君だけが知っている、僕の「大丈夫」の居場所

 あれから、毎朝律は教室の前の入り口から入ってきて「透、おはよう」と挨拶をしてくれるようになった。
 律の低く落ち着きのある声で1日が始まるのは、不思議と心地よかった。
 朝の予鈴が鳴るか鳴らないかくらいのタイミングで登校してくる律に、いつも感心してしまう。
 よく、遅刻しないよなぁ……。

 1時間目が終わり、教科書とノートを片付けていると足音もなく担任の島津先生が教室に入ってきた。 
「白藤ー、悪いんだけどこの前集めたプリント、記入漏れ多いから直させといて」
 目を見開いて静かに驚いていると、手に持っていたプリントの束を渡された。
 覇気のある声に圧倒されつつ、島津先生に名前を呼ばれるのにはもう慣れた。 
「はい、わかりました」
 当たり前のように返事をしてプリントを受け取った。
 これは1人ずつ渡して、直してもらうやつか。
「あ、できれば今日中にお願いな」
 島津先生はさっと、教室からいなくなった。
 最後にまぁまぁな難題を残していった。

 とりあえず、いつメンの名前のプリントを探す。
 大樹と中野の名前が見つかった。
 芹沢の名前はなかった。さすがだなぁ。
 ちょうど弁当を食べようと集まってきたところだった。
「はい、大樹と中野。記入漏れあるって。
 今日中に書いて提出だよ」
 
「うわー、まじか。めんどくさー」
 大樹はそのままの感情を口にする。
 良くも悪くも、素直だ。
 中野は、すんなり受け取った。
「え、わかった。ありがとう」
 と言いつつ、めんどくさいという気持ちはにじみ出ていた。
 芹沢が俺は?という顔でこちらをじっと見ている。
「芹沢はないよ」 
「よっしゃー」と小さくガッツポーズをする芹沢がなんだかおかしかった。
 そんなに嬉しい? と思いながらも、芹沢は本当しっかりしている、というか真面目だからなと思う。
「えーずるいー」「いいなぁ」と大樹と中野がそれぞれ口を尖らせていた。

 さっそくプリントの束を持って席を立つ。
「プリント配ってくるから、先にお昼食べてて」
「おっけー」
「大変だったら、手伝うから言ってー」
 うう、優しいなぁ。
「ありがとう」と声をかけて、名残惜しく思いながら席を離れた。
  
 昼休みでお弁当を食べながら、談笑する声が教室に溢れている。
 この賑やかさを掻き分けて面倒事を渡すのは、少し気が引けた。
 
 後ろの方に集まっている男子の集団のところへ行く。
「これ、記入漏れあるって」
 いかにもめんどくさいという雰囲気の中、プリントを渡す手がモタモタする。
 すると、やっぱり……
「えーめんどー」
「ごめんね、今日中でお願い」
 悪い雰囲気にならないように、笑って謝る。
 すると、そこにいたひとりが笑いながら言葉を挟んだ。
「白藤って先生の犬だよな」 
 一瞬笑いが遠退いた気がした。
 
 それを聞いた周りも笑っている。
「あー、たしかに飼い慣らされてる?」
「うんうん」
 そんな風に見られてたのか。
 たしかに、先生に頼られてはいるけど。
 波風立てずに、平穏にと、誤魔化すように笑った。
「そうかな〜、ははは」
 言葉と反応に困っていると、ふいに、輪の隣から声がかかった。

「それ、面白いか?」

 思わず、身体が固まった。
 さーっと冷たい空気が流れた。
 でも……聞き覚えのある声だ。
 
 振り向くと、律だった。
 急に話に入ってきた律に、男子たちは敵意剥き出しだ。
「は?」
「黒澤には関係なくない?」
 とヤジのような言葉が出てくる。
 
 空気がどんどん重くなるのがわかる。
「プリント集めたり、クラスの雑務色々やってもらってる側が笑うなよ」
 律はトドメの一言のように言い捨てた。

 教室の後ろの異様な空気に気づいた大樹たちが、心配そうにこちらを見ているのが見えた。

「そういう意味で笑ってないよ」
 誰かが反論した。
 どういう意味だよ、と心の中で突っ込んだ。
 僕は居た堪れなくなって、いつもの言葉を口にした。 
「大丈夫だよ、じゃあ記入よろしく」
 いつもより、明るい声を意識した声は、届いただろうか。
 苦笑いを浮かべて、律の背中を押して逃げるように廊下へ出た。
 
 ぐっと力の入っていた口を緩めて、声を出した。
「……律、ごめんね。なんか、ありがとう」

「お礼はいらない。俺がムカついただけだから」
 と言い残して、律は教室とは反対の方向へ行ってしまった。

 自分の居場所だけが、静かになった。
 ひとり残された僕は、どんな顔して教室に戻ったらいいんだろう。 
 先生の犬だと言われたことより、律の言葉の方が、ずっと胸に残っていた。