その首飾り、僕にください――のはずが求婚になった伯爵庶子は、魔法学院で秘密を隠す

「――奇跡は無料じゃない。祈りは、香と金と宝石で払え」

 学院長の声が大聖堂の石壁に反響し、新入生たちは誰もが息を呑んだ。

 ――魔法学院入学式当日、ウルム大聖堂。

 石造りの天井は、空そのものみたいに高かった。ステンドグラス越しの光が床に赤と青と金の帯を作り、その上を僕たち新入生が静かに踏んでいく。

 香と金と宝石。
 奇跡の対価として並べられた三つのうち、最後の一つだけが、どうしても気になった。

 宝石がただ綺麗なだけでは終わらない。
 ここでは、それにも役目がある。
 そう思うだけで、胸の奥が少し熱くなる。

 最前列は王族、ついで貴族、平民と席が下がる。けれど、腰掛けは皆同じ。祈りのための粗末な木のベンチだった。神の前では平等――そういう建前だけが、ここでは生きている。

 その建前のおかげで、伯爵家の庶子である僕も、この場に座っていられる。

 その列の中に、僕の知っている顔があった。貴族席の前方にフォルテ。隣には白いショールを胸元で留めたピアノ。平民席の端で紫の外套が揺れ、リーゼロッテも座っている。

 壇上中央に立った学院長が、杖で床を一度叩いた。

 こん、と乾いた音が響き、ざわめきがすっと消えていく。

「入学生諸君。ようこそ、魔法学院へ」

 声は老いていても、背筋だけは剣のようにまっすくだった。

「本年度の入学生は、貴族籍98名、平民89名。合計187名である」

 僕は無意識に数を頭の中でなぞり――

 〈多いね〉

 耳の奥に、ひょい、と明るい声が差し込んできた。

(瑠璃さん?)

 〈おはよ、ジャスパーくん。ひさしぶり。宝石のことで、ちょっと忙しくてさ〉

(それで、最近まったく現れなかったんだ)

 〈うん。やっと一息ついた〉

 場違いなはずのその軽い調子に、妙にほっとした。

 僕が頭の中で返事する間にも、学院長の話は続いている。

「当学院は、貴族と平民を区別せぬ。いや――区別してはならぬ」

 壇上の視線が、前列に座る貴族の上をゆっくりとなぞった。

「貴族の者は、平民を見下すな。自らの家名が、魔力の前では無力となることを忘れるな」

 ざわ、と小さく波が立つ。

 学院長は言葉を切り、まるで古い法律文を読み上げるように続けた。

「――サリカ法を思い出せ。後継者は、魔力の最も多い嫡子である。魔力の多寡は、血筋を越える。ゆえに当学院は、魔法の学びを血筋で閉ざさぬ」

 その言葉を聞いたとき、僕は妙な気分になった。

 魔力があるから、僕はここにいる。
庶子でも、紋が出たから伯爵家の子として数えられた。
そう考えると救いみたいで、同時に少しだけ寒気がした。

「特に聖職者においては、実質的な差はさらに薄い。平民であろうと、魔力が高ければ高い地位に就ける」

 その瞬間、僕の脳裏に義母グロリアが浮かんだ。

 平民でも、魔力が多ければ上へ行ける。
 たしかに、この世界にはそういう道がある。

 もし魔力量でフォルテを上回れたなら、少しは痛快だろうか。
けれど、すぐに自分で打ち消した。嫡子と庶子では、使える金が違う。宝石に回せる額が違う。

 手が届くかどうかは、また別の話だった。

「――魔法を学ぶには金がかかる」

 学院長の言葉に、どこかの列から嘆息が聞こえた。

「理由は明確だ。魔法――すなわち奇跡の行使には、対価がいる。等価交換の対価として、香・貴金属、宝石が必要だからだ」

 宝石。
 その一語が胸の奥に触れる。

 魔法で原石を探したり、掘り出したり、磨いたり、綺麗に飾ったり。

 そんなことができるなら、どんなにいいだろう。

 でも、この世界では同じ宝石が祈りのたびに削れていく。そこは、どうしても少し惜しい。

 綺麗なものは、できれば綺麗なままでいてほしいから。


 学院長は淡々と続けた。

「金がない者は、教会や商工ギルドからの貸付、奨学金を利用せよ。また、大公家も出世払いの奨学金を準備している」

 一瞬だけ、空気が緩み、別種の緊張が走った。

 借りれば学ぶことはできる。
それは救いだ。けれど、借りは借りだ。

 僕には、最初から道がないわけじゃない。でも、好きな石を好きなだけ試せるほど、余裕があるわけでもない。

 それでも、金がないだけで追い返されるわけじゃない。
少なくとも、学ぶ道は残されている。

 学院長は杖を床に当て、「コン、コン」と二度目の音を響かせた。

「――これより、『神への宣誓の儀式』を行う」

 大聖堂の雰囲気が、ふたたび緊張に包まれる。

「魔力と供物によって奇跡を行使するには、神への宣誓が必要である。言葉を届ける通路がなければ、祈りは神に届かない」

 祈りにも、届くための筋道がある。
 その響きはどこか神聖で、同時にひどく現実的だった。

「まず代表一名が皆の前で宣誓を行う。エカチェリーナ・リプシェ・プシェミスル」

 名を呼ばれたのは隣国ボヘミア王国の姫。留学生であり、一年生の序列一位。

 中央通路を進む足音が一つ、はっきりと堂内に響き渡る。

 長い金髪を背中に流した彼女は、赤を基調とした華やかなドレスを身にまとっている。目線はまっすぐ前を向き、威風堂々と壇上へと上がっていく。

 その歩みには、迷いがない。空気ごと前へ押し分けていくような気配だった。

 〈王族って、すごいわね〉

(うん……それだけじゃない。あの人、自分が何を見せるか分かってる)

 香炉に火が入り、白い煙がゆっくりと立ちのぼる。

 司式(ししき)司祭が一歩前に出た。低い声が堂内に澄み渡る。

「名を告げよ」

「我はエカチェリーナ・リプシェ・プシェミスル、神の忠実な(しもべ)なり」

「香を焚き、祈りの道を立てよ」

 エカチェリーナは香をくべ、煙の中に一瞬だけ視線を落とした。

「黄金を散らし、(ちぎ)りを形にせよ」

 指先からこぼれた金粉が、煙の中で金色に揺れる。

「宝石より、ひとかけら――代償を示せ」

 彼女は迷いなく、首飾りの赤いルビーに左手を添えた。
 さっきまで華やかだった赤が、急に厳かなものに見えた。

「では、神に祈りなさい」

 エカチェリーナは顔を上げ、煙の向こうを見据えた。

「高き天の上より見守りたまう神々よ。我が名はエカチェリーナ。香を焚き、黄金を散らし、宝石のひとかけらを捧ぐ我は誓う。

 諸神を敬い、無辜を害さず、禁忌を(もてあそ)ばぬ。ここに我が紋を祈りの道として認め、祈りを御座へと導きたまえ。

 我が身に神印を!」

 祈りが終わった瞬間、大聖堂に沈黙の(とばり)が落ちた。

 三拍。

 四拍。

 ルビーから砂粒ほどの欠片(かけら)()がれ、音もなく香の煙へと溶けていった。

 やがて、司式司祭が宣言した。

(なんじ)の紋に、祈りの道は開かれた。これを神印とする」

 エカチェリーナが何かを確かめるよう、二度、三度と瞬きをする。胸元の紋が、淡く白く光った。

(神様から返事が来た!)

 次は、僕ら全員の番だった。
 それぞれが宝石に左手を添え、香が焚かれ、金粉が舞う。

「高き天の上より見守りたまう神々よ――」
 祈りは合唱となり、石壁を伝って天井へ昇り、また降ってきた。

 その響きがあまりにも神々しくて、僕は呼吸の音さえ立てたくなかった。

 三拍。

 四拍。

 僕のエメラルドの(ふち)から砂粒ほどの欠片(かけら)()がれ、香の煙に吸い込まれていく。

 その直後だった。

 手袋の中で右手中指が黄色く光った。
 続けて、左の薬指が銀白に。さらに、胸元の奥で、濃い紫が一瞬だけ燃えた。

(しまった)

 一瞬で、心臓が跳ね上がる。

 儀式の熱に呑まれて、左手と胸元の模様のことが意識から抜けていた。
 布越しでも見えたかもしれない。そう思った途端、背中が冷えた。

 今、ここで見咎(みとが)められたら、言い訳が立たない。

 〈動かないで。みんなも光ってるから〉

 瑠璃さんに言われて初めて、周囲のあちこちで淡い光が走っているのが見えた。

 百八十七の光の中に、僕の異常も紛れたようだ。

(助かった)

 司式司祭の声が、堂内のざわめきを切り裂いた。

「――(なんじ)らの紋に、祈りの道は開かれた」

 張りつめていた緊張が、少しほぐれた。

 僕は恐る恐る、自分の紋に意識を寄せた。
 見えた。天へと伸びる、糸ほど細い光の筋が。

 一本。
 ……いや、三本。

 二本は手から。三本目は胸元から。

(……胸?)

 背筋が粟立つ。数じゃない、場所だ。
 男の紋は右手だけ。胸は女の領域――それが教会の教え。

 左手と胸。
 僕の体は、その教義を裏切っている。

 知られたら、異端だ。

 〈隠し通すしかないんじゃない?〉

(そう、だよね)

 ただの模様なら誤魔化せた。

 けれど今日、はっきりした。あれは模様じゃない。神々に認められた、魔力紋だ。

 覚悟はしていた。それでも、確定は重い。

 魔法が使える喜びに触れる前に、喉の奥から声にならない息が漏れた。



 ***

 次話:土魔法の効能

「錬金や抽出に魔力を割く必要があるか? 紋なしでもできるだろう」

 土魔法の教師が言うと同時に、砂地の足場が音もなく沈んだ。