君だけが知っている、僕の「大丈夫」の居場所

 翌朝、自分の席に座り、朝のホームルームが始まるのをぼーっと待っていた。
 
「白藤、おはよう」
 突然、上から言葉が振ってきて、思わず身体がビクッとした。
 見上げると、黒澤律が立っている。
 
「あ……お、はよう」
 言葉が上手く出てこなくて、ぼーっとしていたことを後悔した。
 黒澤律の凛とした感じは相変わらずだけど、心無しか息が上がっている気がした。
 黒くて艶のある髪も、慌ただしく動いた後の様相だ。
 彼は朝、ギリギリに滑り込むタイプなのかな。
 思わぬ一面を見た気がして、頬が緩んだ。
 こちらの動揺はなかったことのように、彼は僕からの拙い「おはよう」を受け取り、自分の席へと向かっていった。
 
 彼からの「おはよう」はこれが初めてだった。
 ちゃんとおはようって言いたかったのに……なんて反省していると、チャイムが鳴った。
 担任の島津先生が「おはよう!」とハキハキと教室に入ってくる。
 僕の「おはよう」とは正反対だった。

 出席確認で、黒澤律の名前が、今日はやけにはっきりと聞こえてきた。
 自分の名前が呼ばれるまでは、点呼の声に集中してる。先に黒澤が呼ばれるんだから、まぁ当然か。
 自分の名前が呼ばれ、「はい」と返事をする。
 少し声が震えた気がして、静かに下を向いた。
 きっと自分にしかわからない、そんな誤差だったと思う。
 
「アンケート配るぞ〜。簡単なやつだから、今日の放課後までに書いて提出な」
 島津先生がアンケート用紙を配りながら、説明する。
 クラスメイトの動揺の声と、紙の所在がぱらぱらと動く音がまたたく間に広がっていく。
 またアンケートか。ということは……

「藤白、悪いけど、放課後集めて職員室まで持ってきてくれるか?」
 担任のやけに明るい声が僕に向かってきた。
 そうですよね、と心の中で呟く。
 
「はい、大丈夫です。持っていきます」
 とクラス委員としてにこやかに返事をした。
 僕は帰宅部で、バイトもしていない。
 そう、放課後はほとんど暇も同然なんだ。
 暇は、言い過ぎかもしれないけど。
 高3ということは、立派な受験生でもある。
  
 それから、いつも通り、席に座り授業を受ける。
 そろそろお腹がぎゅるーっとなる頃だ。
 教科書をめくる指先は、つるんとした紙に触れるたびに冷たさを感じる。
 昨日の違和感を完全に消せないでいる。

 頼られるのも、お願いされるのも、悪い気はしない。
 頼られて、「ありがとう」と言われるのは嬉しい。
「無理、かぁ……」と心の中で盛大に呟く。
 僕の「大丈夫」に、嘘は、ないと思う。
「大丈夫」は僕にとって魔法のような言葉なのかもしれない。
 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、僕のお腹も音を立てた。

「お腹すいたー」
 と芹沢が弁当を持ってやってきた。
 ちょうど席を立とうとしていた女子に、さらりと声をかけて椅子を借りている。
 こういう時、芹沢はとてもスマートだ。
 テニス部で、スマートな男はモテるだろう。
 
 大樹と中野も弁当を持って集まってくる。 
「なんか今日めっちゃお腹空いて、さっきの授業ほとんど聞いてなかった」
 大樹がぼやきながら、僕の隣の席に腰を下ろした。
「いつもだろー」と中野が突っ込み、近くの椅子に座った。
「相変わらず、大樹の弁当大きいよなぁー」
  
「ほんとに、よくこの量食べれるね」
「弁当箱の世界だったら1位の大きさだよな」
  
 弁当箱の世界でも1位であろう大きさの弁当箱とおにぎりがふたつある。
 これがすべて身体に収まるのは、本当にすごい。
 大樹の180近い身長に、がっしりした体格は、このお弁当でできているのだろう。
 
 昼はだいたい僕の席に集まって食べている。
 僕が動かないのは、少し申し訳ないと思いながらも、今の座席でほどよく空いているのが僕の席周辺なのだ。
 みんなそれぞれ家から持ってきた弁当を広げ始めた。
 教室内があっという間にお弁当の匂いに包まれる。
 ご飯を食べながら、いつメンとくだらない話で盛り上がる。
 一日の中で一番楽しい時間かもしれない。

 芹沢が珍しく、僕の弁当を覗き込んできた。
「白藤の弁当ってさ、なんかいつも綺麗だよな」 
「そう?」と僕が返すと、中野が口を開く。
「ちゃんと仕切りがある感じ?」
「あー、そう! きれい! 美味しそう」
 まぁ、たしかに。
 きれいに弁当の具材が敷き詰められている。
 これが当たり前で、なんとも思ってなかったけど……
「あ、褒めてくれてる?母さん几帳面なんだよー」
 と笑いながら返すと、大樹が
「そうそう、透の母ちゃんは几帳面だな、透そうでもないけど」とケラケラ笑っていた。
 
 僕の席から一番離れた席で、黒澤律がひとりでお弁当を食べているのに気がついた。
 いつもひとりで食べてるのかな?
 いや、今日はたまたまひとりなのかもしれない。
 そんなことをちらりと思い、おにぎりの最後の一口を頬張った。
  
 昼休みも残りわずかとなった。
 授業で使った資料の片付けを頼まれていたんだった。
 軽い立体的な教材が入った段ボール箱と、紙の資料が入った紙袋が教卓の上に残されている。
 
 弁当を食べ終わり、先に大樹が部活の用事があると抜けていった。
 自分も教材を片してくるとふたりに伝えると
「そうだったの? 手伝う?」と言ってくれた。
「ううん、少しだから大丈夫!ちゃちゃっと行ってきちゃうね」
 優しいなぁ、と思いつつも、いつもの言葉が出てしまった。

 思ったより軽いので、ひとりでも十分運べる量だ。
 重くなくてよかったと、ホッとした。
 後回しにすると面倒になってしまうから、先に片付けようと思っていたが……
 今日は空腹に負けた。

 廊下にも、お弁当の匂いが漂っている。
 その匂いの真ん中を通って、準備室に向かう。

「それ、半分持とうか?」
 思わぬ声に、お弁当の匂いが一瞬で消えた。
 振り返ると黒澤律が立っていた。

「う、わぁ、黒澤律……くん……?」
 間抜けな声と共に、フルネームで呼んでしまった。
 頭の中で黒澤律と呼んでいたことがバレそうだ……。
 少しの気まずさを残し、黒澤律の方を見ると笑いを堪えるような顔をして、静かに答えた。

「律でいいよ」
 少し低くて落ち着いた声は、笑みを含んでいた。

 急な提案にすぐに答えることができなかった。 
「う、あ、律……? ……僕も、透でいいよ」
 思わぬ下の名前呼びに、口も胸もぎゅっとなった。
 距離が縮まったようで、縮まらない恥ずかしさが声と共に廊下に残った。

「じゃあ、透。よろしくね」
 律は、ゆるりと口角を上げて笑っていた。
 こんな顔して笑うのか。
「うん、よろしく……?」
 何のよろしくなのか、よく分からず、またもや変な返答になってしまった。
 でも、律は笑ったら、可愛げがあるのに。
 いつもは少し凛としているから、話しかけづらいオーラがある。もったいないなぁと思った。

 律は、僕が持っていた段ボール箱を取って
「これどこに運ぶの?」
 と聞いてきた。
 あまりに当たり前のように、荷物を取られてしまい、僕の足は止まった。
「あ、えっと……資料室だよ」
 それを聞いた律は、スタスタと資料室目指して進み始めた。
 僕も慌ててついていく。
 資料室までは無言で歩いた。
 すぐそこだと思っていたのに、いつもの倍長く感じた。

 資料室のドアを開けると、ほこりっぽい空気に迎えられた。
「ありがとう、そこのテーブルの上に置いて」
 箱は、小さく「とん」と音を立てて、置かれた。
 律が持ってきてくれた箱から、中身を取り出し棚に戻す。 
  
「それ、透の仕事?」
 黙っていた律が口を開いた。
 空気が、止まった気がした。
「……うん、頼まれて」
 頼まれたのは事実だ。そして引き受けたのも事実。
「そんなにたくさん?断れば?」
 え、断る……? クラス委員なのに?暇なのに?
 とりわけ用事がない限り、断るということをしない。
 だから、断るという選択肢がなかった。
 俯きながら、理由を探す。
「うーん……断る、理由がないよ……」
 そのままを言葉にして、律の方を見る。
 目が合ったが、律は何も言わずに、棚に戻す作業も手伝ってくれた。

「ありがとう。……助かった、よ」
 狭い資料室の一角がやけに静かになった。
 自分から出てきた言葉なのに、頭にははてなマークが浮かんでいる。