地味で堅物なメイドですが、キラキラ侯爵令嬢に変身した私に坊ちゃんが恋をしました【完結】

実用性を重視した平らな石畳の上を、華美な装飾が施されたか細いヒールで歩いていく。
見上げれば、シーツやシャツが、午後の柔らかな風を受けて、バサバサと翼を広げていた。

ここは物干し場だ。
作業をしていたメイドのみんなが、深々と頭を下げていく。

――何だか夢を見ているみたいだ。
坊ちゃんがここにいらっしゃるなんて。

本当に戻って来てくれたんだ。
理解した瞬間、目尻が熱くなった。
ダメよ。ダメダメ。今の私はクロエなんだから。

「こちらが僕のアトリエです」

ヴァレリオ様の手が、薄汚れた扉を開いていく。
私は周囲を見回すフリをして、ヴァレリオ様に目を向けた。

ヴァレリオ様は気恥ずかしそうにしながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべている。
私にはそれが堪らなく嬉しくて。

「部屋自体はこの通り酷い有様ですが、手入れは行き届いているでしょう?」
「ええ。良き奉仕者をお持ちのようですね」
「はい。三年間、それもたった一人で掃除をしてくれていたんです」
「えっ……」

私は思わず言葉を失った。

坊ちゃんはご存知だった?
私が――フィオーラがここを掃除していることを。

一体いつから?
誰かに教えてもらった? それともご自分で……?

「本来なら、きちんと断るべきでした。僕はもう一生、筆を執るつもりはなかったので。けど……言えなかった」
「……なぜ?」
「彼女に失望されるのが怖かったんです。ははっ……情けない男でしょう」

ヴァレリオ様はそう言って自嘲気味に嗤う。
私のことを『熱心なファン』だと思って、心を砕いてくださったんだろう。
本当にお優しい方だ。

「……むしろお止めいただかなくて、良かったのかもしれません」
「というと?」
「そのメイドは、貴方が筆を折られたことに、何かしらな責任を感じていたのではないでしょうか。それで、じっとしていられなくて――」
「責任だけですか?」

サファイアブルーの瞳が暗く沈む。
酷く寂しげだ。どうしてそんなお顔をなさるのですか?
戸惑う一方で、なぜだか胸も高鳴って。

「もっと個人的な……例えば、僕にもう一度絵を描いて欲しいとか……そういった願望のようなものはなかったのでしょうか?」
「っ! そっ、そうですね。少なからずあったのかも?」
「本当ですか!?」

ヴァレリオ様のお顔がぱぁっと華やぐ。
きゅ~~っと閉じられた目、胸の前でギュッと握り締められた拳は、まさに『よっしゃー!』と言わんばかりで。

……困ります。そんなふうに返されては。
貴方は、励ましてくれたのがクロエだったから戻って来てくれた。
私では、フィオーラでは叶わなかった。
……そうでないと困る。困るんです。

私は壁際で穏やかに微笑むビアンカちゃんを一瞥して、きゅっと唇を引き結ぶ。

「それじゃあ、お礼を言ってもいいのかな?」
「っ、お礼は言わない方がよろしいかと!」
「どうしてですか?」
「秘密でお掃除をなさっていたのでしょう? 表立ってお礼を言われるのは、その……彼女も本意ではないのでは?」

焦ったせいか、ちょっと……いえ、かなり早口になってしまった。
けど、ヴァレリオ様が不審に思うことはなかったようだ。
うんうんと深く頷かれている。

私の数多の()()を思い返しているのだろう。
居た堪れない。物凄く。

「じゃあ、()()()()()感謝の気持ちを伝えてみようと思います」

ご納得いただけたようだ。
これなら深く踏み込まれることはない。
礼あるいは目礼で、完結させることが出来るだろう。

ああ……っ、良かった……。
内心でほっと胸を撫でおろす。

「えっ…………」

ヴァレリオ様がじっとこちらを見ている。
かと思えば、目を泳がせて。
かなり戸惑っている様子が見て取れた。

背中に嫌な汗が伝う。
疑われてる? いえ、だとしても大丈夫よ。
仮に疑われてたとしても、ステッキの力でゴリ押せるはず。
私は必死に平静を装って、ヴァレリオ様に問いかける。

「何か?」
「いいえ! その……失礼致しました。クロエ様があまりにもお美しくて、つい見惚れてしまって。でっ、では、始めましょうか!」

ヴァレリオ様に促されるまま、木製のスツールに腰掛ける。

流石は侯爵令嬢といったところか、クロエは幼少期の頃から肖像画を描いてもらっているようで、モデルの経験は豊富にあった。

だから、そつなくこなせるはず。
不安に思うことなんてないのに、私は酷く緊張してしまっていた。

「楽にしていただいて結構ですよ。え~、じゃあ、まずは……顔を僕の方に向けていただけますか?」

気付けばヴァレリオ様は、イーゼルの前に立っていた。
手には木炭を持っている。
私と目を合わせるなり、すっと笑顔を消して――。

「…………」

峻烈(しゅんれつ)な勢いで描き始めた。
木製のイーゼルがガタガタと震え出す。
木炭の黒い粉が雪のように舞って、ヴァレリオ様の指先や、生成りのシャツの袖口を汚していく。

けれど、当人はまるで気にする様子はない。
ただ、無我夢中で木炭を走らせていく。

「「…………」」

メイド長様と先輩は、ヴァレリオ様が絵を描いているところを見たことがなかったのか、やや気味悪がっている。
執事様は見慣れているためか無反応。
ビアンカちゃんは大興奮だ。私もそれに近い。
勿論、決して表には出さないけど。

「ヴァレリオ様。作業を始められてから、もう二時間になります。そろそろ、一息つかれてはいかがでしょうか」
「僕はいい。クロエ様にお茶を」
「……はっ」

坊ちゃんは……残念ながら、全然楽しそうじゃない。
だけど、必死に何かを求めるそのお姿は、とても輝いて見えた。

出来ることなら昔のように、その何かを見つけて、無邪気に喜ぶお姿も見てみたいけど……これ以上欲張ったら、罰が当たるよね。
苦笑しつつ、カップに口を付ける。

どうやら彩色もなされているみたいだ。
クロエは来週には帰国することになっているから、今のうちに拾えるだけ拾っておこう……ということなのだろう。

そういえば、今お描きになっている絵はどうなるんだろう?
やっぱりクロエがいなくなったら、消えちゃうのかな?

「みゃお」
「「「っ!!!」」」

窓の縁に一匹のネコが座っている。
尻尾の先だけが白い、すらりとした体型の茶色いネコ。
ネコさんだ! どうしてここに――。

「ペンネロ! 久しぶりじゃないか」

ネコさんはスタタタタッと走り抜けて、ヴァレリオ様の足元でゴロンゴロンし出した。

まるで酔っぱらっているみたい。
私が持っているあの『一欠片の絵』を手にした時と同じ反応だ。
ヴァレリオ様の絵を味わってる? のかな?

っていうか、ネコさん名前あったんだ。
今度から私も『ペンネロ』って呼ばないと。

「ああ、すみません。一人で盛り上がってしまって」
「ふふっ、いいえ。もしかして、お名前の由来は『絵筆』?」
「はい! 何だかこの子、絵筆に白い顔料を付けたみたいでしょ――」
「ヴァレリオ様、お時間でございます」
「えぇ゛!!? ほっ、本当に!?」

ってことは、もう六時間も経ったのか。
本当にあっという間だったな。
体感で言えば三時間ぐらい。

体力的にはまだまだいけるけど、私がこの回でクロエでいられるのは、あと一時間だけだ。
名残惜しいけど、予定通り引き上げよう。

「足りない、こんなんじゃ全然……っ」
「ふふっ、まだあと一回お会いする機会があるではありませんか」

そう。それが()()だ。
以降は関わりの薄かった人から順に、クロエのことを忘れていく。
坊ちゃんもまた、例外なく。

それでいいと思っていた。
反面、いざ目前に迫れば、寂しくなるんだろうな〜……とも思ってたんだけど、今の私はなぜだかほっとしている。

これ以上嘘はつきたくないって、そう思っちゃったのかな。
何かしっくりこないけど、まぁ……そういうことにしておこう。