君だけが知っている、僕の「大丈夫」の居場所

 あの日のことは、もう誰も覚えていないみたいだった。
 でも僕だけが、少しだけ覚えすぎている。
 僕の周りは、何も変わっていない。
 いたって平和だ。

 放課後、クラス委員の集まりがあっていつもより帰る時間が遅くなった。
 外はもう薄くオレンジ色に染まり始めていた。
 6月に入り、衣替えで一気に夏らしくなった校内は、これからの夏の暑さに備えているように今はとても静かだ。
「よし、帰ろう」と呟いて昇降口へと向かった。
 もちろん、誰からも返事はない。
 廊下を歩く自分の足音だけが響いていた。
 
 靴を履き替え、昇降口の扉から出たところで後ろから声がかかった。
 
「透、もう帰る?」
 
 振り返ると律がひとりで立っていた。
 スラッとした出で立ちに、スタイルの良さ。
 改めて立っているところを見るとモデルみたいだなと思った。
 半袖のYシャツから出ている白い腕が、薄いオレンジ色に照らされて、やけにきれいに見えた。
 
「律……? どうしたの?」
「一緒に帰ろうと思って」
「……僕と?」
 ここには僕しかいない。
 僕に話してるんだから、僕しか考えられないのに、つい、口から出ていた。
「うん、透と。他にいないでしょ」
 笑いながら言う律に、そりゃそうかと、心の中でツッコミを入れた。
 でもなんでだろう。
 今まで一緒帰ったことなんて、一度もなかったのに。
 疑問に思いながらも、「うん、帰ろう」と返事をし、律につられて笑った。

「律は徒歩だっけ? 自転車取ってくるから、少し待ってて」
 僕は走って駐輪場まで行って、自転車を取ってきた。
 息が荒くなった。
 自転車のハンドルを握る手をぎゅとして、1回深呼吸してから、律に声をかけた。
「おまたせー、行こう」
「おう」
 校庭から聞こえる部活の声に、背中を押された気がした。

「律はこっち方面?」
 校門を出た先の十字路で左を指を差しながら聞く。
 まっすぐ行くと、大通りに出る道だ。
 車の音がかすかに聞こえている。
「うん、歩いて10分くらい」
「そんなに近いのかー、いいなぁ」
「透は、自転車だとどのくらいかかるの?」
「20分くらいかな」
「ちょうどいい運動だな」
 律は笑いながら言った。
 律の家の近くまでは、一緒に帰れるようだ。
 並んで歩くのは、なんだか不思議だった。
 自転車のハンドルを握る手は、じとっと暑い。

「今日、放課後何かあったの?」
「うん、クラス委員の集まり。進路説明会あるみたいで、それの係決めとかあって、少し時間押した」

「そっかぁ、もうそんな時期だよな。透は進路決めてるの?」
「うーん、とりあえず大学は行く。
 でもまだ正確には決まってない」
「律は? 進路どうするの?」
「俺も、大学は行く。でもどこにするか悩み中」
「そっかぁ。お互い無事に決まるといいな」

「そういえば、今日も島津先生に何か頼まれてなかった?」
「うん、なんだったかな。忘れちゃったけど」
 笑って律の方を見たけど、律は表情を変えなかった。
 毎日何かしら頼まれているから、小さい頼まれ事はほとんど忘れる。
 今日もきっと、「運んでおいて」か「まとめておいて」か「片付けお願い」のどれかだろう。
 
「またどうでもいいことだろ、断らないの?」
「うーん、別に嫌じゃないし、なんか反射的に『はーい、大丈夫です』って返事しちゃってるんだよね」
 ははは、と笑ってみせた。

 律が足を止めて、じっとこちらを見ている。
 
「透ってさ」
 
 名前を呼ばれてドキッとした。 
 前に進む訳にはいかず、足を止める。
 手には汗がじんわりとにじんで、目には律が映る。

「無理して笑ってるよな」

 律の言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
 
「……うん? そんなことないよ」
 予想外の言葉に、否定した。
 無理して笑ってるつもりは、もちろんなかった。
 帰路を進もうと、足を動かそうとしたら、律が口を開いた。
 
「でも、それでもちゃんと周り見てるの、すごいと思う」

 そんなふうに言われたこと、あっただろうか。
 いつもは「助かった」とか「ありがとう」とか、そういう言葉をもらうことばかりだった。
 すごいと思う、なんて。
「そ、そうかな。……でも、ありがとう」
 胸の奥に、知らない温度が残った。

 あっという間の帰り道。とても短い10分だった。
「俺、こっちだから。透はまっすぐだよな?」
「うん、じゃあまた明日」
 自転車に跨って、手を振る。
 でも律は、少し俯いてこっちを見てくれなかった。
 何か、よくないことをしちゃったのかなと考えていると、律はハンドルを握る僕の手を、上から掴んだ。
 
「待って。今日、この前のこと謝ろうと思って……」

 いつもの律とは違う、脆くて小さい声だった。
  
「この前のこと……?」
 からかわれたことかな。
 少し思い出すだけでも、なんか……戸惑う。
 それでも口にするのは、憚られた。
 
「プリント配ってる時、変な空気にしちゃって……ごめん」
 律は、まっすぐに僕を見ていた。
 僕は首を横に振った。
 律は、何も悪くない。
  
「……ううん。こっちこそ、ごめん。
 ありがとう」
 覚えすぎてたのは、僕だけじゃなかった。
 それが少しだけ、嬉しく思えた。 
 
「今日はそれが、言いたかった。また明日な」
 律が手を振る。
 そういうことか。
 それに応えるように、優しく手を振り返した。
 律に触れられた手には、不思議な温かさが残っている。
 
 さっきまで普通だったはずの笑顔が、急に軽くなった気がした。
 ひとりになった帰り道は、風が少しだけ違って感じた。