イヤホンを外したら。

イヤホンを外してみる。
電車の中で外すと他人の会話が。
歩いている途中で外すと車の走る音や足音たちが。
カフェで外すと心地の良いBGMが。
閉鎖的だった僕の世界は、一気に広がっていく。
ただしばらくすると、鬱屈な日常も一緒に襲ってくる。
来月で僕はもう30歳になる。
7年付き合った彼女とは先日お別れを告げたし、父親は病気がちで寝込んでいる。
イヤホンは日常から目を背けるためのツールだ。
僕はまたワイヤレスのイヤホンを手に取り、音楽アプリを開いて、好きな曲を流し始める。

夕暮れの帰り道。
僕はイヤホンをして歩道橋の階段を上っていた。
好きな曲も聞き飽きて、音楽にもう用はない頃だった。
歩道橋の真ん中で、鳩が1人のおじさんに群がっていて、鳩が苦手な僕は小走りで通り過ぎようとした。
俯いて小走りになっていたのか、爆音で音楽を聞いていたせいか、1匹の鳩が目の前に突然現れたことに気づかなかった。
「うわっ!」と大きな声をあげて、腰をぬかしてしまった。イヤホンは歩道橋から転げ落ち、車がビュンビュン通る道路へと消えていった。
「大丈夫かい?」
丸くなった背格好のおじさんが、こちらに手を差し伸べてきた。思っていたよりも優しい声色だった。
僕はその手は掴まず、「大丈夫です」と言い残し、片耳だけ残ったイヤホンを握りしめ、急いで歩道橋を渡りきった。

次の日、イヤホンをせずに僕は帰り道についていた。
せかせかと走る車や、人の笑い声が、前に進まない僕のことを馬鹿にしているように感じた。
イヤホンを落とした歩道橋を上がった時、1匹の鳩が横切っていった。
顔をあげると昨日のおじさんが歩道橋から空を見上げて黄昏ている。
その姿を見て、この人はどんな日常を感じているのだろうと思った。
一瞬足を止めてしまったからか、おじさんがこちらに気づいたようだった。
「ああ、昨日の。怪我はないかい?」
その日も優しい声色だった。
「はい、昨日はありがとうございました。せかせか帰っちゃって、すみません」
「いいんだよ。これ君のだろう?」
そう言って差し出してきたのは、昨日落としたはずのイヤホンだった。
「拾ってくださったんですか。ありがとうございます」
車に轢かれて粉々になっていると勝手に思い込んでいた。
「ずっとこの時間はここで車や空を見ているんだ。ただ日常に身を委ねる。そうすると小さなことも気づく。道の片隅に落ちていたイヤホンにも」
「日常に鈍くなっちゃってるんですかね。僕は」
「鈍くなってはないよ。顔を上げて周りをみたらいい。夕焼けのオレンジ色が、今日は少し濃くて綺麗だなあ、とかに気づくだけで、人は少しほっとする」
「ありがとうございます。なんか日常が良いものな気がしました」
「またここへおいで」
初対面の人とこんなに自分の話をしたのはいつ以来だろう。小学生の頃は見知らぬ人にも挨拶してたなあ、なんてことを思った。
「また来ます」
そう言い残し、歩道橋をゆっくりと歩いた。

次の日からは雨が続いて、歩道橋におじさんはいなかった。
雨が上がって、また夕焼けが綺麗な時間に歩道橋へ行っても、おじさんはいなかった。
ただ1匹の鳩がいて、鳩は首を前に突き出しながらこちらに歩み寄ってきた。
いつもなら嫌だなと感じる鳩も、少しだけ愛おしく思えた。
僕はポケットに入っていたお菓子を鳩にあげて、
その歩道橋を後にした。
きっとおじさんの日常はどこかで続いている。
なぜかそう思った。

帰り道、歩道橋に近づくと僕は決まってイヤホンを外した。
いつもよりちょっと濃いオレンジ色の夕焼けが、
どこかへ向かう車の音が、
親と子の楽しそうな笑い声が、
今の僕には少しだけ心地よく感じた。