ある日の夕方。
仕事を終えた私は、一人お屋敷の『裏棟』を歩いていた。
ここは端的に言えば、使用人達の作業場だ。
厨房や洗濯場、各職人達の作業スペースが軒を連ねている。
だから、装飾は一切施されていない。
壁は無機質な白灰色の塗り壁、床は実用性を重視した硬く平らな石畳だ。
左右の壁際には、木箱やリネンの籠、掃除道具の入った戸棚が整然と並んでいる。
「…………」
私はそんな廊下で立ち止まり、周囲を見回す。
そして、廊下に誰もいないことを確かめると、掃除用具を手にして――勢いよく駆け出した。
これは何も盗みを働こうとしているわけじゃない。
とあるお部屋に入るまで、誰の目にも触れたくないからだ。
特にあのお方には――。
「あ……」
今日もまた遭遇してしまった。
そのお方――ヴァレリオ様は、ビアンカちゃんとお話をされているようだ。
逆光しているせいで二人の表情こそ見て取れないけど、とても楽しげで……まるで恋人のようだった。
『服装が乱れております。一体何をされていたのですか』
『っ!!? ちっ、違う! 僕はモデルをしていたんだ! 断じてその……女性と淫らな……っ、とっ、とにかく、そういうのじゃないからね!!』
昼間、ヴァレリオ様が必死になって否定されていたのを思い出す。
ビアンカちゃんとそういった関係にあるのなら納得だ。
「……どうしよう」
個人的には応援したい。
けど、それは茨の道だ。
主人と使用人では、あまりにも身分の差が大きすぎる。
友達として、止めるべき……なのかな?
「や、やぁ! フィオーラ」
「っ!」
しまった。ヴァレリオ様が私の存在に気付いてしまったようだ。
私は掃除用具を手にしたまま、その場で一礼する。
「やっ、やほ! フィオーラ! あ、えと……バイバーイ!」
ビアンカちゃんは私の存在に気付くなり、大慌てで駆け出した。
やっぱり見られたくなかったのかな。
「ああ、ビアンカさん! いいところに。すみません。また、教えていただきたいことが……」
走り出して間もなく、ビアンカちゃんが誰かに呼び止められた。
相手は――日陰にいるせいで誰だか分からないけど、メイドみたいだ。
おそらくは新人。
正式な指導係がいるはずだから、本来であればビアンカちゃんに指導を乞うのはNG。
ビアンカちゃんも、断らないといけないんだけど……うん。難しいよね。
「いっ、いいともー! 詳しい話は向こうで聞くよー!」
「ありがとうございます!」
二人がバタバタと慌ただしく去っていった。
後には、私とヴァレリオ様だけが残る。
ヴァレリオ様のお顔は、相変わらず逆光のせいでよく見えない。
唯一ハッキリと見て取れるのは、口元だけだ。
これは好都合。むしろ有難い。
私はまだ自分の身の振り方を決めかねている。
こんな状態でヴァレリオ様の幸せそうなお顔、或いは助けを求めるようなお顔を見てしまったら、私は……。
「お疲れ様」
「恐れ入ります」
一礼して足を踏み出す。
いつもならこれで済む。
ヴァレリオ様は笑顔で私を見送り、再び窓の外に目を向けられる――はずが。
「どこに行くの?」
今日に限って行先を訊ねて来られた。
まっ、まずい。必死に頭を働かせて、何とか言い訳を捻り出す。
「……東棟の小サロンへ。先ほど通りかかった際に、窓の曇りが気になりまして」
「なっ、なるほど! 相変わらず熱心だね」
「いえ。サヴィオラのお屋敷を清潔に保つのが、私どもハウスメイドの務めでございますので」
「そっ、……そっか……」
ヴァレリオ様の口端が――光と影の境目にある口端が引き攣っている。
可愛げのない女だと、そうお思いになったのだろう。
「……っ」
私はその瞬間、強い怒りを覚えた。
――私はビアンカちゃんとは違う。
私は『ゼンマイ仕掛けのメイド』。
歯車に従って動くことしか出来ないんだから……って。
「……失礼致します」
一礼してその場を後にする。
人目を避けながら向かったのは、『物干し場』だ。
天井には木の梁が渡され、滑車で上下する物干し竿がいくつも吊るされている。
今日は天気が良かったからか、洗濯物はもう何も残っていなかった。
洗い立ての布の匂いだけが、ふわりと漂っている。
そんな部屋の奥には小部屋が一つ。
そう。ここが私の目的地――ヴァレリオ様のアトリエだ。
こんなところにアトリエがある理由。
それは何も、嫌がらせを受けてのことじゃない。
ヴァレリオ様自らが、好んでこの場所にアトリエを築かれたのだ。
何でもヴァレリオ様の目には、ここが開放感あふれる活気のある場所……というふうに映るらしい。
貴人が庶民の生活に憧れる、所謂『ないものねだり』ってやつなのかな。
正直、私にはよく分からない。
「さて、始めますか」
3年前のあの日から、週に1回のペースで掃除をしてきた。
家令様とヴァレリオ様の専属執事のモーリス様には、きちんと許可を得ている。
ただ、ヴァレリオ様本人には秘密にしていた。
だってこんなもの……私の自己満足でしかないから。
「でも、ビアンカちゃんとのこともあるし……もういい加減やめるべきなのかな」
灰茶色の薄汚れた扉が、ぎぃ……と軋んだ音を立てながら開いていく。
部屋に入ると、左手の窓から夕陽が差し込んでいるのが見えた。
元は古布置き場だったということもあって、天井の木の梁には節が多い。
壁は粗削りな漆喰で、下地の赤煉瓦がところどころ顔を覗かせている。
手前の机の上には筆、瓶や蝋燭が置かれ、 使い込まれた木の天板には、絵の具の染みが幾重にも重なっている。
机の横には空っぽのイーゼルと、丸い座面の木製スツール。
奥の棚には顔料や溶剤、ニスが入った小瓶が並んでいた。
うん。いつも通り……じゃない!!
アトリエの真ん中に、とんでもないものが落ちていた。
「ふにゃ~~」
猫だ。両手両足を広げて天井を見上げている。
色は茶色。……いや、よく見たら尻尾の先だけ白い。変わった模様の猫だ。
一体どこから入ってきたんだろう? 窓も扉も閉まっているのに。
……ん? ちょっと待って。この猫、どこかで……?
「ふっ、不覚……! こっ、こんなはずでは……っ」
「しゃっ、喋った!!?」
「おっ、……おぉ! 貴様、掃除婦か! いいところに来た! その箒でいいから、この鱗粉を集めて吾輩に飲ませてくれ!」
「りっ、鱗粉……?」
よく見ると、猫の周りには金粉のようなものが散らばっていた。
もしかして、あれが……?
「はっ、早くしてくれ! このままでは吾輩は死んでしまう~っ」
どうやら本当みたいだ。
猫の体が鈍く明滅して、その度に薄くなっていっている。
「わっ、分かったわ。ちょっと待ってね」
箒でせっせと鱗粉を集めて、猫を腕の中に寝かせる。
猫が「あが~」と口を開けたので、私は鱗粉の乗った塵取りをそっと傾けた。
「お゛ええ゛ぇえ! ゲホッ! ほっ、ほこりが!」
「ごっ、ごめん!」
「うぐぐっ! せっ、背に腹は代えられん! やれ!」
「はっ、はい!」
言われるがまま、残りの鱗粉を流し込んでいく。
やがて、すべてを飲み終えると、猫は私の腕からぴょんっと降りていった。
「掃除婦よ、面倒をかけたな。礼を言う」
「いえ……」
ツッコむタイミング、すっかり逃がしちゃった。
当たり前のように喋ってる。おまけにとても尊大だ。
妖精さん? 神様?
とにかく、何か特別な存在なんだろうけど、やっぱり見覚えがある気が……あっ!
はっとして、ポケットの中から巾着袋を取り出す。
中に入っているのはヴァレリオ様の絵。
あの日、無断で持ち出したキャンバスの切れ端だ。
それには猫の絵が描かれている。
その子とこのお方? がどうにも似ているような気がして。
「……む? むむむむっ!!?」
猫の目の色が変わった――と、思った瞬間。
「きゃっ!!?」
私は勢いよく押し倒された。
手の中から、巾着袋の感触が抜けていく。
仕事を終えた私は、一人お屋敷の『裏棟』を歩いていた。
ここは端的に言えば、使用人達の作業場だ。
厨房や洗濯場、各職人達の作業スペースが軒を連ねている。
だから、装飾は一切施されていない。
壁は無機質な白灰色の塗り壁、床は実用性を重視した硬く平らな石畳だ。
左右の壁際には、木箱やリネンの籠、掃除道具の入った戸棚が整然と並んでいる。
「…………」
私はそんな廊下で立ち止まり、周囲を見回す。
そして、廊下に誰もいないことを確かめると、掃除用具を手にして――勢いよく駆け出した。
これは何も盗みを働こうとしているわけじゃない。
とあるお部屋に入るまで、誰の目にも触れたくないからだ。
特にあのお方には――。
「あ……」
今日もまた遭遇してしまった。
そのお方――ヴァレリオ様は、ビアンカちゃんとお話をされているようだ。
逆光しているせいで二人の表情こそ見て取れないけど、とても楽しげで……まるで恋人のようだった。
『服装が乱れております。一体何をされていたのですか』
『っ!!? ちっ、違う! 僕はモデルをしていたんだ! 断じてその……女性と淫らな……っ、とっ、とにかく、そういうのじゃないからね!!』
昼間、ヴァレリオ様が必死になって否定されていたのを思い出す。
ビアンカちゃんとそういった関係にあるのなら納得だ。
「……どうしよう」
個人的には応援したい。
けど、それは茨の道だ。
主人と使用人では、あまりにも身分の差が大きすぎる。
友達として、止めるべき……なのかな?
「や、やぁ! フィオーラ」
「っ!」
しまった。ヴァレリオ様が私の存在に気付いてしまったようだ。
私は掃除用具を手にしたまま、その場で一礼する。
「やっ、やほ! フィオーラ! あ、えと……バイバーイ!」
ビアンカちゃんは私の存在に気付くなり、大慌てで駆け出した。
やっぱり見られたくなかったのかな。
「ああ、ビアンカさん! いいところに。すみません。また、教えていただきたいことが……」
走り出して間もなく、ビアンカちゃんが誰かに呼び止められた。
相手は――日陰にいるせいで誰だか分からないけど、メイドみたいだ。
おそらくは新人。
正式な指導係がいるはずだから、本来であればビアンカちゃんに指導を乞うのはNG。
ビアンカちゃんも、断らないといけないんだけど……うん。難しいよね。
「いっ、いいともー! 詳しい話は向こうで聞くよー!」
「ありがとうございます!」
二人がバタバタと慌ただしく去っていった。
後には、私とヴァレリオ様だけが残る。
ヴァレリオ様のお顔は、相変わらず逆光のせいでよく見えない。
唯一ハッキリと見て取れるのは、口元だけだ。
これは好都合。むしろ有難い。
私はまだ自分の身の振り方を決めかねている。
こんな状態でヴァレリオ様の幸せそうなお顔、或いは助けを求めるようなお顔を見てしまったら、私は……。
「お疲れ様」
「恐れ入ります」
一礼して足を踏み出す。
いつもならこれで済む。
ヴァレリオ様は笑顔で私を見送り、再び窓の外に目を向けられる――はずが。
「どこに行くの?」
今日に限って行先を訊ねて来られた。
まっ、まずい。必死に頭を働かせて、何とか言い訳を捻り出す。
「……東棟の小サロンへ。先ほど通りかかった際に、窓の曇りが気になりまして」
「なっ、なるほど! 相変わらず熱心だね」
「いえ。サヴィオラのお屋敷を清潔に保つのが、私どもハウスメイドの務めでございますので」
「そっ、……そっか……」
ヴァレリオ様の口端が――光と影の境目にある口端が引き攣っている。
可愛げのない女だと、そうお思いになったのだろう。
「……っ」
私はその瞬間、強い怒りを覚えた。
――私はビアンカちゃんとは違う。
私は『ゼンマイ仕掛けのメイド』。
歯車に従って動くことしか出来ないんだから……って。
「……失礼致します」
一礼してその場を後にする。
人目を避けながら向かったのは、『物干し場』だ。
天井には木の梁が渡され、滑車で上下する物干し竿がいくつも吊るされている。
今日は天気が良かったからか、洗濯物はもう何も残っていなかった。
洗い立ての布の匂いだけが、ふわりと漂っている。
そんな部屋の奥には小部屋が一つ。
そう。ここが私の目的地――ヴァレリオ様のアトリエだ。
こんなところにアトリエがある理由。
それは何も、嫌がらせを受けてのことじゃない。
ヴァレリオ様自らが、好んでこの場所にアトリエを築かれたのだ。
何でもヴァレリオ様の目には、ここが開放感あふれる活気のある場所……というふうに映るらしい。
貴人が庶民の生活に憧れる、所謂『ないものねだり』ってやつなのかな。
正直、私にはよく分からない。
「さて、始めますか」
3年前のあの日から、週に1回のペースで掃除をしてきた。
家令様とヴァレリオ様の専属執事のモーリス様には、きちんと許可を得ている。
ただ、ヴァレリオ様本人には秘密にしていた。
だってこんなもの……私の自己満足でしかないから。
「でも、ビアンカちゃんとのこともあるし……もういい加減やめるべきなのかな」
灰茶色の薄汚れた扉が、ぎぃ……と軋んだ音を立てながら開いていく。
部屋に入ると、左手の窓から夕陽が差し込んでいるのが見えた。
元は古布置き場だったということもあって、天井の木の梁には節が多い。
壁は粗削りな漆喰で、下地の赤煉瓦がところどころ顔を覗かせている。
手前の机の上には筆、瓶や蝋燭が置かれ、 使い込まれた木の天板には、絵の具の染みが幾重にも重なっている。
机の横には空っぽのイーゼルと、丸い座面の木製スツール。
奥の棚には顔料や溶剤、ニスが入った小瓶が並んでいた。
うん。いつも通り……じゃない!!
アトリエの真ん中に、とんでもないものが落ちていた。
「ふにゃ~~」
猫だ。両手両足を広げて天井を見上げている。
色は茶色。……いや、よく見たら尻尾の先だけ白い。変わった模様の猫だ。
一体どこから入ってきたんだろう? 窓も扉も閉まっているのに。
……ん? ちょっと待って。この猫、どこかで……?
「ふっ、不覚……! こっ、こんなはずでは……っ」
「しゃっ、喋った!!?」
「おっ、……おぉ! 貴様、掃除婦か! いいところに来た! その箒でいいから、この鱗粉を集めて吾輩に飲ませてくれ!」
「りっ、鱗粉……?」
よく見ると、猫の周りには金粉のようなものが散らばっていた。
もしかして、あれが……?
「はっ、早くしてくれ! このままでは吾輩は死んでしまう~っ」
どうやら本当みたいだ。
猫の体が鈍く明滅して、その度に薄くなっていっている。
「わっ、分かったわ。ちょっと待ってね」
箒でせっせと鱗粉を集めて、猫を腕の中に寝かせる。
猫が「あが~」と口を開けたので、私は鱗粉の乗った塵取りをそっと傾けた。
「お゛ええ゛ぇえ! ゲホッ! ほっ、ほこりが!」
「ごっ、ごめん!」
「うぐぐっ! せっ、背に腹は代えられん! やれ!」
「はっ、はい!」
言われるがまま、残りの鱗粉を流し込んでいく。
やがて、すべてを飲み終えると、猫は私の腕からぴょんっと降りていった。
「掃除婦よ、面倒をかけたな。礼を言う」
「いえ……」
ツッコむタイミング、すっかり逃がしちゃった。
当たり前のように喋ってる。おまけにとても尊大だ。
妖精さん? 神様?
とにかく、何か特別な存在なんだろうけど、やっぱり見覚えがある気が……あっ!
はっとして、ポケットの中から巾着袋を取り出す。
中に入っているのはヴァレリオ様の絵。
あの日、無断で持ち出したキャンバスの切れ端だ。
それには猫の絵が描かれている。
その子とこのお方? がどうにも似ているような気がして。
「……む? むむむむっ!!?」
猫の目の色が変わった――と、思った瞬間。
「きゃっ!!?」
私は勢いよく押し倒された。
手の中から、巾着袋の感触が抜けていく。

