込んでしまったのだから。