土属性の実習が終わった翌朝。今日は火属性の講義日だ。
火の魔力紋を持たない僕には、午前の授業がない。
自主学習、自主研鑽という名目はあるけど、実際には宙に浮いた時間だった。
〈魔法の訓練をしたらどう?〉
ここのところ毎朝現れる瑠璃さんの声が、脳内に響く。
(無理だよ。宝石が足りなくなっちゃう)
〈でも、使わなきゃ魔力紋は育たないわよ〉
(わかってる。けど、卒業できなきゃ困るから)
魔法を使うと宝石が減る。卒業まで足りる保証がないから、節約するしかない。
執務机に突っ伏していると、窓の向こうで火の実習が始まった。
炎の矢が、空に赤い筋を刻み込む。
一本、二本。
数えるのが馬鹿らしくなるほど次々と、赤い放物線を描いて土塁の向こうへ落ちていく。奥の木人形に突き刺さるたび、黒い焦げ跡が増えていった。
百本は下らない。
城壁越しに内側を狙う曲射の魔法実習だ。
(すごいな)
あの一本一本が、宝石を削って飛んでいると思うと、気が遠くなる。
僕は石が惜しくて動けないのに、あちらではそれが惜しげもなく空へ放たれていく。
だが、発射元に目を向けた瞬間、気分が冷えた。
義兄のフォルテだった。
「……本当に嫌なやつだ」
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「ジャスパー様に、書簡をお届けに参りました」
僕は反射的に左手に手袋をはめ、シャツのボタンを喉元まで留めた。
こういう動きだけは、もう考えるより先に体が動く。
封蝋の印章は、薔薇と王冠。
嫌な予感が、すぐに形になる。
(……エカチェリーナだ)
中の文章は、王族らしく装飾的な書き出しで始まっている。
けれど、内容はごく単純だった。
――本日午前十一時。貴族寮一階の小会議室へ。
招待状みたいな文面だった。
けれど、王族から貴族へのお誘いを断れるわけがない。
言葉は丁寧でも、実際には命令。要するに、召喚状だ。
〈急すぎない? 貴族の面会って、何日も前から調整するものでしょう?〉
(普通はね)
横車だとわかっている。
断る選択肢がないことも、わかっている。
だって、エカチェリーナは、僕の秘密を握っている。
思わずシャツの胸元をぎゅっと握りしめた。
〈ムカつくね!〉
僕の代わりに瑠璃さんが怒ってくれて、それで少し落ち着いた。
使いに来たエカチェリーナの侍女は、まだ廊下で待っている。
返答を持ち帰るつもりだろう。いや、最初から僕が招待を受ける前提で待っている。
僕は口元に笑みを貼り付けた。
「お招きいただき光栄です。承知いたしました、とエカチェリーナ様にお伝えください」
侍女の足音が遠ざかる。
窓の外では、まだ火の矢が飛んでいる。
十一時まで、あと少し。
僕の午前は、もう僕のものじゃなかった。
***
小会議室は貴族寮一階の奥にあった。
扉の前で一度息を整える。
左手には手袋。シャツの第一ボタンも外せない。最初から、隠し事を抱えてた格好で入るしかない。
「エカチェリーナ様、お招きありがとうございます。ジャスパー・フライブルク、まかり越しました」
扉を開けると、エカチェリーナがこちらを見た。
笑っているようで、笑っていない。
「急なお招きにもかかわらず、快くいらしてくれて、嬉しいですわ」
断れるとでも思っているのだろうか。
そう言い返す代わりに、僕は黙って座った。
部屋は質素だった。
白いクロスの四角い机と、堅い椅子だけ。飾り気がないぶん、逃げ場がない。
エカチェリーナは机の奥に座り、その後ろには護衛らしき女性が一人立っていた。
視線が静かに僕をなぞる。値踏みなのか、警戒なのか。その視線が僕の緊張をすこし高める。
侍女がワインの水差しを運んできた。
透き通った赤が、エカチェリーナのグラスに静かに注がれる。
「ジャスパー様は、いかがなさいますか?」
「少し薄めで」
水で割ったワインが、僕の前に置かれる。
〈え、水で割るの? こんな席でワイン飲んでいいの?〉
(貴族の会談なら普通だよ。ワインを出さないとケチって噂になるもの)
エカチェリーナが手を挙げる。
侍女たちは一礼して退室した。
けれど、護衛の女性は残ったままだ。
「あの、エカチェリーナ様。護衛の方は退室しないのですか」
紋の話になるなら、同席者は少ない方がいい。
「無理ね」
即答だった。
「護衛なしに、殿方と二人きりになるわけにはまいりません。それに――」
エカチェリーナの口元が、かすかに笑う。
「クララには、あなたの秘密を話してあります。私の側近ですから」
護衛の女性が一歩進み、軽く頭を下げた。
「クララ・フォン・ノイハウスです。エカチェリーナ殿下の侍女と護衛を兼ねております。以後、お見知りおきください」
(また増えた……)
〈ひどくない? 秘密を守ることを条件にしているのに〉
でも、この場で抗議をしても意味がない。
身分は向こうが上で、弱みも握られている。最初から、この会談の主導権はエカチェリーナ側にある。
「承知いたしました。それでは、お話を伺いたく存じます」
エカチェリーナの顔から、外向きの表情が消えた。
「土の実習において、フォルテに何もしなかったのはなぜですか」
静かな声だった。
怒っているのか、呆れているのか、それすら読み取れない。
「負けたら秘密を教会に渡す。私はそう言ったはずですが」
確かに言った。
でも。
「昨日の一回で負けたとは思っていません」
エカチェリーナの目が、わずかに細くなった。
「どういう意味かしら」
「勝敗が確定するのは卒業時です。魔力紋の大きさによって決まるのでしょう?」
最も魔力紋が大きい者が首席となり、中級神の加護を得る。
「ええ、そのとおりね」
「なら、最初の一回で勝ち負けを決めるべきではありません。紋は使った回数で育ちます。卒業までの勝負なら、やり方が違うはずです」
自分でも少し熱がこもったのがわかった。
けれど、引っ込める気にはなれなかった。
エカチェリーナは僕の頭を冷やすみたいに、短く言った。
「フォルテは、上級神の加護を狙っています」
「上級神?」
思わず聞き返した。
いくらフォルテでも、それは飛躍しすぎているように思える。
「シュヴァーベン大公国には、すでに上級神の加護者が二人いるはずです」
エカチェリーナが、わずかに息を吐く。
「ジャスパーさん、あなたに友人はいないのですか」
「そ、それとこれとは――」
「友人を通じた情報収集は大切よ。あなたは今、非常に重要な話を知らずにいます」
〈ジャスパーくん、本当にお友達いないの?〉
(今、それを言う?!)
エカチェリーナは僕の動揺など気にせず、言葉を継いだ。
「入学式の少し前のことです。前シュヴァーベン大公、ベルトルト殿下が病に臥せりました。ご高齢ですし、もう長くは持たないでしょう」
冷たいものが背中を伝った。
「ということは……」
「ええ、上級神の席が空きます」
会議室の空気が、そこで一段重くなった気がした。
加護が得られるのは人生で一度きり。
つまり、次は若い世代から選ばれる。
「私たちの学年から出る可能性が高い、と見られています」
脳裏に浮かぶのは、昨日の土塁と、今朝の炎の矢だった。
「フォルテが大規模な魔法を連発しているのは、もしかして」
エカチェリーナがうなずく。
「前回、上級神の加護を授かった者は、大規模魔法を惜しみませんでした。当時の教官がそう証言しています」
そこで一拍置き、エカチェリーナは言い切った。
「宝石を存分に注ぎ込むことで、フォルテは上級神を狙っています」
(そうだったのか)
入学式後の懇親会で、フォルテのまわりに人が集まっていた理由が、今になって繋がった。
ピアノが以前のように距離を取らず、輪の内側にいたのも、フォルテ本人ではなく、将来の立場を見ていたからだ。
エカチェリーナは一息ついて、続けた。
「上級神の加護があれば、爵位も軍も動きます。もちろん私との縁談も」
エカチェリーナは、そこで一度だけ唇を結んだ。
「だから、困っているのです」
困っている、という言い方に腹が立った。
困っているのは、脅されてここに座らされている僕の方だ。
「いっそ、エカチェリーナ様が上級神の加護を目指すのはいかがですか?」
「それができたら、苦労はしません」
声に、わずかに苛立ちが混じる。
「上級神は夫婦神。女の私が首席になっても、上級神の加護は受けられません。前大公が倒れた以上、次に空くのは男の席です」
そこまで聞いて、ようやく意味がつながった。
エカチェリーナ自身は、その席を狙えない。
なのに、フォルテに取られるわけにもいかないのだ。
「だから、ジャスパーさんに協力をお願いしているのよ。フォルテを止めなさい」
〈協力じゃなくて、脅迫よね〉
(僕もそう思う)
「ですが、大規模魔法が必要なら、僕はフォルテに勝てません。フォルテに対抗するほどの宝石が、僕にはないのです」
いくら脅されてもない袖は振れない。
僕が言い切ると、エカチェリーナは間髪入れずに答えた。
「ならば」
エカチェリーナは間を置かずに言った。
「宝石商人を紹介します。その方から借り受けなさい」
背後へ顔を向ける。
「クララ、オニキス商会をここに呼びなさい」
クララが一礼して部屋を出ていく。
早すぎて、言葉が出なかった。
宝石がない。
そう言っただけで、もう次の手が打たれている。
相談ではなかった。
断れない場を作り、断れない形で話を進められているだけだった。
ここに僕の同意は求められていない。
気づいたときには、もうノックが鳴っていた。
「エカチェリーナ様、お召しに応じ、オニキス商会のアーデルハイト、参上いたしました」
その名を聞いた瞬間、息が詰まった。
(どうして、ここに?)
***
次話:三枚の契約書
「契約書は三枚あります」
借金の話だけのはずだった。けれど三枚目には僕の結婚が待っていた。
